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壁の向こうのB  作者: カカオ
第4章
40/53

歌っているだけで楽しいのだから

「オヤジ、どうしてあいつらの言うことなんか聞いたんだ! ライブ中止だぜ? ありえねーだろっ!」

「そうだなぁ」

 大の喧騒に、琢磨はのんびりとした調子で答えた。

 カウンターのスツールに大が座り、琢磨はその向かい側でウィスキーのオン・ザ・ロックをちびちびやっている。

「バンドメンバー集合」と琢磨が声をかけたので、小鈴とひかり、李利りりもスツールに腰をかけている。

 今日の『BAR無菌室』の営業は琢磨が休みにしたが、ひかりはいつものウェイトレス姿でいる。李利は苦いものでもかじったような顔で俯き加減で静かにしている。

 ユニットのリーダー達は一時間ほど前に帰っていった。琢磨の答えに、みんな満足そうだった。もちろん大を除いて、だが。

「李利はどう思うんだ? ライブ中止だぞ?」

 大に話を振られた李利は、ビクッと体を震わせて顔を上げる。

「あ、あたしは……その……弾きたいですけど」

「だろ? ひかりはどうよ?」

「ワケワカメ!」

 と元気よく答えるひかり。

 ――うおー、まさかこんなときに使うとは!

 小鈴はひとり頭を抱える。

「……なんでお前がそんな懐かしいもん知ってるんだよ。まあわからないってことか。しょうがない。小鈴はどうなんだよ」

「ほえ? わたし?」

「そうだよ。小鈴はもうあと三日しかいられないんだぜ? 俺たちとライブできるのもあと少しっきゃねえんだ。今やらなくていつやんだよ!」

「たしかにそうですなぁ」

「だろだろ? だったらやるっきゃないぜ! 見ろオヤジ! 三対一でライブやる派が勝利だっ!」

 大の無理やりな勝利宣言を、琢磨は黙殺する。

 気まずい空気が店内に流れる。琢磨がグラスを傾けカランと氷が揺れる音が、やけに大きく聞こえる。

 小鈴がおずおずと挙手する。

「なんだいお嬢ちゃん」

 琢磨がにこりと微笑み言った。

 小鈴は内心ほっとする。

 ――いやー気まずい空気はいかんですよねぇ。うん。

「――ええと、ひかりちゃんはワケワカメですからカウントできませんよ大さん。わたしも皆さんの反対押し切ってやるのはちょっと気が引けるというかなんというかワケワカメでして」

 なんだか自分で言っててワケワカメになりそうな小鈴。

 大はみるみる顔を真っ赤にして猿の尻のような表情になる。

「三対二だな、大」

「うぐっ……で、でもよう…………」

「大、人が死んでるんだ。元気を出そうっていうお前の姿勢も大事だが、今は大人しくしたほうがいい」

「…………それはまあ、そうだけど」

 大はブツブツと小さく呟く。大きな体の彼がそういう仕草をするとなんだか可笑しい。

「いいじゃねえか大。最近は新曲作りもしてなかったしよ。一旦篭もって技に磨きをかけるのも悪くはないと思うぞ。それにライブしないとは言ったが演奏しないとは言ってない。ここで好きに弾いたらいいさ」

「…………」

 大は彼にしては極めて珍しく黙っている。悔しそうに唇を歪め、何かに耐えているようにみえる。

「李利も、それでいいか?」

 琢磨が李利に訊ねる。

 李利は小さく頷く。

「ひかりは?」

「おっけーワケワカメ!」

 すっかりワケワカメがお気に入りらしいご様子。用法が若干おかしいが。

 琢磨はそれを肯定の返事だと受け取る。そして彼の視線が小鈴に移る。

「お嬢ちゃんには、ちょっと悪いことをしたな。大の言うとおり、あんたには三日しかないんだもんな。すまないことをした」

 琢磨はそう言うと、頭を下げた。そしてそのまましばらく動かないでじっとしている。

「ちょ、ちょっと琢磨さんっ、なにやってるんですか。頭を上げてください。わたしなら別に大丈夫ですよ! ここで歌えればそれでいいですっ。だって――」

 小鈴はそこまで言ってから一瞬硬直する。

 これから自分が言おうとしていることに、驚きを隠せない。

 けれど、もう喉の先まで出かかっている。

 それは自然に、小鈴の中で生まれ、外に向かって放たれようとしている彼女の気持ちだ。

 止めることなどできない。

「――――――――歌ってるだけで、楽しいんですから」

 小鈴の答えに、琢磨はにやりと笑った。

 大も、悔しそうな顔を崩し、いつもの人懐っこい笑みを浮かべた。

『BAR無菌室』のどこか強張った雰囲気は、小鈴のその一言で霧散したのだった。

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