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マリーの記憶は、大きな男の人の膝の上で、絵本を読んでもらっているところから始まる。
青と黒と赤が基調の、シンプルな絵柄のその絵本は『すてきな三人ぐみ』といって、マリーが好きな絵本というより、絵本を読んでくれる男が好んで読み聞かせてくれる絵本だった。
真っ白な蝋のような手で撫でるようにページをめくり、男は静かに水が打つような声で読んでくれる。マリーはぬくもりに包まれて、いつもその声が降ってくるのを待っている。
そういう手を見慣れていたから、マリーは彼の手が、普通の人間よりずっと白い、悪く言えば「死人のような手」なのだと後年になってから知った。
いずれにせよ、マリーにとってその手は大きくて、自分を包み込むように守る手だった。
絵本を読み終わると必ず、マリーは男の膝の上から降りる。
何故なら、男は絵本を読み終わると毎回、立ち上がって天を仰ぎ、こう嘆くからだ。
「嘆かわしい・・・」
実に、悲しそうに。
「世の中、このような正義に溢れた人間ばかりであれば、嫌なおばさんのもとに行くみなしごなどいないだろうに・・・」
マリーは毎回男が泣くのかと思ってハンカチを差し出すのだが、男はハンカチを決して受け取らなかった。
しゃがんで、マリーと灰色の目線を合わせ、「私には無用なものだ・・・」と優しく押し返すのである。
マリーは男が泣いたところを一度も見た事がなかった。転ぶとすぐ泣いてしまうマリーや、感動屋のコックと違って、毎回悲しそうなのに、この男は涙を見せない。
マリーはそれが不思議だった。
「めめさまぁ」
舌たらずに呼んで抱きつくと、後にマリーが「死神のような容姿」なのだと知るその男は、毎回無言でマリーを見つめ、それからおそるおそる抱き上げてマリーをあやしたのだった。
フォール家の危機を救う謎の錬金術師、死神のように恐ろしげな〝メメント・モリ〟は、すっかりマリーのお守りとして屋敷の馴染みになって、使用人たちにもメメ様メメ様と呼ばれて生暖かい目で見守られていた。
何故数十年に一度しか現れないといわれているメメント・モリがベビーシッター状態になったかといえば・・・メメント・モリ自身のせいであった。
当主代理として当分働くことになって、フローレンスはにわかに忙しくなった。フォール家の関わる事業は広く、因習もあって一筋縄ではいかないものが多かった。仕事を覚え、信頼を勝ち取っていくのは、使用人たちの援助があっても容易ではなかった。
そのため、フローレンスはたびたび外出を余儀なくされた。赤ん坊のマリーを連れ回すわけにはいかない。マリーを屋敷に置いて出かけることが多くなった。
そうなると、当然ベビーシッターが必要になる。フローレンスはベビーシッターの募集をかけ、よいと思った一人を雇うことになったが、その人物はなんとフローレンスが外出した直後、ベビーシッターを辞めてしまった。
出先で辞めた理由を電話で訊ねると、ベビーシッターは幽霊がたびたびマリーのゆりかごの側に現れるから、と珍奇なことを述べた。
まさか、と思って屋敷に帰ってくると、使用人一同が困惑した表情で出迎え、そしてやはりメメント・モリがいた。
相変わらず死人なのか死神なのかとりあえず死の雰囲気をまとったメメント・モリは、ゆりかごのある部屋で、執事にじとっとした目で見られつつ、壁に手をつけて憂鬱のポーズをとっていた。
「案の定、泣かれました」
執事はそう言った。
どうやら赤ん坊を近くで見たくて、眠っている間にたびたびゆりかごの側に出現していたらしいが、丁度目をぱちりと開けたときに出くわしたらしい。
「・・・嘆かわしい・・・子孫に顔を見せて泣かれるとは、かくも虚しきものか・・・」
「大の大人の男が逃げ出すくらいですから赤ん坊だって泣きますよ」
フローレンスは呆れたが、ゆりかごの中を見るとマリーが元気よさそうに手を動かしていた。
ゆりかごからマリーを抱き上げ、我が子をあやしながら、慰めるようにメメント・モリに言った。
「マリーは人見知りするんです。案外、初めて会ったから泣いただけかもしれません」
これはフローレンスが気を遣っての気休めの言葉だったのだが、まさかの大当たりだった。
メメント・モリが顔を上げると、マリーがフローレンスの腕の中から手を伸ばして、メメント・モリの黒い髪の毛を掴んで遊び始めたのだから。
一同は驚きに固まった。どうやら赤ん坊はメメント・モリが怖くないらしかった。
「そういえば、ベビーシッターを怖がらせないで下さい。一人辞めてしまいました」
「・・・あれは駄目だ」
「え?」
メメント・モリは珍奇なものを見るようにマリーを見つめつつ、髪の毛を遊ばせたまま、こう忠告した。
「ベビーシッターを買収しようと動いている奴らがいる」
「なんですって?!」
「金をちらつかせたら容易に釣れるだろう者に、後継者の世話を任せられぬ」
「そんな・・・」
「・・・嘆かわしい。家族から引き離して赤子を攫い、財産を狙おうとする者がいるとは・・・」
聞いていたフローレンスと使用人一同はぞっとしてメメント・モリの嘆きを聞いた。フォール家の財産を横取りしようとしている一味は、まだ諦めていなかったのだ。
それまで黙っていた執事が咳払いをした。
「ならば、メメント・モリ様が面倒をみたらよいのでは?」
「・・・なに?」
「あら、そうね。メメント・モリ様が面倒をみて下されば、私たちも安心だわ」
「・・・なんだと?」
「いい考えね」
フローレンスは、彫像のように表情を変えないメメント・モリににんまり笑いかけた。
「なんだと?お前たち使用人は何をやっている。こういうことは使用人の仕事だろう」
「あら、メメント・モリ様。昨今はおじいちゃんやおばあちゃんが親族が赤ん坊の面倒をみることも多いのですよ」
「おじっ・・・」
「我が家が往時の貴族のようにすべて使用人任せではないとご存知でしょう。ひいひいひい・・・おじいさんなんだし、メメント・モリ様がみて下さっていたら、男たちも容易に手を出してきたりしないと思います」
「おじいさんではない。大叔父だ」
メメント・モリの抗議はともかく、どうやら彼は満更でもないらしかった。
黙って隠れていればいいのに、それからずっとマリーを見にくるものだから、当分マリーのベビーシッターをすることになったのだ。
メメント・モリは律儀に、フローレンスが外出するときに現れ、マリーの面倒をみた。マリーはよくメメント・モリに懐き、フローレンスがいない穴を彼は完璧に埋めていた。
フローレンスを含め、フォール家の人々は、その様子を微笑ましく眺めていた。死神のような男が大事な跡取り令嬢に常についているのは異様な光景ではあったけれども、嘆き屋でこれまで何度もフォール家を救ってきたというメメント・モリには安心感があった。
マリーが「ママ」の次に覚えた言葉は、「めめ」だった。
「めめ、ではない。メメント・モリだ。言ってみなさい」
「めえめ!」
「メ・メ・ン・ト・モ・リ」
「め・め・め!」
マリーは元気よく連呼した。
メメント・モリは正式名称を覚えさせようと努力したらしいが、幼児の舌では「めめさま」が限界だったらしく、やがて諦めた。
「嘆かわしい・・・我が子孫がメメント・モリの思想を解せず、言葉も覚えられぬとは・・・」
「まだ赤ん坊だから当たり前です」
天を仰いで嘆くメメント・モリを、執事はばっさり切ったのだった。




