泡沫の夢の話
――ギキィ、と甲高い、少し不快な音を立てて、古びた扉が開いていく。
ドアを押し開けても、もうドアベルの音がなることはない。あの爽やかな、何度でも聞きたいと思うような音色は失われたのだ。それを残念に思いながら、探偵は店内へ足を進めた。
一歩踏み込む度に、床板がぎしぎしと不安げな音を立ててたわむ。もうずいぶん長い間、手入れされていなかったのだ。あちこち腐り落ちているが、それでも彼はあゆみを止めることなく、ついにカウンター席までたどり着いた。
いったい、いつからここに放置されていたのだろう。そこには穴が開き、埃がうっすらと層をなし、誰かが書いたらしい落書きに覆われている。表面の埃を指で掬いながら、彼はゆっくりと席に腰を下ろした。
もう不思議な時間は訪れない。ここもまた、ただの平凡な現実となって、そして静かに崩れている。
心地よい時間も、不思議な客も、バーテンダーとの語らいももうない。
終わったのだ。探偵は一人、自分に言い聞かせるようにそうつぶやいて、ポケットウィスキーを一本カバンからとりだした。
――不思議な時間が泡沫の夢と消えて、もう一年がたとうとしていた。あれ以来、あのバーテンダーと出会ったことはない。
あの時間は何だったのだろう、と隙間風に震えながら、小さく酒瓶を傾けて嚥下する。埃っぽい味がするような気がして、小さく顔をしかめる。
ただ、束の間に見た夢だったかのようにも思えたし、現実と隣あう世界に迷い込んだようでもある。少なくとも探偵には想像つかない何かであったことは間違いない。
「……答え、か」
するとあの老人は、答えを見つけたのだろうか。長い、長い問いだったはずだ。どうして生きているのかなんて、きっと生きている間に見つけられるようなものではない。けれど、白昼夢が終わったからには、見つかったのだろう。
自分はどうだろうか。何か、答えらしい答えを見つけられただろうか。"善き人"を望む心は絶えず、理想の世界はいまだない。あるいは、いつまでもそんな世界は訪れないのかもしれない。
もとから途方もない願いと望みで。いくら望み続けたところで、一個人がどうこうできるような問題ではない。諦めてしまった方が楽なのかもしれない。それが答えなのかも。独り言だけがこぼれて、返事はない。
酒が進む。もう話をする人もいない。酒が注がれる事もない。けれど、ポケットウイスキーはもうからっぽに近い量へ近づきつつあった。
「なんだか、寂しくなってしまったなぁ」
帰ろうかな、そう思って立ち上がりかけた背に、ずしりと重みと衝撃を受けて、探偵は再び座り込むことになった。
「せーんぱいっ、愛しの後輩がのしのしやってきましたよーっ」
「……その、とびかかり攻撃はやめてくれませんか。いい加減腰をやりそうになるので……」
お互い若いころであったならまだしも、彼女も二十の最終盤にさしかかり、探偵はすでに三十そこら。いよいよ四十も遠い未来ではない頃合いなのだ。体の老いもいよいよ始まっており、老人へ至る前に腰にダメージを負うのは勘弁してほしいものである。
振り返れば、そこにいるのは無論、後輩である。最近は元気もよく、作品にも熱が入ってるようだが、相変わらず探偵に見せようという気はないらしかった。
「ここ、廃業してたんすね~。まあ来た時も私と先輩しかいませんでしたけど」
床に這う埃を足で蹴散らしながら、そっと探偵の隣に座る。
長い付き合いだ。初めてあったころは、二か月もしないうちに顔を見せなくなるだろうと思っていたが――一年たち、二年経ち、そうではないのだと気づくと、人を信頼していなかった自分にもまた気付いた。
思えば人に"善き人"であることを求め始めたのは、彼女が元だったのかもしれない。彼女は紛れもなく善き人だ。それを見て、人の理想とはかくあるべしと、少しも思わなかったといえば嘘になる。
「……一つ、質問をしてもいいでしょうか」
「へ? まあいいですけど、私を呼んだ要件ってそれっスか?」
それもある、と彼はポケットウィスキーを一気にのみほした。強いな、と思って顔をしかめるが、しかしほろ酔い気分の方がちょうどいいとも思っていた。
「あの時の質問を返すようですが……私の事をどう思っていますか?」
人の自分勝手さに失望して、善き人などいないのかもしれないと、心のどこかで思っていたあの日。あの夜、この場所で探偵は、探偵自身の持つ身勝手さに気づかされたのだ。だから、久々に彼女を酒飲みの場へ誘った。
自分が善き人なのか。その大前提が揺らいでいて、だから確かめたかったのだ。
「私は、善い人でいますかね。それとも……ただ、高望みをしているだけなのでしょうか」
後輩は一瞬ひるんだようにのけぞって、黙り込んだ。それから、おもむろに自分の鞄に手を突っ込んで、焼酎を一つつかみ出した。一升瓶である。確かに酒は持参でとは言ったが、普通、一升瓶で持ってくるだろうか。彼は半ば呆然としながら、そんなことを考えていた。
しかも、それを探偵の前にあおり始めるのだから始末に負えない。彼が止める間もなく、一升瓶を丸々一本飲み干して、ぶはあと大きく息を吐く。改めて目撃する後輩の化け物加減には目を見張るものがあるが、しかし彼女の口の震えを見て、発言をただ待った。
「私は……私は正直、難しい事は何もわからないっス。んでも、先輩が高望みだなんて思わないっスよ」
そうかな、と聞くと、そうっす、と気軽い返事。
「だって皆……皆簡単には叶わない望みを持ってるんです。今日明日どころか、今生じゃ叶わないかもしれない夢を。私だってそうっス。だから、先輩も夢もきっとそうなんです」
――難しい望みなだけで、それが一生叶わないかどうかなんて。
一度生き切って死なないと、分かるはずもないから。
探偵は目を閉じ、辺りの音に耳を澄ました。シンと静まり返った冬の夜は、人っ子一人歩いていない。雪の降る音さえ、耳に入ってきそうなほどだった。冷たさだけが残るポケットウィスキーを机において、その代わりに頬杖を突く。
「……そうですね。難しく考えすぎていたのかもしれません」
「先輩はいつもそうじゃないですか。今更っスよ、今更」
彼女が笑う。そのからからとした快活な笑顔に、探偵も思わず微笑んだ。それを緩めようともせずに、彼はそのまま口を開いた。
「そうそう、もう一つの要件なのですが」
「あ、まだあったんスね。なんでした?」
「結婚しませんか?」
また沈黙が訪れた。彼女は普段の快活な笑みから一転、驚愕、喜び、疑問、羞恥、それらの顔で百面相を行った後、奇妙な鳴き声とともに埃まみれのカウンターに突っ伏した。
「な……なん……」
「ははは。ずっと前から気づいてはいましたよ? ただ、私に応える勇気がなかっただけでね」
とはいえ、それが自惚れであったならすぐさま忘れてもらうつもりでいたのだが、そんなことはおくびにも出さない。後輩はバンバンとその無駄に力強い腕でカウンターを叩き始めたが、否定の言葉はなかった。
そんな愛しい後輩の様子を肴に水を飲みながら席を立ち、いまだ顔の赤い後輩を連れて外に出る。肌を刺すような冷たい風が、少し酔いの回った頬を冷ましていく中、探偵は最後とばかりに振り返った。
蜘蛛の巣と埃に埋もれたそこは、もう"白昼夢"ではない。夢のような場所は、あの日たしかに死んでいて。ここにあるのは、ただの答えの残骸だ。
だが、探偵はまだ生きている。生きているかには、答えを探さねばならない。それが今生のうちに見つけられないのなら、次へと願いを、望みを託そう――彼女の思いに応えることができたのは、そんな考えが頭の中に芽生えたからでもあった。
望みはいつか、遠い未来へとゆだねて。二人、連れ添って歩きだす。
もはや、泡沫のごとき夢を見ることはない。彼らはただ夜の闇へと消えて行く――明日の夢を見るために。