dix
「して」
ラピスラズリの青が瞬く。
錬金術を売り歩く商人は興味深そうに少女を見つめていた。
「それからメメント・モリ―――メメ様は、会ってくれないか」
マリーは俯きがちに頷いた。
錬金術の商人に促されて、マリーはメメント・モリと自分のことをほとんど話してしまった。
ずっと、家の人以外にメメント・モリのことを話せる相手がいなかった、というのもある。好きな人のことを、奇妙だが優しい人だと誰に教えるわけにもいかず、引き裂かれそうな胸の内にしても、これまで打ち明ける相手などなかった。メメント・モリが普通でないと、知っていたから。
マリーは町を去ったあと、失恋の傷を秘したまま入寮し、新しい学校生活を過ごすことになった。
新しい寮の部屋に入っても、教室の席に着いても、メメント・モリに去られた悲しみはどうしても消えなかった。来る日も来る日も泣いて、ぼんやりとし、ルームメイトを心配させたり、クラスメイトを気味悪がらせたりする日が続き、やがて孤立して塞ぎこんだまま三ヶ月を過ごした。
そして冬の最初のクリスマス休み。久しぶりに故郷に戻り、屋敷に帰った。
もしかして、彼は戻ってきてくれるかもしれない。そんな淡い期待は、もろくも崩れ去った。
屋敷の人たちはあれからメメント・モリを見ないと言った。マリーは屋敷の人たちの気遣わしげな目から逃げるように、屋敷の中を見て回り、メメント・モリの痕跡を求め、あの地下へと続く通路がないか探し回った。
しかし、すべては徒労に終わった。あのぬかりないメメント・モリがマリーに見つけられるような出入り口を残しておくわけがなかった。
そんなとき、偶然出くわしたのがやけに装飾的な紳士の背中姿だった。
放牧地の道を散歩して教会に向かっていると、目の前に歩いている白髪の男が、階段を上るように空を歩き始めた。
空を歩くおじいさん。
マリーははっとした。前に、こんな怪談があると言ったら、メメント・モリはそれは自分の友だと話していた。
思わず声をかけていた。マリーは知りたかった。メメント・モリは今どうしているのか。
そして、自分の知らないメメント・モリの姿を知りたかった。
針葉樹の下に腰かけ、マリーは黒い靴の爪先を見つめた。歩きながら話せるような短い話ではないと悟ったのか、錬金術の商人はマリーをこの木の下に誘った。錬金術の商人は終始聞き役に徹し、マリーからすっかりもやもやと心に蟠っていた澱を吐き出させてしまった。
不思議な人だ、と思う。人見知りのマリーは会ったばかりの人とこれほど話をしたことはなかった。
ふむ、と考え込んで、錬金術の商人は言った。
「それにしても、あのメメント・モリがメメ様かね。随分可愛らしい愛称がついたものだね」
「あの・・・」
「ああ、違う違う。じいさんも結構長生きな部類に入るが、あの方は更に長生きであの見た目だからね、これまでそこまで気安い仲になった人を知らなかったのだよ」
マリーは目を見開いた。
錬金術の商人は、悪戯っぽくウインクした。
「じいさんが知る限り、メメント・モリが―――いや面白いからメメ様と呼ぼうか。メメ様がそこまで長く見守った人間は聞いたことがない。マリー嬢が初めてである」
そうだったのか。
少しの沈黙の後、マリーはぼんやり首を横に振った。
「どうして」
「ん?」
「それじゃどうして、私じゃダメだったのかしら」
マリーは膝に顔を埋めた。
メメント・モリの友人だという錬金術師が言うのだから、やはりメメント・モリは例外的にマリーの前に長い間姿を現していた。それならば、マリーの告白に消えてしまったのは何故なのかという思いが募る。
自惚れていた。メメ様がこんなに長くフォール家の人々の前に現れたことは過去にないと家でもいわれていた。例にないほど親身ともいわれていた。それは少なからずマリーを好いていたからだと思っていた。
それだけに、ショックは大きかった。振られたのもショックだったが、二度目のショックは冬休みに帰ってきたときだった。
マリーの存在の有無に関わらず、メメント・モリは屋敷の人々の前に姿を現していなかった。まるでお役御免とばかりに。それは完全なる決別を表わしていて、もう二度とマリーを含める当代フォール家の人たちの前に姿を見せないという決意にほかならなかった。
「悲しいの。寂しいの。私はメメ様のことが大好きだった。メメ様のことしか考えられなくなるくらいに・・・それなのに、メメ様は違うんだ。私はただフォール家に生まれた、子孫のうちの一人。知的好奇心じゃなくて、恋心でメメ様を求めているのだと知って、あの人興味がなくなったんだわ、きっと。私はその程度の子だった」
錬金術の商人はふむ、と考え込んで、それから首を横に振った。
「いいや、それは違う、マリー嬢。自分を卑下してはいけないよ。メメ様はそんな薄情な人かい」
「・・・どうかしら」
「マリー嬢、メメ様は君を大切に思っていたさ。今までそばにいてくれた、マリー嬢の話を受け止め、優しく慰めてくれたメメ様は嘘なのかい」
「・・・いいえ」
「そうだろう。いけないよ、マリー嬢、メメ様を急に嫌な人間に仕立て上げては。メメ様がマリー嬢を大切に思っていた気持ちは本物だ。メメ様はそういう人だ」
世の中の悲しさを嘆いていた人。
生き生きとさまざまなことを教えてくれた人。
暗黒の雰囲気を纏っていながら、マリーが傷付いたらとても狼狽えていたような人。
ただマリーのそばに寄り添って、気の済むまで一緒にいてくれた人。
温かい、人。
そうだ。あんなに優しい人はいない。
母や、屋敷の人たち以外に、あんなにマリーを大切にしてくれ、包み込んでくれた人はいなかった。
だからこそ、失って悲しい。
悲しい。
「それなら」
マリーの涙は、ぬぐってもぬぐっても止まらない。
「私を大切に思ってくれているのなら、どうしてメメ様は、そばにいてくれないの・・・?」
マリーはメメ様のことが一番好きだった。メメ様にとって、それが受け入れられないということであれば、仕方がないと思う。
だけど、いきなりいなくなってしまうなんて、あんまりではないか。
マリーがメメ様を愛していると、何がいけないのか。もうそばに、いてくれないのか。
『メメは死と同じように、マリーのそばを離れはしない』
そう言っていたのは嘘なのだろうか。
マリーのそばを離れて、今、地下のあの部屋で一人で何をしているのだろう。
そこに行けるのなら、マリーは一目散に駆けていくのに。
メメント・モリのもとに行くのに。
錬金術の商人は首を大袈裟に横に振った。
「分かってないね、マリー嬢。その歳なら仕方がないがね。マリー嬢、君はメメ様のことを何も分かっていない。あの人は深い深い闇を見つめることを生業として選んだ人だ。愛しているという君を、自分のそばに置いておけるわけがないではないかい」
「知っているわ」
マリーは顔を上げて、語気を強めた。
「メメ様が色んな錬金術師の辛い記憶と向き合ってるって知ってる。だからこそ、死を忘れることなかれ、ってメッセージを込めて、人に生きていることを実感してもらえるものを作っているって。だって、私は『記憶保管庫』を開けてしまったことがあるもの」
『記憶保管庫』と言った途端、ふっ、と錬金術の商人の顔から表情が消えた。
「そうか、あれはまだあの人のもとにあったか」
錬金術の商人の表情がさきほどと違うので、マリーは口を噤んだ。錬金術の商人は遠い記憶を見つめるように、道の向こうに広がる牧草地を眺めた。
何か悪いことを言ってしまっただろうか。
「あ、あの・・・」
「いや、すまない。急に感傷に浸ってしまったね」
錬金術の商人の横顔は、穏やかだった。
「そういえば、メメ様は『記憶保管庫』の錬金術師たちの記憶を使って、『わざわいの種』を作るのは反対していたね」
「『わざわいの種』・・・」
「知っているかい?」
「聞いたことはあるわ」
「そうかね。あれはワタシが主導して作ったものだった」
あまりにあっさりとした言い方だったが、マリーは驚きに目を見開いた。
「あなたが?」
「あれの効能を知っているかい」
「いえ、錬金術師の辛い記憶を使って作ったとしか・・・」
「そうかい。『わざわいの種』はね、アーモンドのような形をした、木の実のようなものだ。誰でも食べられるものだと分かるような感じのね。食べた人間はあらゆるわざわいを受ける」
やけに錬金術の商人は暗い目をしていた。
「かつて錬金術師が受けた辛苦のような、ね」
マリーは言葉を失った。メメント・モリなら、「嘆かわしい・・・」と言うところだろう。許されないことのようにも思えたし、やりきれないとも思った。
「そんなこと・・・」
「そう、そんなことだ。今ならそう思えるけれどね。『わざわいの種』には制約があってね、それは『わざわいの種』を誰かに食べさせた人間がいたら、その人間は食べた人間と同じ辛苦を受けるというものだ」
「何で・・・あなたも苦しんだの?」
「ああ、同じ苦しみを受けた」
「何でそんなこと。そんなものを作ったの?」
「錬金術師たちが偏見の目に曝され、罪を被せられて次々に拷問と死刑の責苦を受けることになったのは、ワタシの父のせいであった」
マリーは息を呑んだ。錬金術の商人の、ラピスラズリの瞳は、暗く、深い淵を映していた。
「父は自分が人の道に外れた償いに自ら命を絶った。ワタシにその原因となった錬金術の品を預けてね。自分が死ねばそれで済むと思っていたんだね。しかし公に実験を行い、神秘と不思議を追い求める錬金術師への不信感は、父が死ぬ前から高まっていた。血抜き死体事件が起き、矛先がすぐに錬金術師に向かったのもそのせいだった。父が血を集めることを辞めて、黙したまま死んだところで、何もかも遅かった。我々は断罪された。とてもむごい仕打ちだった。何も悪いことをしていない錬金術師たちは、虐げる対象を求めていた民衆の不満のはけ口となったのだ。そんなとき、メメント・モリが自分の隠れ家にみんなを匿うと言った」
ラピスラズリの瞳とオレンジのレンズを光らせ、急に錬金術の商人は悪戯っぽくマリーの微笑みかけた。
「あの人は何歳だと思う?」
「さあ・・・百歳とか?」
「それだとじいさんより年下になるね。聞いたところによると1320年には生れていたって言っていたよ」
マリーは絶句した。得体が知れないとは思っていたけれど、1320年生まれなど想像もできない。
道理であんな死神のようなオーラを出すわけだと納得できるような、できないような。百歳だってすごいのに。
というか、目の前にいる人は一体いくつなんだろう。
「メメ様は自然現象が神によって創られていると考えられていた頃の人だ」
構わず、錬金術の商人は言葉を続けた。
「相当若い頃、魔術の研究に没頭していたらしい。さまざまなものに手を出していたようだけれどね。学問にまだ分野など作られていなかった時代のことだ。貴族の嫡男として悠々自適な生活を送っていた」
「嫡男だったの?」
「そのときはね。あることが起って、彼は自分の姉の夫に家督を譲り、もっと研究にのめり込むようになった。さて、お嬢さんに問題だ。十四世紀にヨーロッパ全土が曝された危機とは何だったか?」
マリーはすぐにぴんときた。
「ペスト。黒死病ね。ヨーロッパの人口の、三分の一の人たちが亡くなった」
「そう、当たり。当然、病はこの町にもやってきた」
マリーははっとして、目の前の道を見つめる。向こうに広がる牧草地、それから葡萄畑。道をずっと進んだところには、人々が住む町があっり、教会の尖塔が見えた。
穏やかな、古きよき町だった。ゆったりとした時間が流れるこの空間にも、病はやって来たのだ。
「メメント・モリは前に話していた。病気にかかった人たちは次々に死んだ。人々は怯え、教会に閉じ籠った」
マリーと共に遠くを見つめ、錬金術の商人は淡々と語る。
「嫡男として人々を救わねばならない若いメメ様は、ここで多くの人が死ぬのを見た」
あの灰色の瞳に、映したもの。
魔術に没頭していた、裕福な貴族の青年は、病に倒れる人々と逃げ惑うしかない人々、そして多くの死を見つめた。
「その当時は病の正体が分からなかったから、人々は狂乱状態。怯えて死体に近寄らない。死体は道際に放置され、腐り、ペストだけならず他の伝染病まで引き起こした。メメ様は屋敷が建っている丘の下にあった舞踏会場に病人をみんな収容した。たくさん人が死ぬものだから、舞踏会場に大きな穴を掘って死体を埋めた。人手がないから自ら看病に走り回り、死体の処理をした。だが看病も虚しかった。昨日まで看病していた人が、ついさっき連れて来られた人が、死んでいった。男も女も、老いも若きも、貴賤も、貧富も関係なく」
メメント・モリ。
死を忘れることなかれ。
死の舞踏を呼び起こす品を、彼はいくつも作っていた。
マリーは骸骨たちが踊る様子を一度だけ見せてもらったことがある。男の骸骨、女の骸骨。腰の曲がった骸骨もあれば、小さな骸骨もいて、聖職者の格好をしている骸骨、ボロを纏っている骸骨、皆入り乱れて、踊りまわっていた。
それはメメント・モリが目にした真実だった。
「奇跡的にペストに罹らなかったメメ様は、流行が去った後、舞踏会場をすべて埋め立てた。そして自分の姉と夫に家督を譲り、自分は地下で研究を始めた。みなが怯え、易き精神の安定を求めて狂乱状態に陥らないにはどうすればよいか、考え始めたんだね。あれほど人が死に、悲しみを覚え、しかしすべて一緒くたに埋め立ててしまったことを、メメ様はとても気にしていた。それで、再びそうならないようにするためには、どうすればよいか研究を始めたのだ。その結果」
錬金術師の商人は、優しげに微笑んだ。
「メメ様は永遠の命を得るための研究を始めた。医術や博物学、魔術すべてを混ぜてね。実験を自分自身に重ねていたうち、いつの間にやら、どうやったか分からないままに自分が随分と長生きする人間になっていたらしい」
「・・・なんだか、メメ様らしいわ」
「そうかね。まあ、そうかも知れない。賢者の石、命の水の開発をしていた錬金術師は、そんなメメ様に目をつけたんだ。不老長寿、メメ様は錬金術師が求める片鱗を持っていた。多くの錬金術師がメメ様のもとを訪れたんだよ。メメ様も他人が永遠の命を持てるようにと、新しく錬金術の研究を行うようになった。その当時からメメント・モリの思想に浸っていて、生の無常と死の無情とをよく語っていたというよ。何故人は思いやりを持って生きられないのか、優しく生きられないのか、と嘆き、死ねばみんな同じ屍、と嘆いていた。まあ、変な人だったね」
「当時から、口癖だったね」
「『嘆かわしい・・・』ってね」
マリーと錬金術の商人は顔を見合わせて、くすくすと笑った。
「じいさんが作っていた『わざわいの種』のことも、そう言ってたね。じいさんはその当時、何故いちいちメメ様がそんな嘆いているのか分からなかったけれども」
「おじいさんはどうして『わざわいの種』を作ろうと思ったの?」
「父から証拠の品を渡されたときだがね」
錬金術の商人は、黒いシルクハットのつばに手をやって、胸の奥底から拾い上げるように言葉を発した。
「父の罪はじいさんがすべて背負おうと思った」
父の人殺しの罪と、錬金術師たちを追い込んだ罪だ。
「じいさんの親族は皆、錬金術師だったけれど、錬金術をもう行わないと誓って、去った。迫害された錬金術師たちは父のことを何とも言わなかったが、目は責めていた。じいさんはそれを背負わなくてはならなかった。せめて、錬金術師たちの苦しみを、迫害を引き起こす世間に訴え、人々に伝えることが罪滅ぼしとなると思った。『わざわいの種』を使ってね」
少し恥ずかしそうに、錬金術の商人は目を泳がせる。
「恥ずかしい。格好悪いぞじいさん。じいさんは自棄になっていたのだ。人に不幸を撒き散らし、苦しみを押しつけたとて、それは増幅するのみ。・・・悲しみや苦しみをぶつけるために、みんなで『わざわいの種』を作って、あちこちにばら撒いたがね。そのせいで苦しんだ人がいたと思うとね・・・自分のやった馬鹿馬鹿しい行動に後悔は絶えない」
マリーは錬金術の商人を見つめ、ふっと息を漏らした。
「おじいさんでも、間違いは犯すのね」
「むしろ、長く生きているから、たくさん間違えたことがあるのだね。しかし、そんな自棄になっていたじいさんの間違いを教えてくれたのも、メメ様だったね」
また驚くところだ。メメ様は一体どうしてそういうところで出てくるのだろう。
「『わざわいの種』の制約通り、苦しみを受けた人の苦しみをじいさんは受けていた。肌を焼かれたり水に突き落とされたり。普通死ぬところなんだがね、錬金術をやっていた頃に幾度も自分で永遠の命の実験を行っていたらそう簡単に死なない、しかも長生きする体質になったらしくてね。じいさんはなかなか死ななかった。だからいくらでも『わざわいの種』を色んなところにばら撒き続けたね。ひどいことをした。そんなじいさんの前にメメ様が現れた。身ぐるみはがされて湖に沈められていたところだったっけね」
メメント・モリはその当時、まだ錬金術の商人でなかった流浪の元錬金術師を助けてやり、温かい火を焚いて「もういいんじゃないか」と言った。
驚いていたら、メメント・モリはひとつの品物を取り出した。銀細工の唐草模様が美しい、オルゴールだった。サン=サーンスの「死の舞踏」という曲を聴いて、触発されて作ったらしい。
「死の舞踏」を聴いて、メメント・モリはかつてペストで多くの人が、老いも若きも、貧富も貴賤も性別も関係なく死んでいった日々を思い出した。死ねばみな同じ死体だった。いずれは腐り、土となり、骨だけになる。
あまりに多くの死を見ると、もっと生きるべきであるとみんな考えるに違いない。『死の舞踏オルゴール【メメント・モリ】』は、オルゴールを聴く者を幻想に引き込み、貧富貴賤関係ない骸骨たちの舞踏会の幻を見せ、死は平等にやってくる、死はそばにある、生をもっと生きよ、と伝えたいと作ったものだった。
「どうせあちこち歩き回るなら、これを求める人を探してくれないか」
死人のような風貌の男にそう言われて、錬金術の商人は錬金術の商人となることを決めた。
「人が死なないように、不安に逃げ回らないようにと永遠の命を研究し続けてきた男が、不幸を撒き散らしているワタシに生きろと言う」
お前のせいではないんだよ。
ずっと自分を責め続けていないで、自分と他人のために生きようとしてごらん。
つまりは、そういうことだった。
錬金術の商人は、優しく、莞爾とした。
「メメ様は、死を見つめ続けた人だ。お嬢さんが考えているよりもずっと、ずーっと長く。それがために、これほど長く生き続けた人だ。優しいから、誰かの危機を、フォール家の困難を放っておけない。マリー嬢を、放っておけない。だが、死を見つめて生き続け、止まぬ探究を遂行する生はあまりに闇に満ち、おぞましさと恐怖の連続がつきまとう。メメ様は、マリー嬢をそんなところへは連れて行きたくないのだよ」
マリーはいつの間にか泣いていた。
メメント・モリが見続けた世界に、悲しみと死と理不尽さ。そして優しさ。すべてがあの、死神ような愛情深い男を形作っていた。
あの地下の舞踏会場の、多くの人の命の上で、二度と悲劇が起らないよう考え続けていた。
たった一人で。
「大丈夫かね?」
「・・・あまりにも」
マリーは目を瞑って、じっと心に彼の姿を思い浮かべた。
「あまりにも、いとしくて」
切ない。
メメント・モリの優しさは、想像だにできない、人間への愛情だった。
うずくまり、涙を流し続けるマリーを見て錬金術の商人は溜め息をつき、頷いた。
「その気持ち、分かるよ」
黒い鞄を引き寄せ、中を探ると白い紙のようなものを出した。
「メメ様は地下室で今も研究を続けている。じいさん、今日会ったがね。いつも通りに見えたが、こんな可愛いお嬢さんを泣かせていたかと思うと一発殴ってやりたくなるね」
おどけて言いながら、錬金術の商人は白い紙と万年筆をマリーに差し出した。白い紙は蝶々の形をしている。
「この紙はただの紙と思うことなかれ。『羅針儀付き連絡蝶』という。気持ちを込めてメッセージをこの紙に書き、宛名を書けば、この蝶はその人に紙に書かれた気持ちを運んでいってくれる」
マリーは目を丸くした。
「協力してくれるの?」
「まあ、返事がくるか分からないがね」
錬金術の商人は悪戯っぽく微笑んだ。
マリーは『羅針儀付き連絡蝶』を受け取って、何を書こうか・・・と考えた。たくさん書きたい気もするし、何も書けない感じもした。
会いたかった。好きだった。ありがとうを言いたかった。また出てきて、マリーのそばにいて欲しかった。
結局、そんなとりとめのない、千切れそうな気持を短い文にして書き入れただけになった。
これで本当にメメ様に気持ちが伝わるのだろうか。
一抹の不安を胸に、マリーは宛名と差出人を書き終えた。
「書き終えたかね?では、手のひらに『連絡蝶』を載せて。空に向けて、放して」
あたりはもう暗くなりかかっていた。薄闇に染まる空気に、マリーが飛ばした『連絡蝶』はひらりと羽ばたき、翅を鮮やかな茜色に染めて、燐光を散らしながら飛んで行った。
「少しは親への情のようなものではないかとお見立てしていたのだが」
錬金術の商人は、光る茜色の蝶々を見送って、呟いた。
「茜色に染まる恋の色。切ない片思いの色だね」
書かれた内容の気持ちによって、『連絡蝶』の色は変化するという。
錬金術の商人は微笑んだ。
「まったく。これからもメメ様と呼んでやろうかね、あのペシミスト」
「あ・・・おじいさん、長い間引き止めてすいません。お話をたくさん聞かせてもらえて、嬉しかったです。ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」
マリーのさっぱりした、何か吹っ切れた表情をしげしげと眺め、錬金術の商人は苦笑した。
「どうやらじいさんの話は、君にもっとメメ様を大好きにさせてしまったみたいだね」
マリーは微笑んだ。
想像だにできない、メメント・モリの人生。
メメント・モリは死者を忘れていない。悲しみを忘れていない。その深さに、マリーは圧倒されてしまう。
それでも、だからこそ、メメント・モリは優しかったし、今はマリーの目の前にいないのだと思う。
茜色が闇に消えていくのを見つめながら、マリーは言った。
「ええ。見えなくたって、そばにいなくたって、愛しているわ」
メメント・モリから返事が届くことはなかった。




