第十一話「銀の龍を摘め」
こんにちは、お読みいただきありがとうございます。
第十一話は、敵側――金津邸の場面が中心です。
慧鬼の報告によって、美里が脇出美奈子の異変を察知し、滄爪・棘王・盤角・岩砲の四人に抹殺命令を下します。
今回は派手な戦闘ではなく、静かな会話劇です。けれど、その静かさの中に、美里という人物の本質――「期待しているように見えて、実は何も期待していない」という冷たさが詰まっています。盤角と岩砲が浮かれる姿を、どうぞ覚えておいてください。
それでは、第十一話「銀の龍を摘め」をお楽しみください。
雨は夕方から本降りになっていた。
屋根瓦を叩く音が、まるで無数の爪が規則的に何かを引っかいているようで、金津邸の廊下に立っていると、自分の息遣いさえ聞こえなくなる。 屋敷はいつも静かだった。 雨の夜は、さらに静かだった。
広間の方向から人の声はない。 侍女たちの足音もない。 雨と、古い木材が軋む微かな声と、遠くで獣が動く気配だけがあった。
金津邸は、誰かを迎える家ではなかった。 ここに呼ばれた者は、命令を受け取りに来る。 そして出ていく。 それだけだった。
廊下の奥、広間の障子が薄く光っている。 その向こうで、誰かが何かを待っていた。
濡れた足跡が玄関先から広間まで続いていた。 水の染みた畳が、暗がりの中でも黒ずんで見える。 足跡の主は小さい。 二メートルほどの骨ばった体躯で、びしょ濡れのまま広間の中央に入り込み、今は床に額を近づけてひざまずいていた。
慧鬼だった。
トロオドン型の偵察鬼。 全身はくすんだ灰褐色で、夜の木立に紛れる保護色をしている。 巨大な両目だけが暗がりの中でぼんやりと光り、不均衡に目立つ。 戦うためではなく、見るために生まれた鬼だった。
広間の中央、低い座台の上に、金津美里が静かに座っていた。
ダークレッドの鬼気が、その背後に薄く揺らめいている。 まだ十六歳の少女でありながら、その姿には一軍を率いる者だけが纏う重さがあった。 感情の動きが見えない。 部屋の空気が彼女を中心に、ぴんと張り詰めていた。
美里の左右に、霧香と烈王が控えている。 壁際では医療責任者の巨響が腕を組み、天井の一点を見つめていた。
誰も口を開かない。
慧鬼が、湿った低い声で言った。
「見てきました、美里様。清王学園の一年一組に、脇出美奈子という少女がいます」
美里は目だけを動かし、慧鬼を見た。
「続けなさい」
「病弱な少女です。顔色も悪く、動きも遅い。入学式から二ヶ月遅れての登校でした。白血病の療養、ということになっています」
広間に、ごく小さな変化があった。 霧香の灰紫色の瞳がわずかに動く。 烈王の腕が、微かに組み直される。 それだけだったが、場が一瞬締まったことは、慧鬼にも分かった。
「けれど、普通ではありません」
美里は黙って聞いている。
「昼前のことです。脇出美奈子が倒れかけました。そこへ十彩獣団の一人、富津歩美が駆け寄りました」
慧鬼の大きな両目が、記憶を反芻するように細くなる。
「黄色い霊光が出ました。明駆の回復札です。歩美の指先から、それが脇出美奈子の胸元に溶け込みました。すると、彼女の呼吸が戻った。顔色も少し回復した。それ自体は、回復術の効果の範囲内です」
慧鬼は一度間を置く。
「ただ、それだけではありませんでした」
美里の指先が、肘掛けを一度だけゆっくり叩いた。
「歩美の霊光に反応するように、脇出美奈子の周囲に……銀色の気配がありました」
霧香が言った。
「銀色?」
感情を排した、確認するだけの声だった。
慧鬼はうなずく。
「まだ形にはなっていません。一瞬だけ、空気が変わるような感じでした。霊護獣の気配に近い。ただ、獣というより」
少し間を空けた。
「龍に近い。そういう気配でした」
雨音だけが広間を満たした。
誰も口を開かない。 霧香の鉄扇が、静かに閉じられる音だけがした。
美里はしばらく黙っていた。 目を閉じているわけではない。 ただ、すでに答えを出した者が、言葉に乗せる準備をしているように見えた。
やがて美里は、静かに笑った。
喜びではなかった。 怒りでもなかった。 獲物の存在を確信した者の、冷たく静かな笑みだった。
「脇出美奈子……脇出家の娘ね」
慧鬼は頭をさらに低くする。
「はい。そのように、認識しております」
「あの子は今、何を知っている?」
「おそらく、何も。自分の中に何かがあることも、自分が狙われる存在であることも、まだ知らないはずです。登校初日で、周囲に馴染もうとしているところでした」
美里は視線を落とした。
「覚醒前なら、まだ摘める」
静かな確信だった。 暖かさのかけらもない言葉だった。
霧香が続ける。
「抹殺すべきです。覚醒前なら、処理は容易です。銀の龍が目覚めてからでは、状況が変わります」
美里は霧香の言葉を否定しなかった。 むしろ、その提案を待っていたように薄く笑った。
「そうね。芽は、花になる前に摘むべきだわ」
烈王が低く問う。
「我らが動くか?」
「まだよ」
美里は首を横に振った。
「あなたたちに動いてもらう段ではない。十彩獣団に、こちらの主力を見せすぎる必要はないわ」
美里は広間の隅に控えていた下級鬼へ目配せした。 下級鬼は一礼し、音もなく広間を出ていく。
その背中が廊下に消えるのを見届けてから、美里は雨の向こうを見た。
窓の外は完全な闇だった。 金津邸の庭は広い。 梅雨の夜に光がなければ、何もない深淵のように見える。 美里はその暗さを見ながら、頭の中だけで盤を組んでいた。
脇出美奈子。 銀の龍。 眠っている。 まだ覚醒前。
十彩獣団の保護下に入る前に片をつける。
それだけのことだった。
◇
しばらくして、広間の障子が再び開いた。
最初に入ってきたのは、黒と水色のバリオニクスの鬼、滄爪だった。 鬼の姿ではなく、人間の姿のまま、丁寧な所作で一礼する。 河間純二郎。 十五歳。 水の知将と呼ぶに相応しい冷静さが、その眼差しから滲んでいた。
「お呼びでしょうか、美里様」
続いて入ってきた棘王、宮谷健弥は、口数少なに膝をついた。 長身で骨太の体躯。 黙って立っているだけで圧がある。 その背中から、濁流めいた鬼気がほんのわずか漏れていた。
三番目に現れた盤角、宮前昭は、ちらりと広間を見渡し、自分の胸に手を当てた。 こういう場に呼ばれたことを、認められた証として体で受け取っているらしかった。
最後に岩砲、公文修一が入る。 がっしりした骨太の体格で、どこか浮かれた空気をまとっている。
四人が揃った。
美里は四人を順番に見た。
「明日、清王学園へ行きなさい」
盤角が反射的に顔を上げた。
「清王学園? あの私立の?」
岩砲が笑う。
「マジかよ。学校の真ん中に乗り込むんすか。派手な話っすね」
霧香の視線が二人に向いた。 それだけで、岩砲の笑みが一瞬固まった。
美里は二人の軽口を無視した。
「目的は、脇出美奈子の抹殺」
広間の温度が一段下がった。
滄爪が涼しい顔で言った。
「脇出美奈子……標的は生徒ですか?」
「ええ。清王学園高校一年一組。病弱で、二ヶ月遅れて登校してきた少女よ」
滄爪の目が細くなる。
「目的が十彩獣団ではない、ということは……その少女の方が危険だと?」
美里は答える前に、少しだけ間を置いた。
「理解が早いわね、滄爪」
滄爪は微笑んだ。 素直な賞賛を受け取る笑みではなかった。 情報を一つ手に入れた者の、静かな確認だった。
棘王の拳が、わずかに床を軋ませた。
清王学園。 バスケ部。 補欠。 細呂木蓮。
三年が過ぎても、消えていなかった。 怒りですらなかった。 息が詰まるような、骨に染みた痛みだった。 その痛みが、長い時間をかけて腐り、今は鬼気になっていた。
美里はその反応を見逃さなかった。
「棘王。あなたには道案内をしてもらうわ」
棘王は短く答えた。
「……分かりました」
滄爪がわざと軽い口調で言う。
「申し訳ありません、美里様。清王学園はどこですか?」
美里は棘王を見た。
「彼が知っているわ。元生徒だから」
棘王の目が、暗く燃えた。
盤角が棘王を横目で見る。
「へえ、兄貴、あそこの出身なんすか」
棘王は答えなかった。
美里は四人の顔を、一人ずつ丁寧に見た。 その視線は、道具を検分する者の目だった。 けれど、表向きは何も悟らせなかった。
「滄爪、あなたが全体を指揮しなさい」
「承知しました」
「棘王は前線。十彩獣団が出た場合、細呂木蓮を引きつけなさい」
棘王は無言でうなずいた。 その無言が了承だった。
「盤角。防御と攪乱。標的に近づく者を止めなさい」
盤角は胸を張る。
「任せてくださいよ。俺を認めてもらえるなら、いくらでも働きます」
美里は穏やかに見える笑みを浮かべた。
「ええ、知っているわ」
一拍置いた。
「あなたはここまでよく頑張ってきた。明日は、その全部を出しなさい」
盤角の頬がわずかに赤くなった。 目が、かすかに潤むように見えた。 やっと言ってもらえた、という顔だった。
「岩砲。破壊と分断。必要なら校舎でも壊して構わない」
岩砲の顔に喜びが浮かぶ。
「いいんすか? 派手にやって」
「ええ。派手にやりなさい」
美里は少し声を和らげた。
「あなたにしかできないことよ。それが、あなたの強さだから」
岩砲は子供のように笑った。
広間の壁際で、霧香は表情を動かさなかった。 烈王も、微動だにしなかった。 二人の沈黙は、美里の言葉の温度とはまったく別の場所にあった。
美里の言葉には、嘘くさい匂いがなかった。 それが彼女の恐ろしさだった。 演じているのではない。 盤角と岩砲に対して、その瞬間だけは本当に言っているのだ。 ただ、その言葉の寿命が、明日の夜明けまでしかないことを、美里はとうに決めていた。
「銀は、空を変える色です」
霧香が静かに言った。
盤角が首をかしげる。
「空を変える?」
「理解する必要はありません」
霧香は二人を見なかった。
「命令通りに動けばいい」
美里は最後に、四人を見渡して言った。
「脇出美奈子を殺しなさい。銀の龍を摘みなさい。目覚める前に」
◇
廊下を出ていく四人の背中を、滄爪だけが少し遅れて見送った。
盤角と岩砲の笑い声が廊下の向こうへ消えていく。
滄爪は足を止めなかった。 ただ、頭の中で一度だけ、別の名前をなぞった。
瓜生翼。
中学時代の同級生。 今は敵の参謀格。 感情を動かさず、戦場を盤面として読む男。
滄爪が嫌いなタイプではなかった。 いや、正確に言えば、敵として向き合うなら翼がいい。 やりがいがある。 それだけのことだった。
廊下の奥で、盤角と岩砲の笑い声がまた聞こえた。
滄爪は何も言わず、歩いた。
◇
「美里様」
広間に残ったのは、美里と霧香だけだった。
「この作戦は失敗します」
美里は驚かなかった。
「知っているわ」
「脇出美奈子は、おそらく覚醒します」
「ええ。そうでしょうね」
「なら、なぜ」
美里は雨の向こうを見た。 暗い庭。 濡れた石。 何もないはずの闇に目を凝らす者の顔だった。
「見たいのよ。失敗しても構わない。こちらが知りたいのは、銀の龍が本物かどうか——それだけ」
霧香は沈黙した。
美里は続けた。
「滄爪と棘王は回収する。あの二人は今後も使える」
「盤角と岩砲は?」
「捨て駒でいい」
ためらいがなかった。
盤角が「やっと認めてもらえた」と顔を赤らめた事実も、岩砲が子供のように笑った事実も、美里の中では何の重みもなかった。 使えるかどうか。 価値があるかどうか。 生き残る資格があるかどうか。 それが、彼女の唯一の判断基準だった。
霧香は小さくうなずいた。
「承知しました」
美里は最後に、窓の外へ向けて言った。
「選ぶ側には、選ばれる痛みが要るのよ」
広間の外で、雷が低く鳴った。
◇
慧鬼はまだひざまずいていた。
四人が去ったあとも、誰も彼に下がれと言わなかった。
盤角と岩砲が戻ってこないことを、慧鬼は分かっていた。 美里様はそう決めている。 盤角が頬を赤くした瞬間を、慧鬼は見ていた。 岩砲が笑った瞬間を、慧鬼は見ていた。
二人は、知らない。
慧鬼は今夜初めて、自分の仕事を——この命令そのものを——見るのが怖いと感じた。 告げることもできない。 覆すこともできない。 ただ見るために生まれた鬼が、今この瞬間だけは、見たくなかった。
「慧鬼」
美里の声が降りてきた。
「明日、清王学園の周囲で待機しなさい。動くことはしなくていい。ただ、見届けなさい」
「は、はい」
「銀の龍が目覚める瞬間があれば、見届けなさい」
「……承知しました」
慧鬼は広間を出た。 廊下を歩く足取りが重かった。 戦いに出るわけではない。 それなのに、この命令の重さが足にきていた。
広間に、美里だけが残る。
美里は立ち上がった。 急いでいない。 焦っていない。 すでに必要なことをすべて決め終えていた。
一輪の花の蕾を見つけ、明日の朝にそれを摘もうと決めた者の、静かな確信だけがあった。
霧香は一礼し、広間を出た。
美里は一人になって、再び雨の向こうを見た。
「銀の龍を摘みなさい。目覚める前に」
その声は、誰かへの命令ではなかった。 雨に向かって言い聞かせるような、静かな独白だった。
その夜、金津邸の雨は止まなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
美里の「銀は、空を変える色です」という台詞、そして「選ぶ側には、選ばれる痛みが要るのよ」という独白。今回は美里の支配者としての顔を、できるだけ温度を抑えて描きました。盤角が頬を赤らめた瞬間、岩砲が子供のように笑った瞬間――その二人の喜びが、誰にも知られないまま消えていく構造を意識しています。
次話「五限目、地理総合」では、舞台は再び清王学園へ。大溝奈緒の授業中、校内放送が美奈子を呼び出します。日常が、放送ひとつで戦場に変わる――そんな話になります。
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※本作の執筆にはAIを活用しています。




