バーサーカー症候群
午後七時。
『BAR無菌室』は常連客らしき男が三人、奥のテーブル席にいるだけでひっそりと静かである。その客たちにひかりが注文された料理を運んでいく。看板にはバーとなっているが、どちらかというとレストランのような趣がある。
「おまたせしましたぁー。ご注文のパエリアでーす」
ひかりの元気全快な声は静かな店の中を花が咲いたように明るくした。
小鈴はカウンター席に座り、ぼんやりとその光景を眺めている。記憶の中の赤い目をしたひかりと、今のひかりを比べ、そのあまりの違いに未だ信じられない気持ちを捨てられないでいる。
小鈴の視線に気付いたらしく、ひかりがトコトコと近寄ってくる。
「どうしたの小鈴おねえちゃん?」
「んーと……ひかりちゃん可愛いなぁって思って」
「あー、ひかりにはわかっちゃったぞぉ。小鈴おねえちゃんもウェイトレスさんになりたいんだねぇ? でもざんねんでしたー。この衣装、これしかないんだよねー」
「あーそれはガッカリだわ」
「えへへー」
ひかりはコロコロと笑う。
四時間ほど前には赤い目をして『ころす』と連呼していた人間と同一人物とは思えない。しかもひかりは自分があんな状態でいたことを覚えていないという。どうしてこんなことになっているのだろうか。
小鈴はさっき大や琢磨に聞いた話を反芻する。
「バーサーカー症候群?」
「……本当に何も知らずに来たんだなぁ」
琢磨は苦笑した。
「だってしょうがないですよ。<ゾーン・B>については知りようがないんですもん。ここに来る前にわたしなりに調べましたけど、ぜーんぜんなのです」
「おいおい、それマジか?」
大が魚みたいに口をパクパクしながら驚いた。
「マジです」
「うわぁ……なんてこった。そういえば外から来たヤツらって怖がって帰ってくって聞いてたけど、俺はそれをバーサーカーのことを甘く見てると思ってたぜ。でも違ったんだな。甘く見るもなにも、そもそもバーサーカーのことを知らなかったのか」
「あのー、そのバーサーカーってのは?」
「さっき見ただろ。俺がギターでぶっ叩いた野郎だよ。あの赤い目のやつ」
「でもひかりちゃんは……」
小鈴の問いかけに、琢磨も大も李利も、黙り込んでしまった。水の入ったグラスの氷がカタリと透明な音を立てて溶けた。大がその水を少し口に含み、それからゆっくりとした口調で語り始める。
「……………………ひかりも、バーサーカーなんだよ。バーサーカー症候群に、かかっちまったんだ」
「病気、ですか」
「そうだ。けど原因はわからない。十六年前に突然何人もの人間に発症したんだ。凶暴化して馬鹿みたいに力が強くなって、人を無差別に殺しやがった。最初はとち狂った野郎がやけくそになって暴れたのかと思われたらしいけど、それにしてはあちこちで騒ぎが起こる。かと言ってテロでもない。あまりにも計画性がないからだ。ただ暴れて殺して――」
小鈴はバーサーカー状態のひかりを思い浮かべる。
たしかに暴れて、ころすと繰り返していた。
「警察はなにをしてたんですか?」
「ちゃんと色々してたぜ。俺はそんとき小学五年だったんだが、あんときのことは今でも覚えてる。バンバン撃ちまくってたなぁ。そりゃあもう、戦争じゃねえかってほどにな。でもあいつら、銃で撃たれてもなかなか倒れなかった。しかも倒していく傍からバーサーカー症候群にかかるやつは増えていく。感染源はなんなのかもわからなかったんだってよ。もしかするとわけのわからねえウイルスがそこらへんフワフワ浮いてるかもしれねえ。困ったぞ困ったぞ……で、閉鎖だ……」
「そして<ゾーン・バーサーカー>の誕生ってわけだよ、お嬢ちゃん」
琢磨が大の後を引き継いだ。
「<ゾーン・バーサーカー>……Bはバーサーカーの頭文字だったんですか」
「ああ、なんでBなんかに変えたのか理解できなかったが、お嬢ちゃんを見てわかった。オブラートに包むためだったか。<外>に知られたら大騒ぎだろうからな」
「<外>では<ゾーン・A>をチェルノブイリ、そして<ゾーン・B>がここだというふうに教わっています」
「ははー。お偉いさんたちは面白いことを考えなさる」
琢磨が笑いながら言った。その目は全く笑っていなかったが。
そこで小鈴はおかしなことに気付く。自分は<ゾーン・B>のことを知らないが、その逆で大たちも<外>のことを何も知らないのでは、と。そう考えると、ひとつの疑問に至る。
「あ、あの……ここにテレビはないんですか? テレビじゃなくてもラジオでもなんでもいいんですけど」
すると琢磨は苦笑する。「たしか物置ん中にあったな。接続しても映らないがね。あらゆる電波が<ゾーン・B>には届かないんだ。だから俺たちは<外>のことは何も知らないんだよ」
小鈴は携帯が圏外だったことを思い出す。あれは地下だからなどではなくて、携帯の電波そのものが<ゾーン・B>には届かないということなのだろう。
「ええと、じゃあもしやこれ知りませんか?」
小鈴はおずおずと携帯電話を示す。ピンク色の折りたたみ式ボディのそれを、大たちは物珍しそうに凝視する。
「なんだそりゃ?」
案の定大がわけわからんと言いたげに訊いてきた。小鈴は携帯をカパッと開いてみせる。「電話です。携帯電話」
「電話!? こんなちっこいのに? あれ、線はどこだよ。子機か?」
「子機でもなく線もいらない、持ち運べる電話なのです」
「「おぉ!」」
大と琢磨が歓声を上げる。李利は冷めた目で見ているが。
――ドラえもんが道具出したときってこんな気分なのかなぁ。
小鈴はそんなことを思いながら、ここ<ゾーン・B>が十六年前で文明の進化がストップしてしまったことを思い知る。ここの異常さが徐々に飲み込めてきた。
「でもわたしがこっそり<ゾーン・B>に忍び込んだみたいに、皆さんもこっそり<外>に出ればいいんじゃないですか? 配達屋さんに頼んで」
小鈴の言葉は、まるで高い壁に阻まれるかのように、大たちには届かなかった。しばしの間の後、大がTシャツの二の腕の部分をまくる。
「これを見てくれ」
大の二の腕には黒い縦線が十本ほど刻まれていた。それはまるでバーコードのようで、線の下には数字の羅列もある。焼き付けられているのか、簡単に剥がれるような代物ではないことは一目瞭然だ。
「こ、これは?」
「ま、この街の住民ですっていう証明みたいなもんだな。これのせいで、俺らは<外>に出られないんだ」
「もしかして……」
「ああ、ゲートにはセンサーがあって、俺らが通ろうとすると警報が鳴っちまうんだ。そうなったら俺らは……どうなんだろな。想像したくもねえや。ははは」
大は力なく笑う。
「そのバーコードみたいなのは皆さんにも……?」
小鈴は琢磨と李利に順に視線をやる。ふたりは静かに頷く。
配達屋が言っていた『センサーはあるが<外>から来た人間が引っかかるわけがねえんだ』という意味がようやくわかった。どおりで呆気なく通れたわけだと小鈴は思う。
「それであの……話をバーサーカーに戻しますけど、バーサーカー症候群は、やっぱり治らないんですか?」
小鈴はほとんど答がわかっていたが訊いてみた。もしかすると過去に治った人がいるかもしれないと思って。だが、李利があっさりと小鈴が予想したとおりの答を返した。
「治らないわ。治っていたら、ひかりを閉じ込めたりしない」
「で、ですよね」
小鈴はちらりと李利のほうを窺う。李利は無表情に虚空を眺めていた。悲しそうにも見えるし、怒っているようにも思える。
「だがお嬢ちゃん、安心してくれっていうのも変だが、ひかりのことを嫌わないでほしいんだ。夜になったらひかりは部屋の外に出る。そのときはもう昨日のように元気なひかりに戻ってるから」
「え、それってどういう……」
「それは俺たちにもわからないんだよ。けどとにかく、バーサーカーは夜になると元の人間に戻るんだ。昼間だけバーサーカー化して凶暴になる。そしてバーサーカーの時の記憶はない」
「えっ、じゃあひかりちゃんは自分がバーサーカー症候群だってことを知らないんですか?」
「いや、知っているよ。記憶が飛んでるからな、おかしいと思うだろう」
「それもそうですね。だから昼間の間はひかりちゃんを地下に閉じ込めておいたのですか」
「そういうことだ。できればそんなことしたかないけどな。ほかに方法がないんだよ」
琢磨は力なく首を振り、吸っていた煙草を灰皿にねじ伏せた。
「ということは昼間外に出ると危ないってこと……ですよね?」
「当ったり前だろーが。昔ほどバーサーカーはいなくなったが、それでも危険には違いねえ。もう絶対に昼間に行動するなよ」
「ういっす。昼夜逆転させます」
小鈴の言葉に、琢磨は乾いた笑い声を上げた。「昼夜逆転か。もう当たり前になっちまったから、俺らには逆転もなにもないな」
――笑えねー。
小鈴は回想中に笑った琢磨を思い出し、そう感じる。でも笑うしかないのかもしれないなぁと思い直す。――わたしだって、いつもへらへらしてるしね。あっはっは。
ふと店の中に視線を走らせると、さっきより客が増えていた。カウンター席も半分は埋まっている。そこまで広くない店だから、このまま客が増え続ければ満席になるだろう。
そんな中を、ひかりがくるくると立ち回って客をさばいている。まだ八歳だが、すでに立派なウェイトレスだ。
店の中の柱時計を見ると、午後七時半を回ったところである。時間的にもちょうどいい。十分休んだし、バーサーカーはしばらく出てこない。よし。
小鈴はスツールから立つ。
「ん、お出かけかい?」
「はい、探してる家があるんです」
「ああ、そう言えばオヤジさんとオフクロさん探してるんだったな」
「はい。ちょっと行ってきます」
「気をつけてな。暗いうちに帰るんだぞ、お嬢ちゃん」
「あははは、わっかりましたー」
普通なら『明るいうち』なのに。
でもここ<ゾーン・B>ではそれがごく当たり前のセリフとなる。




