番外編第1話 六つの鐘
数字は嘘をつかない。
父がそう言ったのか、兄が言ったのか、もう覚えていない。覚えているのは、言葉だけだ。家紋が胡桃の葉であることと、その家紋が何の役にも立たなくなったことと、数字は嘘をつかないということ。それだけ持って宮廷に来た。
魔術監査局。帳簿を開いて、数字を照合して、不整合があれば報告する。
地味な仕事だ。宮廷の華やかさとは無縁で、没落した騎士爵の次男が配属されても誰も気に留めない。兄は王都の外れに工房を構えて木を削っている。弟は宮廷の隅で数字を数えている。親父が見たら笑うだろう。笑わないか。あの人は笑い方を知らなかった。俺に似ている。
着任して二ヶ月が経った。仕事は正確にやっている。上司の決裁印をもらい、報告書を綴じ、棚に入れる。誰にも褒められないし、誰にも叱られない。数字が合っているなら、それでいい。それだけでいい。
同僚の顔は覚えた。名前も覚えた。それ以上のことは知らない。昼食を一緒にとる相手もいないが、困ってもいない。兄の工房にいた頃から一人で食べるのは慣れている。胡桃材の削りかすの匂いがしない分、ここの昼食は少し味が薄い。
退勤の鐘が六つ鳴った。
筆を置いて、机の上を片づけた。インク壺の蓋を閉め、羽根ペンを立てに戻し、報告書の端を揃えて棚に入れる。
渡り廊下に出た。
監査局棟と書記局棟をつなぐ、屋根付きの通路。石の柱が等間隔に並んでいて、柱と柱の間から秋の風が入ってくる。
鐘の六つ目の余韻がまだ石の壁に残っている。
書記局棟の扉が開いた。
女性が一人、出てきた。
栗色の髪を後ろで束ねている。書記官の制服。右手に鞄。左手は扉の取っ手を離したところ。歩き出す。
すれ違った。
女性が会釈した。軽い、形だけの会釈。目が一瞬合って、すぐに逸れた。
俺も会釈を返した。
それだけだった。
◇
翌日も、鐘が六つ鳴った。
渡り廊下に出ると、書記局棟の扉が開いた。同じ女性が出てきた。同じ歩幅で、同じ方向に。
会釈。
返した。
翌日も。
その翌日も。
鐘の六つ目の音が消えるか消えないかの頃に、あの扉が開く。栗色の髪。書記官の制服。会釈。通り過ぎる。
ずれない。
三日続けば偶然ではない。一週間続けば習慣だ。一ヶ月続いたら──何と呼ぶのか、俺にはわからなかった。
監査局の同僚たちは、鐘が鳴ってから席を立つ。引き出しを閉め、書類を片づけ、外套を羽織る。早い者で鐘から三分後、遅い者は十分以上かけてだらだらと帰り支度をする。俺は──鐘が鳴った時点で机の上を片づけ終えているが、それは段取りが速いのではなく、散らかすものが少ないだけだ。
あの女性は違う。
仕事を切り上げる時刻が決まっている人間は珍しくない。だが、鐘と同時に扉を開ける人間は珍しい。鐘が鳴り始めてから席を立ち、荷物をまとめ、廊下を歩いて扉に辿り着くまでには、どんなに手早くても数分かかる。
あの女性は、数分の誤差がない。
鐘が鳴り終わる前に扉を開けている。つまり、鐘が鳴る前から片づけを済ませている。鐘が鳴ったら帰る──ではなく、鐘が鳴る頃には帰れる状態にしてある。
(……段取りが、速い)
監査官の目が、無意識に計算する。鐘の六つ目から扉が開くまでの時間。およそ十秒。鐘の前に片づけが終わっているなら、退勤準備の開始は少なくとも二分前。二分前には仕事を終えている。ということは、仕事の進捗管理を、退勤の鐘から逆算して組んでいる。
毎日、だ。
毎日、鐘の二分前に仕事を終えている。一日も欠かさず。一ヶ月。
帳簿の数字が毎月ぴったり合う部署は、実はほとんどない。だいたいどこかで端数が出る。端数を翌月に繰り越して、年度末に帳尻を合わせる。──それが普通だ。
あの女性の退勤時刻には、端数がない。
◇
着任三ヶ月目のある日、決裁待ちの報告書が溜まった。
上司が午後の会議に出て戻らず、決裁印が押せないまま退勤時刻が迫った。鐘が六つ鳴ったときにはまだ机の上に未処理の書類が三枚残っていた。
処理した。三枚を仮綴じして、明朝一番に決裁を受ける段取りをつけて、棚に入れた。
渡り廊下に出たのは、鐘から五分後だった。
誰もいなかった。
石の柱の間を、秋の風だけが通り抜けていた。扉は閉まっている。足音もない。書記局棟の窓に灯りはなく、もうとっくに帰った後だった。
立ち止まった。自分でも理由がわからないまま、渡り廊下の真ん中で足が止まった。柱に手をついた。石は冷たかった。
(──五分。たった五分だ)
五分待ってはくれない。
当然だ。あの女性は鐘に合わせている。俺に合わせているのではない。渡り廊下ですれ違うのは、互いの退勤時刻がたまたま重なっているからで、約束でも待ち合わせでもない。
わかっている。
わかっているが、渡り廊下に一人で立っていると、柱と柱の間隔がいつもより広く見えた。風だけが通る廊下は、着任した日の朝と同じ温度をしていた。誰にも見られず、誰ともすれ違わない通路。
官舎まで歩いた。玄関で靴を脱いだ。部屋に入って、灯りをつけた。
一人分の夕食を作った。食べた。片づけた。食器を棚に戻すとき、皿が一枚しかないのが目に入った。兄の工房にいた頃は二枚だった。
窓の外は暗い。秋の夜は早い。
明日は、五分遅れない。
◇
翌日。
退勤の鐘が鳴る二分前に、報告書の最後の一枚を棚に入れた。
机を片づけた。インク壺。羽根ペン。端数なし。
渡り廊下に出た。
鐘が鳴った。一つ。二つ。三つ。四つ。五つ。
六つ。
書記局棟の扉が開いた。
栗色の髪。書記官の制服。右手に鞄。
すれ違う。
会釈。
返す。
通り過ぎる。
渡り廊下の向こうに、背中が遠ざかっていく。石の柱を一つ、二つ、三つ過ぎて──書記局棟の角を曲がる。
八歩。
扉から角を曲がるまで、八歩。数えたつもりはなかった。数えていた。監査官の癖だ。数字が勝手に頭に入る。
名前は知らない。名札が見えたが、すれ違いの一瞬では読めなかった。声も知らない。会釈だけで、言葉を交わしたことがない。書記局の誰かだということしかわからない。
わかっているのは、鐘が六つ鳴れば扉が開くことと、すれ違いから角を曲がるまでが八歩であること。それだけだ。
渡り廊下に、風が通った。柱と柱の間から入ってくる秋の風は、さっきまでより少し冷たくなっていた。日が落ちるのが早くなっている。
明日も鐘は六つ鳴る。明日もあの扉は開く。明日も八歩の背中を見る。
帳簿の数字が合っていても、誰も見ていない。報告書を綴じて棚に入れても、翌朝まで開く人間はいない。宮廷の渡り廊下で、退勤する人間の背中など、誰も数えない。
でも、鐘は六つ鳴る。あの人はそこにいる。
数字は嘘をつかない。
──それだけが、確かだった。




