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雨龍覚醒――銀の空を呼ぶ少女  作者: 孔雀丸


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第10話 歩美の黄色い光

こんにちは、お読みいただきありがとうございます。

第三章、第10話です。

今回は一年一組の、なんでもない一日から始まります。

トーストの枚数の話、プリントの段落番号の話。美奈子にとっては、まだ少し慣れない、けれど確かに心地よい教室の時間です。

ですが、昼前。

その日常に、小さな異変が差し込みます。

歩美の回復札が美奈子を救う場面。そしてその一瞬を、誰かが見ています。

静かな回ですが、今後につながる伏線がいくつも仕込まれています。ゆっくり読んでいただけたら嬉しいです。

 六月の空は、まだ何も決めていない。

 灰色の雲が、清王学園(せいおうがくえん)高校の屋根の上で動かずにいた。梅雨の匂い。水を吸った教科書の紙の匂い。そういうものが溶け合って、一年一組の教室に、どこか息苦しい空気を作っていた。

 脇出美奈子(わきでみなこ)は窓際の席で、ノートを開いたまま止まっていた。

 昨日と今日で、何かが変わった気がする。

 昨日の放課後、綾実が「明日もよろしく」と言った。それだけのことだった。なのに今朝も、その言葉がまだ胸の中に残っていた。どうして残るのか、自分でも分からなかった。

「脇出さん、今日の朝ごはん何食べた?」

 前の席から友紀(ゆき)が振り返る。黒いポニーテールが弾むように揺れた。

「えっと……トースト、です」

「一枚? 二枚?」

「……一枚、です」

「それ絶対足りなくない? 私二枚食べてきて、もう三限目でお腹空いてきたから。どういうこと」

 そう言って首を傾げる友紀に、美奈子は思わず口元が緩んだ。

 病弱なんですかって、聞かない。

 大丈夫ですかって、確かめない。

 ただ、一枚と二枚の話をしている。その差が、美奈子には少し眩しかった。

「脇出さん。昨日僕が説明したプリント、覚えてますか」

 斜め後ろから声がした。瓜生翼(うりゅうつばさ)だった。

「はい。次の授業は二枚目のプリント……ですよね」

「正確には二枚目の表面、三段落目から七段落目にかけての記述が核心部分であり——」

「翼」と横から(れん)が静かに割り込んだ。「また助走に入ってる」

 翼は一拍置く。

「……二枚目を見れば大丈夫です」

「最初からそれで——」と美奈子は言いかけて、慌てて口を押さえた。しかし翼は気を悪くした様子もなく、「まあ、そうですね」と頷いた。

 蓮が「一文で要約された」と呟いて、周囲に小さな笑いが広がる。

 美奈子も、今度はちゃんと笑えた。

 この笑い声の中に、自分も少しいる。その感覚が、美奈子にはまだ慣れなかった。でも確かに、そこにあった。

 ◇

 三限目が始まった。美奈子はノートを取った。文字が書けた。それだけで、少し安心した。

 四限目が終わった。昼休みまであと一時間。

 そのころから、美奈子は気づいていた。指先が少し冷たい。それだけなら気候のせいにできる。だが次第に、視界の端が薄くなり始めた。光が拡散するような、水の底にいるような、あのいつもの感覚が戻ってきた。

 立ち上がれば治る。いつもそうだった。

 椅子を引いた。立ち上がろうとした。

 膝から力が抜けた。

 机の縁に手を伸ばす。指先に力が入らない。

「脇出さん?」

 声より先に、手が来た。

 肩を支える手。驚くほど迷いのない手だった。

 富津歩美(とみつあゆみ)だった。いつ気づいていたのか分からない。美奈子が自分の異変を意識してから、ほんの数秒しか経っていなかった。それなのに歩美はもう隣に立って、美奈子の肩を支えていた。

「無理しないで。今はしゃべらなくていいから」

 声は少し慌てているのに、手は落ち着いていた。

 美奈子はその手に体重を預けるように、ゆっくり椅子に座り直す。

「だ、大丈夫……少し休めば——」

「うん、休もう。今ここで」

 歩美は美奈子を立ち上がらせようとしなかった。それがかえって、美奈子を安心させた。

 慎悟(しんご)がすぐに立ち上がった。「保健室、連れてくか」

「みんなちょっとスペース空けて」と友紀が自然な声で周囲を誘導する。

 伊織(いおり)は音もなくハンカチを取り出し、歩美に渡した。歩美はそれを受け取り、美奈子の手をそっと握る。

 冷たかった。血の気が引いている。

 歩美の胸の中で、何かが跳ねた。

 ◇

 明駆(めいく)、と歩美は心の中で呼んだ。

 ここは教室だ。変身もしていない。普通の授業の途中で、十彩獣団(じっさいじゅうだん)じゃないクラスメイトもいる。

 でも美奈子の呼吸は浅い。指先が冷たい。

 迷いが消えたわけじゃない。迷う前に体が動いていた。それが富津歩美という人間だった。あとから怖くなることは分かっていた。でも今は関係ない。今、美奈子がここに戻ってこなければならない。それだけだった。

 制服の袖口から、そっと回復札を取り出す。

 小さな黄色い札。ノウサギの耳を思わせる紋様が、細い線で刻まれている。淡く、けれど迷いなく発光していた。

「ちょっとだけ、これ当てていい?」

 美奈子は薄く目を開けたまま頷いた。意味を理解しているかどうかも怪しかった。それでも歩美の声に、体が応じた。

 回復札を美奈子の胸元に近づける。黄色い霊光が静かに広がって、そのまま美奈子の体へ溶け込んでいく。春の日差しが積もった雪をゆっくりほどくような、温かくて穏やかな光だった。

 乱れていた呼吸が、少しずつ深くなる。冷たかった指先に、温度が戻ってくる。

「……あれ?」

 美奈子が自分の胸に手を当てた。「苦しくない。さっきまで、息が詰まるみたいだったのに」

 歩美はそこで初めて、ずっと止めていた呼吸を吐き出した。

「よかった。本当に、よかった」

 それは戦いに勝ったときの声じゃなかった。大切な誰かが、今ここに戻ってきてくれたことへの、ただの安堵だった。

 美奈子は歩美を見た。膝をついたまま、自分の手を握ったまま、泣きそうなのをこらえている少女を見た。

「ありがとう、富津さん」

「ううん。私は、できることをしただけだから」

 美奈子の視線が、歩美の手元へ落ちた。

 黄色い光が消えた、その手へ。

 それから自分の手を見た。何もない、ただの自分の手を。

「……できることがあるって、すごいですね」

 感謝じゃない場所から来た言葉だった。歩美はそれを聞いて、少し間を置いた。

 歩美は美奈子の手を握ったまま言った。

「脇出さんにも、きっとあるよ」

「私に、ですか」

「うん。今はまだ分からないだけで」

 その言葉は、まだ届かなかった。でも何かが、心の奥の静かな場所で、ほんの少し動いた気がした。

 南海(みなみ)が水筒を差し出した。美奈子はゆっくり受け取り、口をつける。冷たい水が喉を通る。

「大丈夫です」という言葉を、美奈子の口は探した。いつでもそこにあるはずの言葉。でも今日は、見つからなかった。

 歩美の手がまだそこにあった。

 美奈子は何も言わなかった。ただその温かさに、黙って甘えた。

 ◇

 その刹那だった。

 黄色い霊光が消えかけた、その一瞬。

 歩美の指先が、かすかに痺れた。

 反射的に手を引こうとした。引かなかった。美奈子の呼吸はまだ整っていない。

 でも確かにあった。黄色い光の内側から、まるでそれに呼び起こされるように、別の何かがほんの一瞬だけ揺れた。

 チリン、と。

 音ではなかった。気配だった。遠くて、小さくて、それでいてひどく透き通った何か。

 歩美は美奈子の顔を見た。目を閉じたまま水を飲んでいる。気づいていない。

 ——今のは、何だ。

 胸の中で問いを立てた瞬間、伊織が窓ガラスを見ていることに気づいた。

 雨雲を映した鈍い銀色の窓ガラス。伊織の目が、その一点で静かに止まっていた。

 視線が交わった。

 二人とも、何も言わなかった。

 それが答えだった。

 ◇

 伊織は静かに窓から目を離した。

 龍の尾のような細長い銀の影。一瞬だけ見えた。一瞬で消えた。自分が今見たものを、伊織は否定しなかった。それが波松伊織(なみまついおり)という人間だった。見たものは見た。記録した。それだけでいい。

 ただ今は、これを言葉にする場所ではない。

 ◇

 校舎の外では、六月の湿った風が吹いていた。

 降るか降らないか迷っていた雲は、まだ迷い続けていた。

 校庭の植え込みとフェンスの隙間に、人ではない気配があった。全長二メートルほどの細身の体。灰褐色の保護色。不釣り合いなほど大きな両目が、校舎の窓の一点に向けられている。

 慧鬼(けいき)は動かなかった。三限目が始まる前から、ずっとここにいた。

 黄色い霊光。十彩獣団の回復役の力。それ自体は想定の範囲だった。

 問題は、その後だった。

 黄色い光が消えかけた瞬間に、一年一組の窓から流れ出た気配。

 銀色。

 十彩獣団の十色とは、明らかに異なる。だが霊護獣(れいごじゅう)に近い反応だった。それどころか、慧鬼がこれまで見てきたどの霊護獣よりも、もっと純粋に近かった。まだ眠っている何かが、ほんの一瞬だけ目を開けた——そんな気配だった。

「……見つけた」

 低く、湿った声で呟く。

 判断に一秒もかからなかった。この情報は金津美里(かなづみり)に届ける価値がある。慧鬼は偵察鬼だ。戦わない。見る。聞く。報せる。その三つだけだ。

 音もなく、フェンスの向こうへ消える。足音は雨前の湿った地面に吸われ、何も残らない。

 二十メートル離れた教室の窓から、誰かの笑い声が聞こえた。

 昼休み前の、普通の、何でもない笑い声だった。

 ◇

 一年一組の教室では、美奈子がもう一度だけ歩美の手を見た。

 さっきまで黄色い光が宿っていた、その手を。

 それから自分の手を見た。

 何もない、ただの自分の手を。

「富津さん」と美奈子は小さく言った。「また、お世話になりました」

 歩美は首を振り、笑う。「またって言わないで。何度でも来るから」

 教室に、普通の昼休み前の空気が戻ってきた。

 窓の外では、まだ雲が迷っていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

「歩美の黄色い光」、いかがでしたでしょうか。

冒頭の教室シーン、友紀のトーストの話や翼の長い説明は、戦闘もない日常回だからこそ書けた部分です。美奈子が「病弱なんですかって、聞かない」その差に救われる、という感覚を、なるべく説明せずに描きたいと思いました。

歩美が動く瞬間、「迷う前に体が動いていた」という一文は、今回いちばん大事にした部分です。歩美というキャラクターの本質は、回復の力そのものより、迷いより先に踏み出す足の速さにあると思っています。

そして、美奈子が歩美の手を見て「できることがあるって、すごいですね」とこぼす場面。これは感謝の言葉ではありません。彼女自身が、まだ自分の中に何があるのか分かっていない、その揺れを書いたつもりです。

ラストの「チリン」という気配と、伊織が窓を見る一瞬。そして偵察鬼・慧鬼が銀色の何かを見つける場面。

これは、何も気のせいではありません。

次回は「銀の龍を摘め」です。

慧鬼の報告を受けた金津美里が動きます。脇出美奈子という存在の危険性に気づいた敵が、ついに清王学園そのものに狙いを定める回になります。物語は、ここから一気に動き出します。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。

もしよければ、ブックマークや評価、感想で応援していただけると、続きを書く力になります。

次話も、よろしくお願いいたします。

※本作はキャラクターデザイン・世界観構築・構成・最終編集を著者本人が行っており、執筆および推敲の補助としてAIを活用しています。

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