6.5坪の楽園
他人、すなわち地獄。
私たちはこの社会で生きている限り、絶えず他者の視線に晒され続ける。私たちに「自己」はない。「私」とは、無数の他者の眼差しが映し出した集合体にすぎない。そして、一人ひとりの意志は変えられないものだと信じるなら、どれほど「私はあなたが思うような人間ではない」と説明を重ねても意味はない。「私」という存在を決めるのは他人だ。他人の存在は、「私」たちにとって地獄なのである。
……けれど。
私たちは、どうして他人が私たちをどう定義するのかなど、気にしなければならないのだろう。
朦朧とした意識のまま、スマートフォンのアラームを止める。片目だけを細く開けて、時刻と日付を確認した。
土曜日、午前八時。
……土曜日のアラームを消し忘れてた。先週、一度だけ必要だったのに。
昨日のアルバイトの疲れも、まだ完全には抜けていない。普段の週末なら、同居人が帰ってくるまで眠っているところだけれど──
もう、これからは違う。
二人用のベッドは、本来あるべき役目をようやく果たしていた。私の同居人。私の姑姑。この世界で、私にとってたった一人、大切な人。その人が、私の隣で静かな寝息を立てている。
十分に眠ったおかげで、普段は化粧で隠していた目の下の隈も薄れ、身体に染みついていた酒の匂いも消えていた。あとは煙草だけ。それだけは、もう少し時間をかけてやめていけばいい。
「……ん……」
どうやら私のアラームで起こしてしまったらしい。彼女は小さく唸るような声を漏らし、寝返りを打って私のほうを向いた。
朝食でも買いに行こうかと思っていた私は、その考えをすぐに捨てた。
両腕を伸ばし、小さく丸まった彼女の身体を胸へ抱き寄せる。
※
「二百五十七万五千元。間違いありません、Bさん。」
長い時間をかけ、紙幣計数機がようやく運び込まれた現金をすべて数え終えた。
黒いスーツ姿の男が、ソファへ腰掛ける彼へ恭しく報告する。
深紫色のスーツを着たBaileyは煙を一つ吐いた。
「元金も利息も、一元たりとも違わない……ふぅ。こういう場で金額が合わなかったり、偽札なんか混じってたら気まずいからな。」
彼は微笑みながら、スーツの内ポケットから折り畳まれた紙を取り出し、テーブルの上へ置いて向こう側へ滑らせた。
「借用書だ。返すよ、Luna。確認してくれ。」
張月臻は紙を手に取り、何度も目を通した。
彼女が、自分の職場で──いや、この瞬間からは「かつての職場」で──こんな服を着るのは初めてだったのだろう。黒いタイトスカートに白いブラウス、濃紺のジャケット。顔には薄く化粧をしているだけで、いつもの華やかなメイクではなかった。
四角いテーブルを囲むように座っているのは、Baileyと張月臻。
そのほかにもう一人、私の知らない男がいた。このクラブの副支配人で、立会人なのだろう。
張月臻は確認を終えると、静かに紙を折り畳んだ。
ビリッ──
彼女を縛っていた枷が、砕け散った。
Baileyが副支配人へ目配せをすると、彼は立ち上がり、その場にいる全員へ向かって告げた。
「Lunaさん、本日をもちまして正式に卒業となります。」
私と張月臻は同時に大きく息を吐いた。
周囲で見守っていた黒服や女の子たちは、一斉に拍手を送る。
立ち上がった張月臻へ、何人もの女の子が駆け寄り抱きついた。
「Lunaさん! 本当によかった!」「私たちのこと忘れないでね!」「おめでとう、Luna!」
客だけではない。同僚たちとの関係も悪くなかったらしい。店の看板嬢なら妬まれているものだと思っていた。
……もっとも。
看板嬢が辞めるということは、それだけ自分たちが指名される可能性も増えるということだ。だから、この祝福が本心なのか、それとも打算なのかは分からない。
その笑顔や祝福の奥には、張月臻がこの世界を離れて、本当に一人で生きていけるのかという軽蔑が隠れているのかもしれない。
一方、黒服たちはほとんど表情を変えなかった。自由を手にしたように見えた女が、結局また戻ってくる。そんな光景を、何度も見てきたのだろう。
地獄を見慣れた者の目には。地獄しか映らない。
「Luna。」
Baileyも立ち上がり、穏やかな笑みを浮かべながら手を差し出した。
「一緒に仕事ができて楽しかった。今までお疲れさま。」
……半ば強引に身体の関係を結んでおいて。今さら何を紳士ぶっているのだろう。
それでも張月臻は営業用の笑みを崩さず、その手を握り返した。
「こちらこそ。」
「これから先も、何か力になれることがあったら、いつでも連絡してくれ。」
「うん、機会があれ──」
「結構です。」まだ社交辞令を続けようとしていた張月臻とは違い、私は容赦なく二人の会話を遮った。
「……はは。君を仲間にできなかったのは、本当に残念だよ、NANA。まあ、無理に摘んだ果実は甘くない。安心してくれていい。もう君たちにちょっかいを出すつもりはない。俺たち商売人にとって、一番大事なのは信用だからな。そうでしょう?」
Baileyは隣の副支配人へ視線を向けた。
副支配人は、どこか事務的に、小さく頷くだけだった。
結局、私はBaileyの連絡先を連瑀辰へ渡さなかった。
というより。彼女の連絡先を、私はすべて削除した。
私には、彼女を助けられない。希望を持たせること自体が、一つの罪だった。本当に助けを求めるのなら。彼女自身が、学校や警察や弁護士を訪ねるべきだ。あるいは──Baileyのような人間を。
最後にビリヤード場の前を通りかかった時には、建物はもう緑色の工事用フェンスに囲まれていた。
どうやら、すべてはBaileyの計画通りに進んでいるらしい。
私も連瑀辰もいなくても、彼には新しい店を始めるための女の子を集める方法などいくらでもある。けれど、「龍哥」にとっては違った。連瑀辰の代わりになる人間はいない。もともとビリヤード場の商売も平凡だった。Baileyが納得できる値段を提示したのなら。二十年以上続けてきた店を手放すことも、それほど断ち切り難いことではなかったのだろう。
王育廷の話では、連瑀辰は休学届を出したらしい。
何か知っているのかと聞かれたけれど、私は肩をすくめることしかできなかった。真実を知ったところで、何かが変わるわけじゃない。もし彼が本気で英雄気取りになって、「大人の世界」へ飛び込もうとしたら。そんな責任は、私には負えない。
マリア──陳苡若は相変わらず、折に触れて団契へ来ないかと私を誘ってきた。けれど、その誘いはすべて断った。それでも、少し休みたくなると宗教輔導室へ足を運ぶことはあった。そして、大抵は高い確率で彼女もそこにいた。私たちはただ長椅子に腰を下ろし。ぼんやりしたり。目を閉じたり。互いに、何も邪魔をしなかった。
張家の次男。あの老いぼれが唯一希望を託していた男は、大学院を卒業し、ようやく上場企業へ就職したばかりだというのに、二百八十万元の借金を背負うことになった。本当は切りよく三百万を要求するつもりだった。
けれど、考え直してやめた。
二百八十万だけでいい。「今回は」ね。
口では、この二百八十万で口止め料は終わりだと言った。
けれど。張仕信が張姓を名乗る限り。彼は私と張月臻から逃げることはできない。一生、自分の犯した罪から逃れられない。たとえ、いつかあの老いぼれが死んだとしても。張仕信が成功すればするほど。彼の頭上に吊るされたダモクレスの剣は、さらに重くなる。私たちはいつでも。彼の築き上げたものも。彼の人生そのものも。壊すことができる。
もっとも、こんな話を契約書にできるはずもない。「いくら払えば、実の妹を犯そうとしたことを口外しません」そんな文面を書いたところで意味はない。私たちが約束を破ったところで、彼に何ができるというのだろう。その紙を自分から世間へ見せて、自分が実の妹を乱暴しようとしたことを認めるのか。
現金を持ってきたあの日。あの目に浮かんでいた憎悪と悔しさを、私は忘れない。彼にとって私は紛れもない悪魔だった。
けれど最初にこの地獄をつくったのは、誰だったのだろう。
張仕忠は十七歳の頃から、自分の罪のために。そして、不本意に生まれてしまった「私」という娘のために働き続けてきた。ならば張仕信だけが、どうして自分の罪から逃れられるのだろう。
そして、あの老いぼれは生きている限り、自らが作り上げた地獄の中で生き続ける。一生の希望を二人の息子へ託した。それでも彼は、二人の息子のもう一つの顔を、永遠に知ることはない。月が地球へ見せることのない、あの裏側のように。どうか長生きしてくれ。
※
「……ん。」
抱き締める力が少し強すぎたのだろう。
私は腕の力を少しだけ緩め、身体を寄せ直し、そっと額を彼女の額へ重ねた。
私たちは。
姑姑と姪で。
姉妹で。
母娘で。
愛する人で。
あるいは。
何者でもないのかもしれない。
何であっても、構わない。
私たちがお互いにとって。
最初であり。
そして、唯一でありさえすれば。
誰にも邪魔されない、この六・五坪の部屋で。
たとえこの世界が、他人にとって地獄だとしても。
私たちはきっと。
私たちだけの楽園をつくっていく。




