第3話 勇者の後日譚
陽光が差し込む窓から、閑古鳥の鳴く声が耳朶を打つ。
窓に停まりに来た小鳥は地面に巨大な魔物のような影をゆらゆらと映し再び羽ばたいてゆく。
必要最低限の家具と申し訳程度の調度品で彩られた木製の壁、決して裕福な者が生活するとは思えない貧窮な雰囲気が隠しきれてない内装、そんな部屋の真ん中にあるソファの上で一人の青年が転寝していた。
エキゾチックな世界観と中世のヨーロッパ然としたこの世界の住人とはあまりにも浮世離れした容姿をしている。色白の東洋人の顔に、臙脂色のパーカー、etc…。
さらに特徴的なのが青年の髪色。髪型は前髪が長めの線が細い印象を与えるショートヘアなのだが、基調とする色は漆黒。だが前髪の左側からそのサイドにかけて鮮血のような赤いメッシュがかかっている。そして青年の双眸は右眼が漆黒、左眼が深紅のオッドアイ。
魔王討伐の過程で容姿は変形してしまったが、やはり性根は日本人と変わらない、そう、その青年はこの俺こと紅千影なのだ。
と、部屋の窓硝子が突如小刻みに振動すると共に冷気がパーカーの隙間を潜り俺の首元を竦ませる。心地よく寝ていた俺は身震いを起こし嚏をしたのだが、ソファで奇妙な体勢で熟睡していたため、盛大にソファから絨毯の敷かれた木製の床に自由落下してしまった。
「いてて、いつの間にか俺寝てたのか?」
頭部を強く打ち付けた俺は、鈍い痛みを発する頭を軽く振って意識を覚醒させる。
なんとなく部屋内を一瞥してしばらく茫然とする。
「寝るか」
思索に耽って即座に結論を出した俺は再び胎児のような恰好でソファの横になる。
すると突然、背後から何者かに頭を軽く叩かれた。
頭を摩りながら振り向くと、そこには一人の美女が堂々とした態度で仁王立ちしていた。
この人は俺の勇者パーティーのメンバーの一人、ライカ・エラクスカだ。
彼女のチャームポイントとも呼べる桃色の長い髪は基本的に二つ結びのおさげにして肩に流している。
髪と同色のマゼンタピンクの双眸は宝石のように魅惑的で、怜悧な美貌と少し吊り上がり凛然としているのも相まって第一印象ではキツイタイプに見えるだろう。
しかしその実体は厚情と人情を体現したような少女で、非常に優しい性格をしているのだ。
少し強気でサバサバしているのだが、ときたま乙女を見せるというギャップも存在する。
そんな魅力的な彼女だが、褒めると照れ隠しでぶっきらぼうな口調になったり、つっけんどんな態度になったりもする。
所謂、ツンデレだ。
「ラ、ライカ。なぜここに?そしていつの間に現れたんだ?」
ぎこちなく苦笑を浮かべながら僅かに身をよじる俺。
「なんで私がこんなに怒ってるか、わからないとは言わないわよね?」
なぜだろう。美少女のこれ以上ないほどの満面の笑みなのにどす黒さを感じる。
「はい。わかってます」
怖い、怖いよ、その笑顔。
などとは肝の起立しきった俺には到底言えず、申し訳なさそうに呟く。
我ながら情けない。
「でもライカ、もうちょっとだけここにいさせてくれよ。ここはあそこに比べると酷く落ち着くんだ」
上目遣いでダメ?と可愛く懇願してみると侮蔑の眼差しを向けた後にため息をつかれた。解せぬ。と、いい加減しびれをきらしたのかライカにパーカーのフードを掴まれる。驚く俺だが、ライカはそんなことは構わずにソファの上から遠慮なく引きずろ下した。尻もちをついて痛がる素振りを見せるが、それすら意に介さずライカは俺を玄関へと導こうとする。
「ダメよ。こんな所で道草食ってないで戻るの!」
「い、嫌だ!なんのために俺が皆の眼を盗んでここまで逃げてきたと思ってる!……うぐぅ、く、苦しい」
パーカーのフードを引っ張られた状態で子供のように藻掻いたせいで、自分で自分の首を絞める形になってしまった。
「あ、ごめん」
苦悶の声をあげる俺に思わずといった様子で慌ててフードを手放すライカ。
彼女の魔の手から解放された俺は、密に不適な笑みを浮かべて声高々に叫ぶ。
「ふん、かかったな!」
「なに?!」
焦慮に駆られて再度俺に掴みかかろうとするライカだが、そんなものに引っ掛かるほど愚鈍な俺ではない!
一瞬の隙をついて前転を繰り返して間合いをとる。
「騙したわね!この怠惰!」
「否、首はほんとに痛かったし!後、怠惰っていうな、このガサツ女!」
「なんですって?!」
首元を押さえて唇を尖らせる俺に対し、ライカはキッと睨めつける。それだけで肝が縮み上がりそうになる。これ以上の抗議は命の危機に繋がると確信した俺は一人、勇気を出すことすらできずに彼女を宥めることにシフトする。
「悪かったって。今のは言い過ぎた。でも俺は屋敷に戻らない」
「何言ってるのよ。まだ大量に仕事が残ってるじゃない」
ライカの発言から俺は先刻の場面を想起する。
絵画の飾られた漆喰の壁、上に吊るされた豪奢なシャンデリア、細緻な金糸の刺繍が施された深紅の絨毯、中央に設置された革張りのソファ、大量の羊皮紙の束が積まれた文机の背後にはカーテンの開かれた巨大な窓があり、そこから幾筋も差し込んだ光芒が部屋中に光の鱗粉をまき散らしている。そんな屋敷の執務室の文机の席で羽ペンと判子を片手に黙々と作業する俺。
俺の性格を鑑みれば、想像しただけで吐き気を催しそうだ。
眼前で俺を睥睨する桃髪の魔術師を一人差し置いて、俺は思索に耽る。
どうしてこうなったのか……。
魔王を討伐して世界に平穏が訪れてから既に半年が経過している。
当時の俺は勇者パーティを結成し、仲間たちと切磋琢磨し、肉体の鍛錬と技倆の研鑽を積み、ついには魔王を斃すことができた。人類のこの世の何にも代えがたい悲願であった打倒魔王を完遂したとして俺はここロペルブルク王国の国王、ロペルブルク17世より自身の偉大なる栄光と武勲を讃え、勲功爵の身分を叙爵されることになったのだ。
そして報奨金として巨万の富を手に入れて、さらには辺境の領地の支配権が授与されることになる。
地位や肩書き、栄光を何よりも望む者ならば、羨望の眼差しを向けてくるかもしれない。
だが、その影響で大量に仕事が舞い降りたのだ。
辺境の領主として領民の要望に応え、例えば川が氾濫して被害の恐れがあったら防波堤を設置するとか、近場の森林から魔物が人里に降りてきて被害が出ているとの報告があれば、対魔物用の画策を練って柵を強化してみたり、領土内で犯罪率が高くなって入ればそれらを取り締まり治安を維持する警邏隊などの増強をしてみたり、あるいは別のアプローチから、犯罪を抑制するために娯楽施設などの設備を整えてみたり、等々。
なお、それらの補強工事や機関には人材が必要不可欠である。となれば人員を雇用し育成し労働者一人ひとりに生活するための給料を払うプロセスを踏まなければならない。
俺の管轄する領地内の経済を回すために予算案を提出したり等々。
これらの庶務作業が増えるため、もはや人生の大半をぬるま湯につかってきた日本人の俺に過労が訪れるのは自明の理。
俺はライカ達の眼を攪乱して、屋敷で働く侍女達に重要な案件があるから外出すると嘯き、馬車に乗ってこの都市まで訪れてきたのだ。僅かな賃金しか懐になかったので、安い宿屋に停まるしかなかったが、領地のことで知恵熱を出して疲労が限界に達していた俺にとっては至福のひと時に思えた。そしてソファで眠りにつき、現在に至る。
「どうかしたの?チカゲ」
「む?」
ライカに目線を合わせると彼女は怪訝な面持ちで俺を見つめている。
どうやら戦闘が始まると思っていたが、俺がリラックスな体勢をとって肩透かしを食らっているようだ。
「フン。なんでもねえよ。それよりライカ、悪いけどここはおとなしく引いてくれ。相手の都合を考慮して妥協することも、妙齢な大人の女性への一歩となるのさ」
「セクハラよ、あんた」
「なっ!セクハラはないだろ。この軽口は共に冒険した同士の証じゃないか」
「いらないわよ、そんなサムい証」
眉を寄せ顔を顰めてしっしっと床を掃く箒のように手を振るライカ。
「ちぇ、つれないな」
「そんなことより屋敷へ帰るわよ?」
「断る!」
「っ!そんなに拒絶するなら力づくで行くわよ?」
嗜虐的な声音に視線を向けると、いつの間にか彼女の手にはグリップ部分が渦巻き状に湾曲した木製の杖が提げられていた。
その刹那、ライカが何をせんとするかを察して俺は絶叫を迸らせて彼女の奇行を止めに入る。
「よ、寄せ!ライカ!この部屋は借り物の宿屋だぞ?もちろん、他の客室には利用者がいる。ここで魔術を行使すれば公序良俗に違反する!」
「む。それもそうね」
なかなかの脅威を片手に顎に指を添えて思案するライカ。
最悪の事態を予見していた俺は安堵の吐息を漏らす。と、そこで彼女の上に電球が炸裂した。
「そうだわ。魔法がダメなら物理よ!」
「……へ?」
茫然自失とする俺をよそに自己完結した炎の魔術師はスタッフを傍らに置き、俺と対峙するようにファイティングポーズを取り始める。
「じょ、冗談だよな?ライカ」
「さあね、答えは身体で教えてあげるわ!」
慄然と顔を引きつらせる俺と殊勝な笑みを浮かべるライカ。
その日の昼、ロペルブルクにある都市のとある宿屋で阿鼻叫喚が木霊したのは言うまでもない。