第40話 四つ目の靴べら
初夏の朝は、春より一時間早く明るくなる。
窓から差す光が白い壁を横切って、テーブルの上のカップに落ちた。紅茶の水面が揺れて、金色の輪が一つ広がった。
ヴェインが竈の前に立っている。白いシャツ。袖をまくった腕。湯気の向こうの角ばった横顔。引っ越してきた冬と同じ姿。季節が変わっても、この人の朝は変わらない。
壁の当番表を見た。月──V。火──M。水──V。木──V。金──M。土──V。日──M。
Vが四日。Mが三日。
春の半ばに気づいて、初夏になっても──変わっていない。
(……もう指摘する気がないのは、いつからだろう)
覚えていない。気づいた日に指摘しようと思って、帳面に書けなかった夜が来て、書けないまま日が過ぎて──気づいたら、偏りが日常になっていた。焼き栗の大きい方がこちらに来るのと同じだ。もう法則を超えている。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
一口、飲んだ。
ちょうどいい。
色も、温度も、茶葉の香りも。冬の最初の朝から何日もかけて辿り着いた「ちょうどいい」が、初夏になっても──一度もぶれていない。
「今日は休みです」
「知っている」
「何もしない日です」
「ああ」
「本当に何もしませんよ」
「わかった」
わかった、と言いながら、ヴェインはもう台所の棚を開けている。干し葡萄のチーズを出している。パンを切っている。何もしない日の朝に、きっちり朝食を用意する人。
(……「何もしない」の定義が、この人と私で違う気がする)
パンを食べ終えて、紅茶をもう一口。窓の外に、初夏の風が木の葉を揺らしている。春より少しだけ──濃い緑。
◇
午前中、書斎で帳面を整理していたら、玄関の扉を叩く音がした。
局間便の配達だった。休日でも届く便がある。ヴェインが受け取って、居間のテーブルに封書を置いた。
「書記局宛だ。回付印がある」
封書を手に取った。差出人欄──ブレーメン地方行政局、トビアス・ヴェーバー。
(……トビアス)
馬車で二日揺られて訪ねた町。小さな庁舎。空席の机。顔色の白い書記官。寝台の横の、角の擦れた帳面。「制度は正しいんです」と言った声。
封を切った。便箋が一枚。短い手紙。
指で行を辿った。
『アーレンス書記官長補佐殿。補足条項の施行後、初めて定時に帰ることができました。五つの鐘で。書き換え作業は残り二名の書記官と分担し、退勤時刻を超えない範囲で進めています。人員補充の請願書も、ご助言いただいた書式で提出いたしました。制度は、正しく動いています。ありがとうございます。──トビアス・ヴェーバー』
五つの鐘で。
あの宿の夜、ヴェインが窓辺で呟いた言葉。「ここの鐘は五つだ」。五つの鐘で誰も帰れなかった町で──帰れた。
便箋を持つ手が、震えた。
帳簿の差額を見つけたときとは違う。条文を書き終えたときとも違う。議会で可決を見届けたときとも違う。
もっと──静かな震え。
知らない町で、会ったのは一度だけの人が、定時に帰れた。私が書いた条文で。
(……前の世界では、こんなことはなかった)
前の世界にも制度はあった。残業規制はあった。でも──私が死んだ後も、同僚たちは終電で帰り続けた。制度は紙の上にあって、紙の上で眠っていた。
この世界では──紙の上の制度が、人を帰した。
帳面を開いた。便箋を挟んだ。オスカー殿下の三行の手紙の、さらに先のページ。降伏声明と、地方からの感謝の手紙が、同じ帳面に入っている。
ペンを取った。日付。「トビアスより手紙。五つの鐘で帰れた、と。人員補充の請願書、提出済み」。
書き終えて、ペンを置いた。
窓の外で、初夏の風が木の葉を鳴らしている。この風は王都からブレーメンまで届くだろうか。届かなくても──鐘の音は、届いた。
◇
午後。居間で紅茶を飲んでいたら、玄関の扉をまた叩く音がした。
今度は局間便ではなかった。郵便だった。小包。ヴェインが受け取って──手が、一瞬止まった。
この人の手が止まるのを見るのは珍しい。紅茶を淹れるときも、帳簿を検査するときも、焼き栗を分けるときも、この人の手は止まらない。
小包の宛先を見た。「ヴェイン・アーレンス様、マリエッタ・アーレンス様」。二人の名前。差出人──ライナー・アーレンス。
「兄から」
短い説明。ヴェインが小包を居間のテーブルに置いた。紐を解いた。布の包みを開いた。
中に──靴べら。
小さい。
大人の靴べらの、半分くらいの大きさ。胡桃材。赤みを帯びた木目。丸い葉の焼印。アーレンス家の家紋。大人の靴べらと同じ意匠で、でも──明らかに子供の手に合わせて作られている。
靴べらの下に、手紙が一通。ヴェインとは少し違う──丸みのある、温かい筆跡。
『ヴェイン。手紙を受け取った。靴べらは出来上がっている。来月、息子を連れてそちらに遊びに行く。靴べらが足りないだろうから、先に送る。──兄より。マリエッタさん、弟をよろしく頼みます』
(……手紙)
春の終わり。新居の書斎で、ヴェインが封筒に何かを書いていた夜。「兄の工房に頼みたいものがある」。それ以上は言わなかった。聞かなかった。
あれは──これだったのか。
甥の来訪のために、小さな靴べらを頼んでいた。子供の足に合う大きさの。家紋入りの。兄の工房で、胡桃材で。
「……これを頼んでいたんですね」
「ああ」
「あの夜の手紙」
「ああ」
短い返事が二つ。同じ音。同じ低さ。でもヴェインの耳が──赤くない。赤くないのに、手紙を折り畳む指先がいつもより少しだけ速い。この人は耳が赤くなるときと、指が速くなるときがある。どちらも同じ意味だ。
玄関に行った。靴べらの棚。壁についた小さな棚。
左の二つ。使い込んだ艶。官舎から持ってきた、最初からの二つ。
三つ目。引っ越しの日にヴェインが荷物の底に忍ばせていた新品。「いつか」のために用意されたもの。角が──丸くなっている。冬に並べたときは新品の角が尖っていた。今は、角が丸い。毎日ヴェインが触れるから。使わないのに触れるから。
四つ目を──並べた。
小さい。大人の靴べらの隣に置くと、親指ほどの差がある。胡桃材の赤みは同じ。家紋の焼印も同じ。でも大きさが違う。子供の手のための靴べらだ。
四つ。
左から──使い込んだ二つ。角の丸くなった三つ目。小さな四つ目。
ヴェインが後ろに立っていた。灰色の瞳が棚を見ている。
何も言わなかった。
三つ目の靴べらを並べたときも、何も言わなかった。「いつか」とだけ言った。今日は──「いつか」すら言わない。
(……四つ目は甥のためだ。来月遊びに来る、四歳の男の子のための靴べらだ)
でも。
三つ目の角が丸くなっていることと、四つ目が小さいことが、棚の上で隣り合っている。三つ目は「いつか」だった。四つ目は「甥」だ。別の意味のはずだ。別の意味なのに──棚の上では、同じ胡桃材で、同じ家紋で、同じ方向を向いて並んでいる。
「……来月、楽しみですね」
「ああ。兄は──うるさいが、悪い人間じゃない」
「うるさいんですか」
「俺の三倍喋る」
(……ヴェインの三倍ということは、普通の人の一倍くらいだろうか)
少しだけ笑った。ヴェインの口元も──動いた気がした。
◇
夕方。書斎に入った。
窓から初夏の夕暮れが差し込んでいる。春の夕暮れより赤みが薄くて、紫がかった明るさ。南向きの窓。左から光が入って、机の上に影を落とさない。ヴェインが確認した通りの位置。
胡桃材のペン立て。帳面。黒インクの瓶。ヴェインが補充してくれたインク。同じ銘柄。鉄と松脂の、かすかな苦さ。
帳面を開いた。
最後のページに近いところ。秋の夜に涙の染みがついたページ。オスカー殿下の三行の手紙が挟まったページ。今朝のトビアスの手紙が挟まったページ。全部、この帳面の中にある。
涙の染みの隣のページを開いた。
白紙。
ペンを取った。インクを含ませた。紙の上に先端を置いた。
──手が、震えなかった。
ブレーメンの宿で草案を書こうとしたとき、震えた。新居の書斎で帳面に書けなかった夜、凍りついた。でも今日は──震えていない。
書いた。
「前の世界で死んだ。三十二歳。机に突っ伏して、二度と起きなかった。鐘を無視し続けて、制度に殺された」
ペンが走った。止まらなかった。
「この世界で、鐘の鳴り方を変えた」
書けた。
帳面に前世のことを書いたのは、初めてだった。五年間、一日も欠かさなかった記録。何百ページ。日付と事実と条文番号。涙の染みとインクの染みと、挟まれた手紙。全部入っている。でも──前世のことだけは、書けなかった。書かなかった。
今日──書けた。
ブレーメンの宿で泣きながら話した夜と、ヴェインの「知っていた」と、トビアスの「五つの鐘で帰れました」が、帳面の上で一本の線になった。
ペンを胡桃材のペン立てに差した。インクの匂いが鼻に残っている。
帳面を見下ろした。
分厚い。五年分の記録。涙の染みも、降伏声明も、議会の可決も、トビアスの手紙も、今日の一行も。全部、この帳面の中にある。
窓の外が暗くなり始めていた。初夏の夜は春より遅い。まだ空の端に薄い光が残っている。
台所の方から、湯を沸かす音が聞こえた。
ヴェインだ。紅茶を淹れている。今日は土曜日。当番表の「V」の日。
帳面を閉じた。
──明日も、紅茶の当番は偏っている。Vが四日で、Mが三日。指摘しない。指摘する気がない。偏りが日常で、日常がちょうどいい。
玄関に靴べらが四つ。鞄の中に帳面。書斎にペン立て。台所にちょうどいい紅茶。
前の世界で最後に思ったこと。「誰かの隣で、時間を共有したかった」。
叶った。
鐘が六つ鳴ったら帰る。帰る場所に、もう一人分の足音がある。玄関の靴べらが四つになった。三つ目の角は丸くなって、四つ目は小さくて、どちらもまだ先の話だけれど──棚の上には、もう並んでいる。
台所から、足音が来た。書斎の前で止まった。
「エッタ。紅茶」
低い声。扉越し。いつもの呼び名。いつもの一言。
立ち上がった。帳面を机に置いた。
扉を開けた。
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