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壁の向こうのB  作者: カカオ
第2章
19/53

空っぽは……嫌ですから

 ――ぽわーん。

 小鈴は地面に直に尻をつけてサンザンロードを見るともなく見ている。

 地上五ミリあたりを中途半端に浮遊しているかのような感覚が小鈴を取り巻いている。ぼーっとして、ふわふわして、それでいて感覚は妙に冴えている。ほんのわずかな風が頬にあたっただけでも、感触は誇大されて彼女の体を揺らすほどだ。

「おーい、生きてるかー」

 遠くから大の声が聞こえる。と思ったらすぐ近くにいた。スポーツドリンクの缶を小鈴の右頬にぺたりと押し当てる。

「つめたっ」

「ほれ、飲め。水分補給無しでこの暑さの中あれだけ歌ったらそりゃバテるぜ」

「ありがとです……う、うぅ……うぬぬ」

 プルタブをカリカリとやるも開かない。――力が全然入んないよ。

「ははは、相当疲れてんだな。ちょっと貸してみ」

 大が小鈴から缶を取り上げ、プシュッと小気味の良い音を立ててプルタブをむしり取った。缶を受け取った小鈴はぐびぐびと喉を鳴らして飲む。あっという間に空になってしまった。

「ぷはー。喉渇いてたみたいですね、わたし」

「生き返ったか?」

「はい」

 大が小鈴の隣に腰を降ろす。ステージはもう片付けられ、元スーパー跡地だけが姿をさらしている。ふたりはそのまま無言で人がまばらに歩くサンザンロードを見つめる。時刻は深夜二時を過ぎた。ライブが終わってからもう二時間以上経つ。

 人が減ったサンザンロードは、やけに広く見えた。アーケードもこころなしかいつもより高い位置にあるように思える。

 李利や琢磨はライブが終わるとすぐに機材を台車に乗せて店へ戻ってしまった。ひかりもいっしょに帰っていった。小鈴は今井家のファンに囲まれ、ついさっきまでたくさんの握手を求められていた。

「わたし、ちゃんと歌えてました?」

「でなきゃあんなに握手してくれなんて言われないぞ」

「……ですよね。うわぁ、なんか信じらんないですなぁ」

「まったくだ。よく即興で歌詞考えながら歌えたもんだ。俺ならぜってー無理だな」

「えっ!? なんですかそれ! 自分に無理なことわたしにやらせたんですか!」

「いやぁ、人間追い込まれたらスゲェ力出すって言うからさ。まあちょっと試したっつうの? 実験は成功だな」

「なんてこっちゃ……」

「いやでも真面目な話さ、お前が何考えてんだかわからなかったっつうのは本当だ。ばあちゃんが死んだって話してたときや、赤い壁の家を探してたときも、なんつーか……こう、さっぱりしてたっていうか、あっさりしてたっていうか。軽い感じに見えたんだよ、俺には」

「…………」

「でも、今日のライブでお前の気持ちが少しわかったような気がする」

 大はスポーツドリンクをひと口飲む。

 小鈴は大を横目で見つつ、ジーンズのポケットに入れてあるものを探る。それは指輪だった。ポケットの中でその指輪を転がしながら、彼女は思い出したように語り始める。

「――――わたし、自分のルーツを調べに来たんです」

 大は言葉を挟まず、神妙な顔つきで続きを待つ。

 アーケードの中を夏の生暖かい風が吹きぬけ、小鈴の髪の毛を軽く乱す。

「わたしが一歳のとき、お父さんとお母さんは<ゾーン・B>に閉じ込められました。わたしはずっとおばあちゃんに育てられたんです。でもそれ自体は別に不満なんて感じてませんでしたよ。おばあちゃんは優しかったし。

 わたしは小さい頃からいつも自分が空っぽだって思ってました。どうしてだかはずっとわかりませんでした。でもなぜだか、自分がすっからかんで何も入っていないコップみたいに思えてならなかったんです。自分が世界にいるんだかいないんだか、疑わしくてなりませんでした。そしてそれを疑問には思っても、とくに悲しくは思いませんでした。

 でも先日おばあちゃんが亡くなって、わたしはわかったんです。どうして自分がそんなこを考えてしまうのかを。

 わたしは、自分を生んだ人間を知らないのです。記憶にないのです。自分がいきなりポンッと放り出されたようにこの世に存在して生きているからだったんです。

 おばあちゃんはわたしの母の母です。おばあちゃんが母を生み、母がわたしを産んだ。でもわたしにしてみたら、おばあちゃんからわたしが生まれたような感覚でした。その感覚が、わたしの意識にズレを与えていたのです。

 自分のルーツを知らないわたしは、自分がそもそもこの世で生きているのかさえ怪しんでしまう。だから空っぽというか、中身のないコップすらない状態ですね」

「それで自分のルーツ、つまりオフクロさんとオヤジさんを探しに来たってわけか」

「そうです。……これ」

 小鈴はポケットから指輪を取り出し、手の平にのせて大に見せる。飾り気のないシンプルなシルバーのリングだった。

「なんだそれ、指輪か?」

「お父さんとお母さんの結婚指輪なんです」

「どうしてその片方をお前が持ってるんだ?」

「小さい頃のわたしのお気に入りだったらしくて、母はいつもわたしに渡しておいたそうなんです。そうすると泣きやむっておばあちゃんが」

「なるほどな。じゃあもしお前の親父が見つかったら、その指輪で確認すりゃいいわけか」

「ですね。もし今も指輪をはめてればすぐにわかりますし、結婚指輪ですから見せれば一目瞭然ですよ」

「一応、その指輪はめといたほうがいいんじゃないか? 失くすと困るし見せるときも楽だろ」

「それもそうですね」

 小鈴は左手薬指にその指輪をはめた。彼氏もいないのに左手薬指が埋まるというのは、なんだか妙な気分だなぁと思った。

「……見つかるといいな、オヤジさんとオフクロさん」

「はい。空っぽは……嫌ですから」

 でも小鈴はそう言いながらも新たな疑問を感じている。けれどその疑問の正体すらつかめない。漠然と、何かがひっかかるのだ。

 ――なんだろ。なんか違うんだよね。歌う前と歌った後とじゃ……わかんないなぁ。

「気持ちよかったろ?」

「え?」

 大の脈絡のない問いかけに小鈴は首をひねる。「何がですか?」

「自分の空っぽな気持ち吐き出してさ」

 小鈴はハッとして大のほうを見やる。大はもう神妙な表情など浮かべていない。人懐こい笑みを顔いっぱいに広げたいつもの大である。「さて、そろそろ帰るか。バーサーカーが出てくる時間になっちまう」

 ふたりは立ち上がり『BAR無菌室』へと帰ることにする。

 小鈴はその短い道のりの中で自問自答し続ける。疑問の正体が露になったのだ。

 

 ――吐き出す気持ちがあるんなら、わたしは空っぽじゃなくない?

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