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雨龍覚醒――銀の空を呼ぶ少女  作者: 孔雀丸


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第1話 六月の日曜日、福江駅前ムーンバックス

お読みいただきありがとうございます。

第三章「雨龍覚醒――銀の空を呼ぶ少女」へようこそ。

第一章・第二章をお読みくださった方、お待たせしました。


初めてこの話から来てくださった方、ようこそいらっしゃいました。

今章から新しい仲間が加わります。


脇出美奈子。銀色の龍を宿した少女のことを、どうかよろしくお願いします。

彼女が何者で、どんな子なのか。


それはこれから少しずつ、見ていただけたらと思います。

第三章は「梅雨と覚醒」の章です。


雨が降るたびに、何かが変わっていく。


そういう話を書きました。

今回の第1話は、ほぼ日常回です。


慎悟と南海がカフェにいるだけの話なのに、なぜかずっと怖い。


そういう回が、個人的には好きです。

ゆっくりと楽しんでいただければ幸いです。

 駅前の大型画面に、四体の恐竜が映っていた。

 バリオニクス、スピノサウルス、ステゴサウルス、アンキロサウルス。福江市(ふくえし)の「恐竜展」を告げる宣伝映像だ。子どもが指をさし、親がスマートフォンを向ける。誰にとっても、ただの楽しいイベント告知だった。

 北潟慎悟(きたがたしんご)ひとりが、その四体から、別のものを拾い上げていた。

 六月の日曜日は、朝から空が嘘をついていた。

 明るいのに、晴れてはいない。雲は白っぽく光っているくせに、その下には灰色の重たい層が貼りついて、街全体に薄い蓋をかぶせていた。福江駅前は休日らしく人が出ていたが、空気が湿りすぎていて、足音までどこか粘っこく聞こえる。

 街が、雨を待っていた。

 画面のすぐ脇、ガラス張りのカフェ「ムーンバックス」の窓際の席に、慎悟は座っていた。

 向かいには坪江南海(つぼえみなみ)がいる。栗色のツインテールの毛先が、湿気でほんの少し跳ねていた。灰色の空の下で、二人だけがかろうじて日曜日の明るさを保っていた。

「慎悟くん、これ、ひとくち食べてみて」

 南海がフォークの先に小さなチーズケーキの欠片を載せて、慎悟のほうへ差し出した。

 慎悟は一瞬固まった。

「……それ、自分で食べたほうがよくないか」

「いいから」

 慎悟は周囲をさっと見回した。隣の席の老夫婦も、奥の大学生らしき集団も、誰もこちらを見ていない。それを確認してから、ようやく身を乗り出してフォークの先をくわえた。

「……うまい」

「でしょ」

 南海は満足そうにフォークを引っ込め、残りを自分で食べた。慎悟は背もたれに体を戻しながら、なんとも言えない顔をしている。

「恥ずかしがってる慎悟くん、ちょっと面白い」

「面白がるなよ」

「だってさ。鬼が出てきても顔色変えない人が、チーズケーキ一口で挙動不審になるんだもん」

 南海がくすくす笑う。慎悟は反論しようとして、できなかった。事実だったからだ。

 二人はもう、戦いを知っている。だからこそ、こういう、なんでもない休日のやり取りのほうが、慎悟には大切すぎて、少し怖かった。

「今日は、戦いの話は禁止ね」

 南海が、フラペチーノのストローを指先でくるりと回しながら言った。

「禁止って」

「禁止は禁止。デート中に鬼の話する人、いないでしょ」

 慎悟は少し考えて、答えた。

「それ、俺だけじゃなくて友紀にも言ってくれ。あいつ、こないだの飯のときも『次の鬼ってどんな感じかな』ってずっと言ってたぞ」

 南海が吹き出した。

友紀(ゆき)ちゃんらしいなあ」

「俺の妹なのに、なんで俺より戦いを楽しみにしてるんだ」

「友紀ちゃんは進む人だから。慎悟くんは、止まって考えちゃう人」

 さらりと言われて、慎悟は黙った。南海の言葉は、いつもそうだ。からかっているようでいて、いちばん柔らかいところに、そっと指を置いてくる。

「学校といえばさ」

 南海が話題を変えた。来週、女子テニス部に怪我で休んでいた先輩が戻ってくること。その先輩がすごく面白い人だということ。話は駅前の人混みのことや、最近観た洋画のことへと、ゆるやかに流れていった。

 慎悟は、相槌を打っていた。打っているつもりだった。

 ただ、彼の視線は、何度か、南海の肩越しに窓の外へ滑っていった。

 大型画面で、宣伝映像がまた頭から流れはじめた。

 最初はバリオニクスだった。水辺に立ち、長く湾曲した前肢の爪を、ゆっくりと持ち上げる。CGの照明がその爪を白く光らせた。背景には明るいファンファーレが鳴っている。

 それなのに、慎悟の目には、その爪が何かを、誰かを、縦に引き裂くための形に見えた。水辺に立つ捕食者。獲物がそこに来るのを、ただ静かに待っている。爪の先が光を弾くたびに、慎悟の首筋を、冷たいものが撫でた。

「慎悟くん?」

「ん。聞いてる。先輩が面白い人、だろ」

「うん、合ってる。合ってるけど」

 南海はそれ以上言わなかった。

 画面が切り替わる。スピノサウルス。巨大な帆を背負った影が、水面の下からせり上がってくる。水を割り、しずくを散らし、灰色がかった巨体が陽の下にさらされる。広場の小さな子どもが「おっきい!」と歓声を上げたのが、ガラス越しにかすかに聞こえた。

 だが慎悟の胸の奥には、じわりと圧がかかった。息を吸っても、肺が膨らみきらないような、あの感覚。戦いのまえ、鬼が現れる直前に覚える、身体の反応だった。

 CGの画面から、殺気を拾ってどうする。

 慎悟はアイスコーヒーを一口飲み、視線を画面から外した。

 三体目。ステゴサウルス。背中に二列に並んだ大きな骨板。長い尾がゆっくりと左右に揺れる。本来は鈍重な草食恐竜のはずだ。それなのに慎悟の目には、その背の板の連なりが、ずらりと立てられた防壁に見えた。何かを通すまいとして並べられた、隙のない壁。突破するルートが、どこにも見当たらない。

 四体目が映った瞬間、慎悟の指先が、無意識にグラスを握っていた。

 アンキロサウルス。鎧のような硬い体。背も頭も装甲に覆われ、尾の先には骨でできた巨大な瘤がついている。それが地面を擦るたびに、低い地響きの音がスピーカーから流れた。

 大地そのものが武器を握って、こちらへ近づいてくる。そんな圧が、たった数秒のCG映像から、皮膚まで届いてきた。足の裏を、振動が這い上がってくる。そんな錯覚があった。

 四体。

 水辺の爪。湿った帆。並んだ壁。歩く大地。

 なぜ、この四体なんだ。

 視線を南海に戻そうとした。意識してそうしようとした。それでも、指先は、グラスを放せなかった。

「慎悟くん、手」

 南海の声がした。慎悟は我に返った。

 見ると、自分の右手がグラスを強く握り込んでいた。表面の結露が、指の力でいくつかつぶれ、手のひらを伝っていた。慎悟は、ゆっくりと手を離した。

「……悪い」

「いいよ。割れなくてよかった」

 南海は、責めなかった。何を見ていたのかを問い詰めることもしなかった。ただ、テーブルの上で、自分の手をすっと前に出した。慎悟の手のすぐ近くまで。触れるでも、握るでもなく、ただそこに置いた。

「また、嫌な予感?」

 南海が、声を少しだけ落として訊いた。

 慎悟は、すぐには答えられなかった。

 映像を見た瞬間、胸の奥に冷たい雨粒が一滴、落ちたような感覚があった。それはまだ、そこにある。けれど、それを言葉にしてしまえば、この窓際のテーブルが、戦いの会議の場に変わってしまう気がした。南海と過ごすこの時間だけは、戦いから切り離された、ただの高校生の日曜日であってほしかった。

 だから慎悟は、黙った。

 その沈黙が、南海にはいちばんはっきりした答えになってしまった。

 南海は、ほんの少しだけ眉を下げた。それでも、明るさは手放さなかった。

「あたし、戦うのは止めないよ。慎悟くんが守るって決めたなら、それは慎悟くんのものだから」

 南海は、テーブルに置いた手を、ほんのわずか慎悟のほうへ寄せた。

「何が来ても、慎悟くんは一人じゃないよ」

 そう言って、笑った。不安をごまかすための笑いではなかった。慎悟が知っている、いつもの、頬がほんのり赤くなる、あの笑い方だった。

 慎悟の胸の奥で、冷たい雨粒は消えなかった。それはまだ、そこにある。

 けれど、その重さごと、引き受けてくれる人がいる。それだけで、慎悟は前を向けた。

「……南海って、そういうところあるよな」

 慎悟は、ぼそりと言った。

「そういうところって?」

「こっちが言ってほしいことを、先に言うところ」

 南海は、一瞬きょとんとして、それからストローをくわえた。照れたときの癖だった。

「それ、褒めてる?」

「かなり」

 南海は答えに困ったらしく、フラペチーノを少し勢いよく吸った。氷がストローの先で鳴って、ずず、と間の抜けた音が出た。慎悟は、思わず笑った。その笑いで、ようやく、肩から少しだけ力が抜けた。

 二人は、それからしばらく、ふつうの会話に戻った。来週の小テストのこと。友紀が部活で派手にこけた話。南海が作ってみたい料理のこと。慎悟が観たい映画と南海が観たい映画が、珍しく一致したこと。何でもない、日曜日の会話だった。

 話している南海の横顔を、慎悟はときどき、意識せずに見ていた。

 別に何かを考えていたわけじゃない。ただ、この顔を見ていると、守るとはどういうことかを、理屈じゃなく知っているような気持ちになった。それだけだった。

 その会話の途中で、慎悟はふと、中学のころのことを思い出した。

 窓ガラスに最初の雨粒が当たるまえの、あの息苦しい静寂が、何かを引き出したのかもしれない。

 あのころ、同じ教室にいたのに、気づいたらいなくなっていた奴がいた。友達というほどでもなかった。でも、なんとなく気になっていた。その奴はいつも、輪のいちばん外側にいた。笑っているのに、その笑い方が、どこか内側へ向かって笑っているような顔をしていた。

 今、どこで何をしているんだろう。

 なぜあいつのことを、今になって思い出したのか。慎悟には、その理由が分からなかった。

 窓ガラスに、最初の一粒が当たった。

 ぽつり、と小さな音がした。少し遅れて、もう一粒。それから、ぽつ、ぽつ、と数が増え、やがて細かな雨音の連なりに変わっていった。

「降ってきたね」

「ああ」

 広場の人々が空を見上げ、それぞれ傘を開きはじめた。色とりどりの傘が、灰色の街にいくつも咲いていく。雨が降っても、街は止まらない。日常は、そのまま続いていく。

 それを見ながら、慎悟は、もう一度だけ大型画面に目をやった。

 宣伝映像は、ちょうど締めのカットに入っていた。四体の恐竜が横並びに立つ、恐竜展のメインビジュアル。雨に濡れた窓ガラス越しに見ると、CGの恐竜たちの輪郭は、水滴でわずかに歪んでいた。

 そのとき。

 慎悟には、画面の中の四対の瞳が、一瞬、こちらを見たように感じられた。

 ほんの一瞬だった。まばたきひとつぶんの。次の瞬間には映像が切り替わり、画面は別の広告に変わっていた。気のせいだ、と片づけてしまえる程度の、本当に小さな違和感。

 それでも、慎悟は無言で、テーブルの上の南海の手を握った。

 南海は、少し驚いたように目を見開いた。慎悟のほうから手を握ってくることは、そう多くない。けれど、彼女は何も訊かなかった。ただ、握り返した。

 二人のあいだに、言葉はいらなかった。窓を打つ雨音と、店内に流れる穏やかなコーヒーの香りが、その沈黙をそっと埋めていた。

「慎悟くん」

 しばらくして、南海が言った。

「ん?」

「今日のこと、ちゃんと楽しかったって、覚えててね」

 慎悟は、南海の手の温度を感じながら、少し間を置いてから答えた。

「……忘れるわけ、ないだろ」

 窓の外で、雨が少しずつ強くなっていく。福江駅前の人波は、傘の花を咲かせたまま、いつも通りに流れていた。その中で、ムーンバックスの窓際の席だけが、まだかろうじて、温かい日曜日の名残をとどめていた。

 ──────────

 同じ雨が、福江市の外れにも降っていた。

 金津(かなづ)邸。広間の高い天井に、雨音が反響している。同じ六月の雨のはずなのに、ここでは音の色が違った。もっと冷たく、もっと黒く、もっと深いところから降ってくるように聞こえる。

 薄暗い広間の奥で、ひとりの少女が窓の外を見ていた。

 金津美里(かなづみり)は動かなかった。雨粒が窓硝子を打つたびに、その細い指先が、ほんのわずか動く。ガラスの面を、一本の指でなぞるような動作だった。向こう側に並んでいる何かを、数えているように見えた。

 やがて美里が、静かに言った。

「雨が、足りないわ」

 感情は、なかった。怒りでも焦りでもなく、ただ状況を計算する者の、冷たくなめらかな確認だった。

「もう少し、降ってくれないと」

 壁際に立つ者たちは、息を殺している。誰も、美里が振り返るまで、口を開こうとしない。

 誰も答えなかった。答えることを許されていないのかもしれなかった。

 雨は、まだ降りはじめたばかりだった。


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

この話を書くとき、一番こだわったのは「慎悟が画面を見る場面」でした。

バリオニクスの爪。


スピノサウルスの背の帆。


ステゴサウルスの骨板。


アンキロサウルスの鎧。

恐竜展の宣伝映像です。


子どもが指を差して喜ぶような、楽しいイベント告知です。

なのに慎悟にとっては、そこに殺気がある。


爪が見えて、壁が見えて、足の裏に地響きが来る。

それは慎悟が臆病なのではなくて、すでに戦いを知っている人間だから起きることだと思って書きました。

戦いを知った人間は、日常の中でも「そこ」を見てしまう。


楽しいはずの場所で、先にそっちを拾ってしまう。

その重さを、南海が全部受け取っている。


「何が来ても、慎悟くんは一人じゃないよ」というセリフは、励ましでも慰めでもなくて、ただの事実の確認なんです。


彼女はそういう子だと、書きながら思っていました。

金津美里が最後に「雨が足りないわ」と言います。


何が足りないのか、今はまだ語りません。


ただ、その言葉は、この章の最後まで読んでもらったときに、別の重さで聞こえると思います。

第二話も慎吾と南海のデートです。


よければまた、お付き合いください。

ブックマーク・ポイント・コメント、どれも書く力になります。


一言でも嬉しいです。ありがとうございました。

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