deux
その人が最初にマリーの前に現れたのは、マリーの父アンリ・フォールが亡くなった葬儀の後だった。
と、いっても、マリーが赤ん坊の頃だったから、マリーはそれがどんな出会いだったのか、実際には知らない。母から話を聞いて知っているだけだ。
マリーの母フローレンスは、まだ赤ん坊のマリーを抱えて、夫を早くに亡くしたことに打ちのめされていた。
葬式の後、色々と親切にしてくれるフォール家の使用人たちを前に居た堪れなくなり、フローレンスはマリーを抱いてフォール家の墓に参った。
教会の地下にあるフォール家専用の墓地は、元貴族で、連綿と続いてきたフォール家らしく、古い墓から新しい墓までさまざまなものがあった。無論、最も新しい墓は夫アンリのものだった。
そんな墓地で茫然と立ちつくしていたときだった。フローレンスはフォール家の遠い親戚だという男二人に詰め寄られた。
貴族だったフォール家は、昔は伯爵の地位を戴く、町一帯と山々を領地とする有力者だったという。往時ほどではないものの、今でも地元で一番の家であり、町の産業を支えている紡績工場と葡萄畑のオーナーとして知られていた。工場と広い畑、そして屋敷と財産は、夫が死んだ今、フローレンスの肩にかかっていた。
フローレンスは結婚して二年目の、二十歳の娘に過ぎなかった。フォール家の事業はすべて当主だったアンリが取り仕切っていたから、何をしなければならないのか、どうすればよいのか、まったく分からず途方に暮れていた。
そこへやって来た二人の男は、フローレンスが一人泣きながらフォール家代々の墓の間を歩いているところを見つけ、フォール家の遠戚にあたると名乗り、親切そうに遺産相続と工場や葡萄畑の経営について援助しようと申し出てきた。
フローレンスはアンリが父母を早くに亡くし、親戚もいないと言っていたのを聞いていたので、困惑した。しかし、もともと貴族だった家系なのだから、普段顔を合わせない遠戚くらいいるのかも知れない。フローレンスは町の外からやって来た人間だった。フォール家のことをまだよく知らなければ、誰とどういう繋がりがあるのかも分かっていなかった。
段々知っていけばいいからね。そう言う夫の優しさに甘え、少しずつは勉強していたが、知らないことが多すぎた。
法律の知識もない。遠戚の場合、遺産は一体どうすればいいのだろう、フォール家を受け継ぐ権利があるのではないか・・・フローレンスは強い不安に襲われた。この男たちの方がフォール家の資産を受け継ぐ正当な相続者なのではないか。そうなると、夫が死んでも親切に寄り添ってくれる使用人たちもこの男たちの方を主として選ぶのではないだろうか。夫が遺したものすべて置いて、フォールの屋敷を、たった二年過ごしただけの自分と娘は出て行かなくてはならないのではないか・・・たちまちフローレンスは弱気になって泣き始めた。
男たちがこの瞬間、これ幸いとばかりに顔を見合わせたのをフローレンスは知らなかった。猫なで声で、権利書をこちらで保管させてもらえれば奥様は何も不安を感じることはありませんよ、と言う。
どうすればよいのか分からない。出て行かなくてはならないのかも知れない。
その不安は、フローレンスに恐怖を与えると同時に、胸に「何もしなくてもいい」という甘い誘惑がちらついた。
つい頷こうとしかかった。
そのとき、静かな空気を震わせた音があった。
「ああ、嘆かわしい・・・この世はなんと、悲劇で満ちていることか・・・」
墓地から聞こえた、やや浮遊感を持つ声に、フローレンスと男二人はぎょっとした。
フォール家の墓地には、十字と碑を立てただけの一般的な墓もあるが、貴族時代の古くて豪華な、鉱石の彫刻で作った柩もたくさん並んでいた。
その間から、静寂を破って、ズズ、と何か重たいものをずらすような音が聞こえてくる。
丁度、ごてごてに装飾的な彫刻を施した、重たい柩の蓋を横にずらしているような。
狐に摘ままれたような顔をしている三人が、音のした方を振り向くと、そこには真っ黒な鋼鉄の、ドレスを着た骸骨や聖者の骸骨や死神が踊り狂っている彫金が施された立派な柩があった。
「アンリは死に、残されたのは庶民の小娘と小さな後継者・・・それも今や絶望の淵に立たされている・・・ああ、私はフォール家の滅亡を目にするために生れてきたのか・・・?」
どうやら、その静かな歎きはその柩の中から響いてきているようだった。
三人が固まっていると、ズズ、と目の前で重たそうな蓋が一気に動き、開いた柩からにゅっと黒い長袖に包まれた男の腕が出てきた。
ヒッ!と叫んだのは男の一人である。
「おまけにフォール家に縁も所縁もないハゲワシたちが二羽、子兎たちが弱るのを待っているらしい・・・救いようのない世の中よ」
白い蝋のような手がガシッと柩の縁を掴み、ぐっと力を込めて黒い影が起きあがって現れた。
フローレンスは息を呑んで我が子をしっかり抱いた。
それは、真っ黒な衣服に身を包んだ、死神のような男だった。真っ黒な長い髪を、蝋のように白い頬に添わせている。柩から登場したに相応しい、暗黒の雰囲気を纏っていた。
長い前髪の隙間に見える、落ち窪んだ灰色の瞳がカッと見開かれた。
「いっそのこと、世界がすべて滅んでしまえば、悲劇も惨劇もあるまいに・・・」
二人の男たちは式用の黒いハットが落ちるのも構わず逃げ出した。
フローレンスは男たちの叫び声が消えるまで固まったまま、柩の中から登場した、真っ黒と真っ白のコントラストが見た目に徹底された男を凝視した。
柩から登場した男も、フローレンスをただ見つめていた。
しんと静まった教会の地下の墓地に、二人の視線だけがぶつかり合った。
フローレンスは怖くなかったわけではない。しかし、おそらく、男たちほどは怖くなかった。
何故なら、声が、亡くなった夫にそっくりだったのである。
その一点と、この人物(?)が嘆きの警告を呟きながらフォール家の柩から出てきたという事実が、フローレンスをその場に止めていた。
おそるおそるフローレンスは柩に刻まれた死者の名前を確認した。
ルイ・シトロン・フォール
「・・・ああっ!お、お待ち下さい!」
フローレンスは柩の中に戻ろうとした男を思わず呼び止めた。
柩の縁から、ちょっとだけ顔を出して男はフローレンスを見る。
「なんだ・・・」
「あ、あなたは一体・・・も、もしかして、死体ですか・・・?」
「まさか」
男はひどく悲しげな声を出した。
「死者が生き返り、その声帯を震わせるわけがあるまい」
じゃあ、あんた一体何だ。
口をぱくぱくさせて固まっているフローレンスに、今度は男は柩の縁を乗り越えて近付いてきた。
思わず身構えたフローレンスだったが、男は少し離れたところで止まり、じっとフローレンスが抱く赤ん坊のお包みを見つめ、またもや嘆かわしそうに頭に手をやった。
「嘆かわしい」
教会の地下に、声はぽつりと響いた。
「私なら、こんな愚かな、何の力も持たぬ小娘とフォール家の嫡男を結婚させぬものを」
カッとフローレンスの頬に熱が上った。
悲しみと悔しさが蘇ってきた。
そんなの、一番今、私が思っている。何で私は無知なんだろう。何で、もっとアンリから色んなことを教えてもらわなかったのだろう。疑いもせず、さっきの男たちを信じそうになった。不安に任せ、安きに流されそうになったのだ。
不安なのは、自分だけではないのに。
葬式に来たたくさんの人たちが、これからどうなるのだろう、という視線を交わし合っていた。アンリはフォール家の人々にとって、町の人たちにとって、なくてはならない人だったのだ。それを受け継がねばならないのが、町にきて二年のフローレンスなら、みんな不安に思うだろう。
だけど、フォール家のために、町のためにどうすればよいのか、何も分からないのだ。自分の身のふりをどうすればよいのか、分からない。
途方に暮れていた。そして、それが今、一番悔しい。
恥ずかしくて、馬鹿な自分が悲しくて仕方がなく、泣きそうになる。肩を震わせるフローレンスに、男は畳み掛けるように言った。
「こんな母親だと、次代の当主が存続するか怪しいものだ」
はっとした。
大人しく、すやすやと眠っているマリーの顔を見る。慣れない子育ても不安な要素だった。
だけど、マリーはアンリの残した最愛の我が子であり、フォール家の大事な跡取りだった。
男は灰色の目でフローレンスを見下ろした。
「だが、アンリが死んだ今、お前は唯一のフォール家の主人だ。次代当主の母親だ。ここでお前がフォール家を支えないで、なんとする」
そうだ、ここで私が弱ってなんていられない。
ここで私が踏ん張らなくては、マリーはどうなってしまうのだろう。
じわりと滲んだ涙を、フローレンスはぐいと拭いた。愛しい我が子を守らねばならない。眠るマリーの頬を撫で、囁きかけた。
「ごめんなさいね、マリー。情けないお母さんで。でも、お母さん、頑張るからね」
それをじっと見ていた男は、また頭に手を当てて天を仰いだ。
「ああ、私はまた現世に無用な役を演じてしまった・・・」
フローレンスは目をぱちくりとさせた。死神みたいに怖そうかと思えば、嘆いてばかり。
一体、本当に、この人は何なのだろう。
フローレンスの疑問など構わず、男がスタスタと歩いて柩に帰って行こうとしたので、フローレンスは慌てて呼び止めた。
「あの、あなたは一体?」
男は柩の蓋を閉めようとしたその隙間から目を覗かせて、言った。
「アンリのひいひいひいひいひいひいひい・・・大叔父といったところだ。かつては魔術、今は錬金術の研究を行っている」
錬金術?
首を傾げているフローレンスに、男は言った。
「人は私を〝メメント・モリ〟と呼ぶ」
そして、重たい柩の蓋をぴたりと閉めてしまった。




