86 道三先生の頼み
おかしいな、短めに終わらすつもりだったのに……
山城国に入ると、淀川は3本に分かれる。
一番北寄りが桂川で、この時代は葛野川と呼ばれている。
丹波の山々の中からの流れてくる川で、途中で鴨川と合流する。
真ん中が、宇治川で、琵琶湖から流れてくる。
この時代はまだ秀吉の干拓工事が行われてないので、巨椋池という巨大な池が京の南に存在している。
一番南寄りが木津川で、奈良方面へと繋がっている。
我々は、京都の中心地へ向かうため、桂川を上ることになる。
桂川は、かつては長岡京と呼ばれた日本の首都であった都市の中も流れている川だ。
何度か戦場にもなり、かつての繁栄の跡は見うけられないが、今もそれなりに人が住んでいるし、往来も多い。
なので、あまり目立つような真似は出来ない。
残念ながら、風力走法はここでは使えないのだ。
それでも七五三兵衛に言わせれば、ここまで半分の時間で来れたというから、それなりに役に立ったということだろう。
もうお役御免かと思っていたら、長岡京を過ぎた辺りから暫くは民家も無く、人通りの少ない地域が続くというので、どうやらもう一度、風力走行で行くつもりのようだ。
「あねさん、出番でっせ」と、七五三兵衛がまたしても俺を姐さん呼ばわりしたので、新九郎が目を三角にして噛みついた。
「姐さんと呼ぶなと言っておろうが!」
「ほな何とお呼びしたら、よろしゅうござりまするか?」
七五三兵衛がおどけて新九郎を茶化す。
ごろつきのようななりだが、いちおうこれでも国人領主なのだ。
正式には眞鍋貞友と言うらしい。
なので、新九郎も立場上あまり強硬な態度には出られないようだ。
「せめて吉子様と、呼ばんか」と、口をとんがらかして抵抗するのが精一杯であった。
「ハ〜イ、どっちでも良いで〜す」
「ほな吉子さん。よろしゅうたのんます」
「はい、じゃあ行きますよ」
そんな案配で、船は波飛沫を上げながら、桂川をばく進していった。
暫く進むと、30分ほどで鴨川との合流地点へと到達した。
この辺からまた、民家が増えてくるので人力走法に戻す。
街の中心地に向かうなら、鴨川を上る方が近道なのだが、川幅が狭く浅瀬も多いので、小早でも立ち往生する可能性がある。
もちろん中心地に向かうので人目にもつく、ということで、我々は桂川をさらに遡上して、少し大きな中州のある手前の浅瀬で船を下りた。
京都の中心地まではまだかなり距離があるが、これ以上進むのはやはり人目につきすぎるので、ここからは歩きで向かうことにした。
時間はまだ昼を少し回った頃なので、日のあるうちには京都に着けそうだ。
俺は七五三兵衛に丁寧に俺を述べて、船員達の目につかないようにして例の焼酎をお土産に差し上げた。
小さな壺だったし、貴重な酒と言うことで、さすがに「もろたで〜」とはやらなかった。
「いやぁ、あねさ……吉子さん。あんたおもろいわ。いずれまた堺に来ることもあるやろ。船が要り用になったらいつでも声掛けや」
「ありがとうございます。そうですね、その時はぜひ」
「少々の荒事でもかまへんで、真っ先に飛んでったるわ」
「ありがとうございます。頼りにしてます」
「おう、ほな、気ぃつけてな」
「それでは、そちらもお気をつけて」
「おう、ほなな」
そう言って、我々は別れた。
なかなかインパクトのあるヤツだったな。
また会うこともあるかもしれないが、敵として会いたくないことだけは確かだ。
さて、まずは宿の確保と行きたいところだが、まだ戦乱の跡が残っていそうなので、厳しいかもしれない。
ここは、伝手のある啓迪院を目指すべきだろう。
教会を目指すというのも、考えられたが、泊まれるかどうか分からないし、啓迪院ならお供の人たちも最悪雨風はしのげるあてがある。
信長さんから恩賞と支援金も行ってるはずなので、無下には扱われないだろう。
啓迪院までマップによれば道のりおよそ7kmとある。
何事も無ければ、普通に歩いて2〜3時間で着く距離だ。
ただまあ、京都は今、六角勢の支配下にある。
何事も無く通れるとは限らない。
見るからに怪しげな集団でもあることだし、なるべく人通りの多いところや、侍が詰めている場所は避けなければならない。
臨機応変な対応が必要となるだろう。
そんなことを考えつつ西国街道を歩いていると、関所の前で人だかりが出来ていた。
どうやら関所が通行止めになっているらしい。
諦めて戻ろうとする者に、聞いてみると、手形があっても金を払ってもダメらしい。
おやおや、そいつは問題だな。
ここまで来て、門前払いとか勘弁して欲しい。
何処か忍び込むルートでも無いかな、と周囲を見回すが、なかなか難しそうだ。
まあ、そう簡単に抜け道が見つかったら関所にならないからな。
仕方ない、別のルートを考えようと、関所から離れようとしたところ、大阪方面から駕籠に乗った人物と、それを護衛する5〜6人の侍の一団がやってくるのが見えた。
そのうちの一番偉そうな侍が、関所の前でたむろする人々に向かって「道を空けろ!」と怒鳴る。
何者が来たんだと皆が振り返るが、道を空ける気配は無い。
それを見た侍は刀を抜き、「退かぬ者は斬る!」と脅したところ、さすがに驚いたのか、皆算を乱して逃げ散っていった。
侍は、こちらも睨みつけたが、邪魔だてする意思はないとみたのか、そのまま関所の方にズイズイと進んでいった。
関所の門番が出てきて、「止まれ〜!」と言って槍を構える。
侍と門番が睨み合いをしている最中、駕籠の中から声がした。
「はいはい、ここまでで結構でございますよ」
そう言いながら降りてきたのは、誰あろう曲直瀬道三その人であった。
俺は思わず「あ!曲直瀬さん」と、声を上げてしまった。
20mほど離れてはいたが、十分聞こえるほどの声だったので全員がこちらを注目してしまった。
仕方なしに、俺は先生に挨拶することにした。
「どうも!ご無沙汰しております。大谷です、その節はお世話になりました」
「おやおや、これはこれは大谷様……」
ここで、道三先生は俺たちの置かれている状況を瞬時に理解したようで、「京には何用で?」などと、間抜けなことは言わなかった。
護衛してきた侍どもに「ご苦労様でした、ここまでで結構ですよ、おおきにさん」と、労いの言葉を掛けると、侍どもも「ご足労いただきありがとうございました」と、礼を述べていた。
ふむ、どっかの大名にでも呼ばれて往診に行ってたんだな。
そして、俺に向かって先生は深々と頭を下げ、「申し訳ございませんでした」と言った。
ん?何でしょう?
「通りたいんやったら話合わせなはれ」と先生が近寄ってきて小声で言った。
どうやら先生のお力で関所を通れるようにしてもらえるようだ。
はたしてどんなマジックを使うのか。
「申し訳ございませんでしたなぁ、こちらから呼びつけておいてこないなことになってしもうて。何せ三好の殿様に呼ばれてもうて断り切れんかったや、かんにんしてつかぁさい」
そう、一方的に話すと、俺に一緒に来るよう促し、門番のところに向かった。
だが門番は「誰であろうと通すなと言われておるので、通せぬ」と言って、門を開ける気配は無い。
「私のこと知ってはりますか?」
「知らぬ!坊主であろうと通すわけにはいかん」
「医者の、曲直瀬というもんですわ、あんさん六角さんとこのお侍かえ?」
「それがどうした」
「六角さんは、医者が自分の家で怪我人診るんもいかんちゅう訳やな」
「い、今はどうあっても通せぬ」
「えらい懐の狭いお人やな。そいうことなら、六角さんが病にならはっても診るんはお断りせなあかんな」
その時、別の門番が通せんぼしている門番に耳打ちをする。
それを聞いた門番が、急に狼狽え始めた。
なるほど、当代随一の名医を通せんぼして、診療を妨害したと噂が広まれば、色々とまずいことになるだろうな。
暫く門番同士で話し合いをしていたが、二人がうなずき合って一人が奥に行き「門を開けよ」と声を上げた。
すると巨大な鉄の鋲で補強された扉が、ゆっくりゴゴゴゴと開いていく。
門番は急に態度を改め「どうぞお通りください」と丁寧に言った。
先生は軽く礼をして、関所を進んでいく。
俺たちもそれに続いて入ろうとしたが、やっぱりというか、そりゃそうだよねというか「貴様らはダメだ」と止められた。
門番は俺を小突いて、門の外へと追い出そうとした。
それを見た道三先生は立ち止まり、あきれ顔で言った。
「まっとくれやす、こちらのお方は、大谷様というて私が呼んで遠路はるばる来てもろうたお客人どすがな」
「この者は医者では無かろう、ならば通せぬ」
「このお方はな、うちの啓迪院にそらぁ恩義のあるお方や、粗略に扱こうてええ人とちゃいます」
「その方、手形を持っておるか?」と、今度は奥から戻ってきた門番が聞いてきた。
「あ、はいはい、こちらが手形です」
俺を招いたのは今井さんだったが、堺とは医術の材料などの取引もあり、京都との行き来は認められていた。
その堺発行のお墨付きがあるので、ここでも効力を発揮するはずだ。
「通って良し!」
と、杓子定規な方の門番は納得いかない顔をしていたが、我々は先生のご威光で無事、関所を通ることが出来た。
関所から少し離れ、人目が無くなったところで、我々一同は先生に土下座でお礼を申しあげた。
「この度はまことにありがとうございました。お礼の申し上げようもございません。わたくしに出来ることであれば、何なりと〜」
「いやいや、そんな礼にはおよばんですわ。こちらこそ世話になってるんはほんまの話ですから」
そう言うと「どうぞお顔をお上げください」と我々を立たせて、「今日は是非うちに泊まってってください」と、何とも渡りに船&ご都合主義なお申し出をいただいた。
他に行く宛も無い我々としては、当初の目論見というか、希望的観測どおりのお申し出に甘えることとした。
我々は、戦があった後のわりには、さほど荒れた様子が無い京の街を歩き、啓迪院にたどり着いた。
およそ1年ぶりに見た啓迪院は、新しい建物が一つ増え、人員も増えたように見える。
その変容ぶりに気づいた我々を見て、道三先生は再び我々に頭を下げた。
「あちらの建物が、まるまる織田様からの支援で建てられたものですわ。これも大谷様のお陰ですがな」
「いや、私の力じゃ無くて、大殿様の力ですから」
「何を仰いますやら。大谷はんがおらへんかったら、その支援もあれへん訳やから」
「う〜ん、まあそうなんですけど、こちらも節さんにもお世話になりましたし」
「ほな、困った時はお互い様、ちゅうことでっしゃろ。ま、入っとくれやす」
我々は、中に入り、節さんとも再会を果たし、その夜は先生も交えての夕食会となった。
先生は時々患者を見回るため中座したが、節さんは久しぶりにお許しが出たのか、酒を飲んでいる。
さすがに一升は飲まなかったが、5合程度飲んで、すっかり羽目を外していた。
宴も終わり、新館に新しく作ったという宿泊所に案内された。
二階建ての二階全フロアが宿泊用の部屋で、下手な旅館よりよっぽど立派な作りだったことに驚かされた。
道三先生も今まで泊まれる部屋が少なかったことが、わりと気がかりだったようで、「大谷様と織田様には感謝しております」と改めてお礼を言われてしまった。
そんなつもりは全く無かったと言えないところが、小心者の現代人だなぁ、と思い知らされた。
女の俺は、さすがにみんなと一緒に寝るわけにはいかないということで、個室を用意してもらい、さらに恐縮してしまった。
道三先生自ら案内していただき、大変申し訳ないと恐縮×2になっていると、先生が案内のついでに部屋に入って来て、後ろ手に襖を閉めた。
急に目つきが鋭くなり、何やら剣呑な雰囲気である。
え?ナニナニ?何かされるの?
すると先生が急に俺の前で座り、両手を着き頭を下げた。
「え?先生、どうしたんです?」
「大谷はん。一生のお願いや。あんさんなら知ってるかもしれん思うから聞くんやけどな……」
「えぇ?何だか穏やかじゃ無いですね、まあ、私に出来ることなら……」
「これはここだけの話でよろしいな?」
「はい」
「実はな、三好修理太夫様(三好長慶のこと)なんやけどな、私にもよう分からん病にならはってな、今床に伏せっとるんやけど、何をどう見たらええかも分からんのや。あんさんやったら、なんか知っとるんちゃうかな思うんやけど…」
「いやぁ、私も専門家じゃ無いのでなんとも言えませんが、どんな病状なんです?」
「それがな……」
道三先生が言うには、三好長慶の病状は日によって違うらしい。
頭痛がすると言ったり、足が痛いと言ったり様々な症状を訴えるが、次の日には大抵治っていたり、別の箇所が痛いと言ったりする。
そして、日々そんな状態にも拘わらず、連歌の会を頻繁に開き、その間は症状を訴えることは無いようだ。
そうかと思うと、部屋の模様替えを何度も繰り返したり、突如不安に怯えて冷や汗を大量にかいたりするという。
まあ、素人目にみても精神疾患の可能性が高いと言わざるをえない感じだ。
道三先生も気の病であることは見抜いていたが、具体的にどういう治療をすれば良いのか分からないという。
まあ、俺も医者じゃ無いので何とも言えないが、仮に鬱病だったとすれば、それになった原因があるわけで、もしそれが現在も続いている状況なら、すぐにそこから退避する必要がある。
そうでは無くて、過去に大きなストレスがあり、それが原因で起きてる場合は、もう少し丁寧なケアが必要になるかもしれない。
ウ〜ン、どうなんでしょうね神様?
※精神医学は、ごく最近になって発達してきた医療分野です。
なので、この時代では基本的に環境を変える以外の治療法は無いでしょうね。
以前は苦肉の策として、アヘンなどの麻薬に逃避させたりしたこともあったようですが、むしろアヘン中毒で亡くなることが多かったようです。
ですが、ここで、仮に治療法を伝授出来たとしても、大谷さんが三好長慶を積極的に治療する必要性を見出せないんですけど。
まあ、そうなんだよね。
むしろ三好には史実通り滅んで欲しいと思ってるくらいだからね。
ただ、目の前で天下の名医と称されるお方が、こうやって頭を下げているのも事実なわけでね。
どうしたもんかな、と思うわけさ。
※それは、大谷さんご自身で判断してもらわないと。
じゃあ、助けたいと思ったら、治療法を教えてもらえるわけ?
※ちょっとそれはチートが過ぎるかなと。
でしょ?
やっぱダメなんじゃん。
※まあ、一般論の部類なら、伝えても良いのではないでしょうか?
例えば初歩的なカウンセリングのやり方だったりとか、単純に不満を聞いてやるだけでも治療になったりしますので。
要するに権謀術数をやり過ぎたため、疑心暗鬼になって誰もが敵に見えてしまうって事だよな。
誰かが心の支えになってやれば、少しは良くなるかも知れない。
それこそキリスト教なんてどうよ。
※事実、1563年にガスパル・ヴィレラとロレンソ了斎が三好長慶を訪問しています。
そこで、ヴィレラ達は家臣を何名か入信させることに成功してますが、長慶自身は法華宗の熱心な庇護者であり、また千利休らの修業先である南宋寺を建立したことでも知られていますので、キリスト教に改宗するとは考えにくいところです。
それはでも、来年の話でしょ?
既に症状がだいぶ進んじゃってる可能性が高いんだけど、今ならどうだろうね。
※それは分かりませんね。
ま、やってみますか。
ちょうど手紙もあることだし。
ここまでお読みくださりありがとうございます。
次回、ヴィレラ神父とご対面です。




