表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

 四

 王の前に到着したときには、既に場は整えられていた。主だった臣下が集い囲む内側には、王の母である女性が後ろ手に縛られ頭を下に抑えつけられながら跪いている。みっともなく取り乱し、泣き喚く彼女に誰も注意を払わない。


 血と小水の酷い臭いが鼻を刺す。囲いが割れ、王母の近くに壮年の男が倒れて――胸に穴を開けとっくに絶命しているのが見て取れた。


「ふん、遅いお着きですなぁ……」


 禿げ頭の大臣が嫌味な口調で責めるのを無視し、男と女は苦い顔をしている王への挨拶を述べた。王は厳しい顔つきでそれに応える。ここに彼らが呼ばれた理由について文官から説明があるより先に、大臣の一人が大きな声を張り上げた。


贋物(がんぶつ)の姫よ、そこな男こそがお前の真の父だそうだぞ。お前は先王の(たね)ではないのだ、淫売の娘よ! よもや己の出自を知っていて(たばか)ったか? 姫として持て囃され、下にも置かれぬ生活はさぞ笑いが止まらなかったろう」


 血も凍りそうなほどの毒が、禿頭(とくとう)の醜い口から吐き出される。真っ向からこのように罵られたら、身に覚えのない者とて赤面して俯いてしまうだろう。だが、女は大声に怯む様子もなく頭を高く保っていた。しかしその眼差しは伏せられ、誰とも視線を合わせることもない。


 長いまつげに金粉が光る。

 その美しさの何と気高いことか!


「……ええい、何とか申せ! 沈黙は肯定と取るぞ!」


 今や姫ではなくなった女は、それでも頑なに口を閉ざしていた。啜り泣きながら情に訴え命乞いをする母親と、王の裁きを待つかのように黙した娘と。その差が余りにも深く浮き彫りになった。


 凍り付いていた聴衆がざわつき始める。高慢な女めが開き直ったぞと嘲る声もあれば、何も知らずに育てられたのではと疑問を口にする声もある。どちらかと言えば、泣きもせず母親を責め立てもしない女に対し、同情的な言葉が漏れ聞こえた。


 それらの言葉のどれをも等しく跳ね除けて立ち続ける女の、細い肩が震えているのを知るのは、傍に立つ男のみであろう。


「……淫売の娘もまた淫売よ、嫁いで尚、夫に体を許さぬのはそれが明らかになるのを恐れてであろう? 恥知らずめ、お前にこのような(きぬ)など必要あるまい!」


 怒りで顔を赤く染めた、禿げ頭の大臣が吠える。大股で女に近寄り手を伸ばす。女がはっと息を飲んだ。


 しかし響き渡ったのは禿頭(とくとう)の男の悲鳴だった。脇に控えていた男が素早く彼の手首を掴み、握り潰さんばかりに力をかけていたのだ。一部、卑猥な期待をした者たちからの野次が飛んだ以外は、安堵の空気が漂った。






 五

 大臣にも非があると、男は罪に問われなかった。王の御前を騒がせた事を男は謝罪し、その場を辞する。


 女は、死罪が言い渡された時も涼しげな表情を崩さなかった。それどころか、壇上の王に向けて優雅に一礼した。罪人を連行する兵士たちがまるで供の者に見えるほど、女は頭を高く上げしっかりした足取りで評定の場を出ていったのである。


 ――死罪。


 生まれたことが罪だというのか。母親の不貞の責を何故(なにゆえ)に子が負わねばならないのだ。子は親を選べないというのに? こんな風に命を奪う権利が誰にあろうというのだ、神でもない、ただの人間ごときが罪の重さを量る事、それによりその命を奪う事がこんなにあっさりと済まされてよいものか。


 突然、掌を反したように何もかもがこぼれて落ちゆくような、そんな虚無感を男は抱いた。


 ――このままにしてはいけない。


 砂漠の民にとって長の判断は絶対だ、男とてその誓約に従ってこれまで生きてきた。だが例え王の下した裁定であろうと、男に従うつもりはなかった。余りにも理不尽な命令ならば、拒否することも出来るのだ。それはつまり離反を伴う拒絶、死を覚悟しての抵抗である。






 六

 夜陰に乗じて牢を破り、砂漠に逃げ込む手筈を男は短時間のうちに整えた。口が固く、男のために身を投げ出すことも厭わぬ者たちばかりを五人、先に行かせた。己は女を拐って後に馬で追い付くつもりであった。


 牢がある建物まで、何の障害もなくやって来る事が出来た。まるで男のために人払いがしてあるのではないかと思われるほどの静寂だ。物陰から様子を窺ってその異様さに気付く。牢番すらいないとは……これは明らかにおかしい。


 作為的に手薄にされた警備の意味するところは何か。男がまず頭に浮かべたのは、妹想いの若き王ではなく、裁きの場で下卑た笑いを張り付かせながら女の(ころも)に手を掛けようとした禿げ頭の存在であった。


 嫌な想像を振り払いつつ足音を殺して階段を降りていくと、その予想通りに女のか細い悲鳴が耳に入ってきた。


「暴れるなと言うに! おとなしく足を開けば優しくしてやるぞ? 嫌がるふりをして、どうせ本心では喜んでおるのだろうが!」

「ううっ、嫌ぁ……っ!」


 涙に濡れた女の声に、男は冷たい殺意を抱いた。二人いた大臣の私兵を音もなく葬り、壁の炎が照り返して明るい禿頭に目掛けて拳を振るった。呆気なく意識を失った体を乱暴に足で転がし、男は女に手を差し伸べた。


「さあ、この手を取りなさい。貴女を連れて逃げるためにここへ来たのです。まだ死にたくはないでしょう?」


 だが、この期に及んで女はまだ躊躇っていた。謝礼どころか返事すらない。いや、それでも、ただ手を取りさえすれば良いものを、どうして黙ったままなのだと男は内心叫び出したかった。


「貴女を死なせたくない。……まだ、歌の続きを聴かせていないのだから」


 不機嫌を押し隠し、男は妻の手を引いた。男の腕の中で小さく嗚咽を上げる女。思う存分泣かせてやりたい気持ちはあったが、時間を無駄にはできない。男は女を抱え上げて走った。たおやかな腕が男の首に回される。どこか歌物語のような風情に男はらしくもなく笑みを浮かべた。


 夜半から朝方にかけ、馬で乾いた大地を駆けた。ここで少しでも距離を稼いでおかねば、無理がきかない女連れの逃避行のこと、すぐに追い付かれてしまうだろう。


 砂にまみれた堅い大地には時々穴が開いている。足を取られれば終いだが、男は器用に避けて馬を駆っている。風が二人を嬲る。鼻や口に覆いをしても細かい砂が苛むのだ。ましてや目隠しをして進むわけにもいかない。男は度々、手で顔を拭った。


 やがて先行していた供の者たちと合流した。朝には馬も捨て、日射しを避ける布を張る。まだ都からそれほど離れていないのだ。ぴりぴりした空気の中、彼らはまた、夜の旅に備えて眠ることとなった。よほど疲れていたのだろう、水を飲んだ女はすぐに男の傍らで安らかな寝息を立て始めたのだった。






 七

 男の郷里までは五度朝を迎える必要があった。追っ手を警戒しつつ進んでいったが、これといって異変はなかった。そんな三度目の昼のことだった。幸運にもちょうど岩の多い場所で休むことが出来たおかげで、ゆったりと横になれると彼らは喜んだ。


 これまでずっと小さく身を寄せて寝ていたのだが、それでは息が詰まって仕方がない。窮屈な思いをしてきたのだった。男は供の者たちから離れた場所に女の寝床をこしらえてやった。手招きをしてやって来た女を座らせれば、名を呼ばれて引き留められた。


「どうして何もお尋ねにならないのですか。(さき)の王の娘ではない(わたくし)にこんなに良くして下さるのですか。どうして命を懸けてまで助けて下さるのですか」


 返答に詰まった男の心を知らず、さらに女は畳み掛けるように言葉を紡ぐ。


「ふしだらな女と烙印を押された私を押し付けられたこと、怒ってはいらっしゃらないのですか? 厳しく問い詰め、折檻したりはしないのですか? 私はいつまで貴方の優しさに縋ることが許されるのでしょう。

 私は、貴方の役には立たない女です。この身には塵ほどの価値もない、むしろ傍に置けば災いを招く女です。どうか捨て置いてくださいませ。もうこれ以上、ご迷惑はかけられません……」


 女の琥珀色の双眸は涙できらきらと光っていた。懸命に泣かぬようにしているのか、噛み締めた唇が震えている。


 女の向こう側に陽炎が揺れていた。


 下からわっと押し寄せるような熱は、太陽のせいばかりではない。男は彼女の汗ばむ肌にまとわりつく砂さえも艶かしく感じていた。


「今さら貴女を手放して何になりましょう。馬鹿な事を言うものじゃありません」

「憐れに思うならいっそ、貴方の手で殺してください。私と一緒でなければ、故郷にも問題なく帰れましょうし、他の国にも受け入れられますでしょう?」

「何処にも居場所がないと言うならば、自分が貴女の寄る辺となりましょう。砂漠の中に城でも築きましょうか、それともオアシスに住む楽士にでもなりましょうか」

「はぐらかさないで! 質問に答えてくださいませ。どうして貴方は……」

「愛しているからですよ」


 男が遮って口にした言葉に、女は目を丸くした。


「貴女を愛しているのです。

 王胤(おういん)であろうとなかろうと、それを知っていて民を騙していようと、そんな事はどうでもよろしい。むしろ、自分の中での答えはとうに決まっています――貴女に疵など、何処にもない。全ての者の口は塞げない、言いたい者には言わせておけば良い……それでも、誰かが貴女を侮辱するならその時は、名誉のため剣を手に戦いましょう」


 はらり、と。女の目から真珠のような涙がこぼれた。口許はぎこちなく笑みを作る。


「妻の役割も、果たしていない私を……?」

「そんな事、気にしてはいない」


 男はそう言ったが、本心では気にしていた。女が頑なに床を共にするのを拒んだ理由は何なのだろうと。それに気付いたのだろうか、女は立ち上がり腰布に手を掛けた。


 止める間もなく、女の体が露わになる。豊かな髪の毛が縁取る肢体は程よい肉付きで、若々しさに溢れていた。盛り上がった胸の二つの膨らみは水気をたたえてはち切れそうな果実のようだ。象牙のように滑らかな肌にはしかし、臍の辺りから腿にかけて醜くひきつれた火傷の痕があった。


「母が……。

 あの人が幼い私を殺そうとした時の傷です。これを見られたくなくて、貴方にあんな態度を取ってしまいました。どうか、お許しを……。醜い娘と呆れられ、捨てられたくなかったのです。浅ましい女でしょう? お嫌いになりましたか?」

(むご)い……。我が子への仕打ちがこれか……!」


 男は俯く女に近づき、そっと頭を抱き寄せた。


「こんな傷で嫌いになどなるものか。それを言うならば、おれの方がよほど傷だらけだ。もう隠さずとも良い、それも含めて……お前が愛しい」


 丁寧な口調をかなぐり捨て、素のままの言葉で愛を囁く男の胸で、女はそっと涙を――哀しみからではなく今度は喜びから、涙を流したのだった。






 八

 ようやく旅の終わりが見えてきた頃だった。供の内の一人が、後方に巻き上がる砂埃を見た。何者かがこちらへやって来るのだ。日中の砂漠を、熱砂を蹴散らして。


 男たち一行は急いで駱駝を繋いでいた紐を解き女を乗せた。このまま駆け抜けて、砂漠の民の集営地に入れば追っ手も諦めざるを得ないだろうと、男は駱駝に鞭を当てる。


 男と女を逃がすため、供の者たちは弓を手にその場に残った。女が叫ぶ。それは男たちの作るときの声に掻き消された。


 追手は軍勢と言って良いほどの人数であった。まるで嵐のような砂の幕を連れて迫ってくる。兵士たちの声もまた、雷のように、豪雨のように轟き渡る。


 振り向いた女の目に、いつかの大臣の旗が翻っているのが見えた。男の命を奪わんため、女を生け捕りにするため、そんな事のために大軍を死地に投入したというのか……。女は、目の前が真っ暗になったような錯覚に襲われた。


 風を切って降り注ぐ矢の雨。駆けても駆けても果てがないように思われた。だが、もう少しの辛抱だと女は自分の心に言い聞かせた。


 ――あと少しで砂漠を抜ける。そうすればもう、追手は引き返すしかないのだから……!


 だが、無情にも駱駝は足を折った。勢いよく砂の上に投げ出された女は、頭を振りながら上半身を起こした。そして、矢に射抜かれて絶命した駱駝と、背に何本もの矢を生やして倒れ伏す夫の姿を見た。


 女の開いた口からは悲鳴すら漏れない。萎えてしまった足を引き摺り、女は男へと這い寄った。


「嘘よ……。ああ、どうか、返事をして……!」


 男の傍らで名を呼び、揺すり起こそうとする女に影が差す。見上げれば、禿頭の大臣が剣を振り上げていた。女は咄嗟に男に覆い被さった。


 剣は女の柔らかい身体を深々と刺し貫き、鮮血が流れ出た。白い(きぬ)(あけ)に染まっていく。女は溜め息と共に倒れた。驚き仰け反った大臣の首を、別の方向から飛んできた矢が射抜く。砂漠の民たちがやって来たのだ。


 方々で剣戟を振るう音がする。怒号が交わされる。だがそれも、大臣の死が確認されればすぐに収まるだろう。


 女は息も絶え絶え、最期の力を振り絞って体を起こした。男は既に事切れている。女が背中に受けた刃は、肺を裂いて胸から抜けていた。全身が血の色に染まり、胸元の白い翡翠の蓮もまた同じく。まるで最初から赤い花弁をしていたかのようだった。


(ねぇ、貴方。私、赤い花を見つけたの。随分と遅くなってしまったけれど、受け取ってもらえるかしら……?)


 女が笑むと、濁った水音がして唇から血がこぼれる。女は男の傍らへ身を横たえ、ついぞ触れられなかった唇に己の唇を重ね合わせた。


 そして眠りについたのだ。オアシスを抱く砂岩の城の夢を見るために。






 ――了――



 顛末を聞き届けた王は嘆息した。その顔には疲労が色濃く刻まれている。まるで一気に何年も老け込んでしまったかのようだ。


 不貞を働いていた母は極刑に値するが、妹に罪がないことは分かっていた。しかし、若い王には大臣たちを抑え込む力がなかった。


 己の無力のせいで妹を失う――その痛みに耐えていた時にもたらされた報せ、それは間違いなく救いに思われた。だがまさか、王である自分の命なく二人を追う者がいようとは考えてもいなかったのである。


 戻ってきた大臣の遺体は、罪人としてもう一度処刑される。それで対外的には問題ない。それでも砂漠の民たちとはこれからやりにくくなるだろう事は明白だ。


(それより何より、妹だけでなくあの男まで失うことになろうとは……! せめて生きていてくれたら、何年かかろうと二人をまた迎えられるようにしたというのに)


 王が聞いたところ、二人はまるで寄り添い眠るようにして死んでいたらしい。特に、女の方は微笑んでいたとの報告に、王の目蓋は熱くなった。


 戦で華々しい戦功を立てる男の話を、身ぶり手振りを交えて語り聞かせたのは王であったのだ。彼の妹は、何度も繰り返されるそれに嬉しそうに耳を傾け、戦車で繰り出す男の背を眺めて頬を染めていた。


 その姿を見て、王は二人を妻合(めあ)わせることを決めたのだった。あの男なら妹を幸せにするに違いないと。王の目は確かであった。彼の妹は、最期の瞬間まで幸福であったのだから。


 二人の遺体は砂漠の民の手によって、オアシスの近くに葬られた。彼らの供をし、勇敢に死んでいった男たちもまた、同じ場所で眠りにつくことになった。


 罪人とされた王妹とその夫の物語は、長く砂漠の民の間で語られることとなったのである。連綿と続く人々の営みを織物にすれば、きっとそこには赤い花の姿が見られる事だろう。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] くうううう!切ない。 切ないけどなんて素敵な物語! せめて、最後に心が通い合ってよかった。
[一言] 二太郎さんからオススメされてきました。 めちゃくちゃ刺さりました…!好きです!!!! 「赤い花」の使い方がすてき。愛ですね(*´艸`*) ときめきました!楽しい読書時間をありがとうございまし…
[一言] ロマンチックであり、残酷。それゆえにふたりの物語は人々の心に残り、語り継がれていくのでしょう。 赤い花がとても印象的な使い方をされていて、悲劇感を増長すると共に、はかなくも美しく見えました。…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ