cinq
メメント・モリ。
それが【死を忘れるな】という意味の言葉だと知ったのは、マリーが六歳の頃だった。
マリーの町の教会の神父は歴史好きで、日曜日の説経のついでに、いつも歴史的な出来事をピックアップして短い談話にまとめて話をしてくれた。大人にはおもしろく、子供には退屈なその授業を、いずれマリーは楽しみにするようになったのだが、六歳のマリーはあまり好きではなかった。
だが、「メメント・モリ」という思想がある、という事柄だけには興味を引かれた。
【死を忘れるな】。
生を楽しめ、という警句が、「自分はいずれは死ぬものである」、「贅沢や享楽、名誉などは虚しいものだ」、という思想に変容していったということ。多くの人が死したペストの蔓延と直面し、ヨーロッパにその思想は、強く、退廃を伴って、広がったという。
死はすぐ隣にある。貧富も、貴賤も関係なく、死は平等に訪れる。
死の恐れと、生への意識を呼びかける言葉。
マリーにとって、衝撃的だった。
それがあの人の呼び名なのだ。
「お母様、どうしてメメ様は、メメント・モリなの?」
帰り道、マリーは母に聞いたが、フローレンスは首を傾げただけだった。
「そういえば、そうね。どうしてかしら」
母にも分からないことがあるのだ。
もやもやが募ったマリーは、その日、屋敷に帰ると、真っ先に自室に走って行って、飛び込んだ。
「メメ様!」
呼ぶと、カーテンの裏から黒い影のように現れる、すらりと背の高い男。
灰色の瞳で、冷たく見下ろす。
「なんだね?」
マリーのもとに届く声は、トーンがやや高く、静かで平板な調子の響きを持っていた。
構わず、栗色の髪を揺らして、マリーは男の足に抱きついた。
メメント・モリはそっとマリーの肩に手を添える。マリーを剥がそうとはしない。
死人のようとか、死神のようとかいわれるメメント・モリだが、見た目に反して体温のある人である。抱きつくとそれがよく分かる。父のような、伯父のような、また別の存在であるかのような、不思議な包容力に、マリーはいつも安心する。六歳のマリーはさすがにメメント・モリが他の人とは何かが違うと気付いていたけれど、身近で大好きな保護者であることに変わりなかった。
顔を反らせて、屈託ない笑顔でマリーはメメント・モリに問う。
「ねえ、メメ様。メメ様は何でメメント・モリなの?」
足に抱きついたまま目をぱちぱちさせて返答を待つと、灰色の冷たい視線が降ってくる。
「まるでジュリエットの台詞だ」
ジュリエット?
マリーは目を丸くした。メメント・モリの口から女性の名前が出たことに驚いたのだ。
急にマリーは口を噤んで、考え込んだ。ジュリエットとは、誰のことだろう。なんだか胸の内に、もやもやと暗雲が垂れ込めてくる。
メメント・モリは不思議そうに急に黙り込んだマリーを見下ろしていた。
灰色の冷たい目と、灰色の小さな目が、ばちりと合う。マリーは不審げに口を開いた。
「ジュリエット・・・って、だれ?」
しばしの沈黙のうち、メメント・モリは額に手をあて、天を仰いだ。
「嘆かわしい・・・」
また始まった。
「我が子孫がシェークスピアの名作をも知らないとは・・・」
確かに、このときマリーはシェークスピアの『ロミオとジュリエット』を知らなかった。
何しろ、絵本は『すてきな三人ぐみ』ばっかりを読んでもらっていたのだから。
メメント・モリはマリーを少し離すと、しゃがんで目線を合わせ、語りかけた。
「次は絵本に『ロミオとジュリエット』を読んであげよう」
「『すてきな三人ぐみ』じゃなくてもいいの?」
「『すてきな三人ぐみ』は素敵な物語だが、そればかりではマリーのためにはならないとメメは今思い知ったところだ」
メメント・モリは蝋のように白い、節くれだった指でマリーの頬を撫でた。
マリーは目をぱちくりとさせた。マリーのためにはならない、というのはどういうことなのだろう。ずっと『すてきな三人ぐみ』だけを読んで、ずっとメメント・モリが一緒にいてくれ、読んでくれればいいのだ。それに何か不足があるのだろうか?
また、胸の内がもやもやとしたが、メメント・モリはマリーの側をすり抜け、絵本を探しに部屋の出入り口に行こうとした。
マリーは慌ててメメント・モリの背中に訊ねた。
「ねえ、メメ様。ジュリエットってだれ?」
出入り口で立ち止まり、メメント・モリは白い手を戸口の縁にかけて、ゆらりと体を傾けた。
「『ロミオとジュリエット』は恋の物語だ・・・」
そして、視線を天井に向け、死神のようなげっそりした顔に悲愴さを浮かべた。
「恋・・・それも死んでしまえば、すべて同じこと・・・嘆かわしい・・・」
マリーにはメメント・モリが何を言っているのか意味が分からなかったけれど、どうやら教会の神父が言っていた「メメント・モリ」の思想と我が家の長老メメント・モリは、それなりの繋がりがあるらしいとは感じていた。
この当時、フローレンスは工場に、畑に、フォール家が金子を貸し付けている先にと出ずっぱりで、大わらわだった。その合間には所縁のある人や、金に汚い輩などの相手もしなくてはならない。マリーが母と過ごす時間は必然的に少なくなった。
それでも日曜日は必ずフローレンスがマリーを教会に連れて行き、相手をしてくれたので、マリーは母親に自分は大切にされているのだと後々まで信じることができた。
メメント・モリに守られているのだという思いが、無意識にマリーの心の余裕を作っていた。
メメント・モリはマリーのために色々なことを教えてくれた。『ロミオとジュリエット』に「ああロミオ、あなたはどうしてロミオなの」という有名な台詞があるということや、メメント・モリが嫌いらしい悲恋の物語の感動、それから本を読める楽しみ。マリーがマリーとなる土台を作ってくれたようなものだった。
安心感。庇護されている感じ。
死神のような、怪異のような男が持っていたのはそんなものだった。
守られていた、というのは感覚だけではない。
メメント・モリは実際、マリーに危険が及ばないよう、見守ってくれていた。
教会のお説教の帰りに、フローレンスが町の人に話しかけられ、マリーが手持無沙汰になって一人で歩いていたことがあった。教会の裏には共同墓地と林がある。そこにうろついている猫を眺めていたら、見知らぬ大人の男に声をかけられた。
灰色のハットにジャケット、揃えられた髭というきちんとした身なりの紳士だったが、マリーはその男と目が合って警戒心を持った。笑っているのに、笑っていない。そう思った。
喋りながら近づいてくる男から逃げようとマリーが林の方へ後退りしようとしたら、一緒に行こうと喋り続けていた男が急に黙った。マリーの背後を凝視して硬直し、次の瞬間には背を向けて走り去っていた。
振り向くと、木の陰にメメント・モリが黒いオーラを発して佇んでいた。
「マリー。知らない人についていってはいけない。早くお母さんを見つけてきなさい」
メメント・モリの静かで簡潔な警告に背中を押されて、マリーは教会の人がいる方に駆けて行った。
「マリー?!どこに行っていたの?!」
姿を消したマリーを探していたフローレンスを見つけ、マリーは飛びついた。
あとから聞いた話によると、その男はアンリが死んだ直後に現れた詐欺師で、その後も度々フォール家周辺に姿を現していたらしい。
フローレンスをはじめ、フォール家の人々は皆、そのことに神経を尖らしていた。どうやらマリーを狙って出没しているらしいと知っていたからだ。
どうやってか、メメント・モリは害為す者を事前に察知して、家の者に知らせていた。
そして、前以てマリーの目の前から、転びそうな石ころを取り除くように、自分の特異な存在感を用いて危険を排除していたのだった。




