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壁の向こうのB  作者: カカオ
第3章
30/53

絶句する李利

 今井李利いまいりりの機嫌は彼女がこれまで生きてきた中で最悪の状態だった。

 肩を怒らせ、こころなしか歩くスピードもいつもより速い。ついさっきまでサンザンロードの並びにあるスタジオでベースの練習をしていたのだが、思うように弾くことができなかった。

 歩いているうちに、いつもライブをしている場所に差し掛かった。今は機材も全て片付けられて何もない。

 その光景を見ているうちに、李利は自分で知らないうちに舌打ちしていた。

 ここ最近のライブの成功は過去に例を見ないほどである。それに大のギターは日に日にレベルが上がっている。ひかりもとても楽しそうだ。だが李利は、それを喜べないでいる。

 全ては沙仲小鈴が来たからもたらされたものだからだ。

 小鈴が歌わなければ今井ユニットバンドがここまで人気になることもなかった。大のギターが上手くなっているのは、単純にギターに専念できるようになったからだ。ひかりが楽しそうにしているのは、小鈴が来たからだ。

 ――ううん、違う。そうじゃない。あたしはただあの子と大さんが……。

 そこまで考えたところで李利は首を振り、気分を立て直そうとする。自分がひどく嫌な女に思えて我慢がならない。

「…………帰ろ」

 李利は小さく呟き『BAR無菌室』へと足を向けた。小鈴が来る前は、いつもライブが終わると大といっしょに歩いて帰っていたその道を。

 サンザンロードを途中で曲がり横丁に入り、アジトの『BAR無菌室』に続く地下階段を降りる。すると、コツコツという靴音が李利の耳に入ってきた。音が大きくなり、やがて薄闇の中からぬっと姿を現したのは、増山ユニットのリーダーこと増山啓造だった。

 李利は反射的に構える。

 増山ユニットと言えば、若い女を拉致同然に連れ去っているともっぱらの噂だ。警察が機能してしないここ<ゾーン・B>だから、彼らが噂など気にしないのは言うまでもない。

 ――どうして増山のとこのリーダーがうちに!?

 李利は内心パニックに陥っていた。琢磨は無事だろうか。ひかりは? 大は?

 啓造は李利を一瞥することもなく、彼女の横を通り過ぎ地上へと出て行った。彼の靴音が聞こえなくなるまで、李利はその場から動けなかった。  


「おう、おかえり」

 店に入ると、とくに荒らされた様子はなかった。琢磨は短くなったタバコを吸ってぼんやりしている。客は啓造が来たせいか誰もいない。

 李利は自分の心配が杞憂だったことにホッと胸をなでおろす。

「た、ただいま……あのさ、今そこで増山啓造とすれ違ったけど」

「ああ、珍しく酒が飲みたくなったんだとよ。ったく、あんなのが来たせいで客がみんないなくなっちまったよ。ひかりまで奥にひっこんじまったしなぁ。まだ怖がってるかもしれないから、ちょっと見てきてやってくれないか」

「う、うん、わかった」

 李利はカウンターを横切り『スタッフオンリー』と書かれたドアの取ってを押す――あれ?

 ドアが何かにぶつかって奥に開かない。

 ――なんだろ。間違えてドアの前に何か置いちゃったのかな。

 と思っていたら、ドアを押さえていたものが離れたらしく、すっと開いた。そこにはひかりがしゃがんでいた。  

 李利はそれを見て声をあげそうにあったが、すぐに押し黙る。

 ひかりの佇まいは、いかにも聞き耳を立てていたような具合だったからだ。啓造と琢磨が何を話していたのか聞いているかもしれない。大した用もなしに、あの増山啓造が来るはずがないと踏んだのだろう。

 ――事と次第によっては大さんにも伝えておかないと。

 李利はひかりを自分の部屋に連れて行った。

「ひかり、正直に答えてね」

「うんっ、こたえるっ」

「よし、良い子ね。増山ユニットのリーダーが来たでしょ?」

「う、うん」

 少しバツが悪そうな顔をしながらひかりは頷く。盗み聞きしたことを怒られるのかと思っているのかもしれない。

「大丈夫よ。怒らないから」

「ほんとうに?」

「本当よ」

「よかったぁ」

 ひかりはパッと表情を明るくする。

 そんなひかりを見ていると、盗み聞きした内容を聞き出すことに躊躇を覚えてしまう李利。――でも、このユニットのためだし。

 そう自分に言い聞かせ、彼女はひかりに問う。

「増山ユニットのリーダーと琢磨さんは何を話してたの?」

「あのね、啓造のおじちゃんはパパなの」

「パパ? そりゃああの人は増山ユニットのパパだよ。何を今さら――」

「そうじゃなくてね、小鈴ちゃんのパパなの」

 李利が絶句したのは言うまでもない。

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