第30話 おかえり
退勤の鐘が六つ鳴ったら帰る。それが、二つの人生で唯一決めたことだった。
帰る場所が変わっても、鐘の数は変わらない。でも今日は──鐘が鳴るのが、少しだけ待ち遠しかった。
◇
新しい窓から、朝日が差していた。
早春の光。冬よりほんの少しだけ強くて、白い壁を薄い金色に染めている。昨日までの官舎の窓とは光の色が違う。南向き。ヴェインが確認した通り、左から光が入って、書斎の机に影を落とさない。
台所から、湯を沸かす音がする。
起き上がって、廊下を歩いた。台所に入った。ヴェインが竈の前に立っている。白いシャツ。袖をまくった腕。新しい台所で、同じ姿。
テーブルにカップが二つ。パンとチーズ。
ヴェインが湯を注いで、カップを私の前に置いた。
一口、飲んだ。
ちょうどいい。
色も、温度も、茶葉の香りも。何日もかけて調整して辿り着いた「ちょうどいい」が、新しい台所でも──同じ味で出てきた。
「……覚えた」
ヴェインが、自分のカップに目を落としたまま呟いた。声は低くて平坦で、いつもと同じ。でも──「覚えた」の三文字に、何日分もの試行錯誤が詰まっている。薄かった朝。少し濃くなった朝。まだ薄い朝。やっとちょうどいい朝。全部、この三文字の中にある。
(……この人は、紅茶の淹れ方を帳簿の整合性と同じ精度で追い詰めたんだろうな)
「ごちそうさまです」
「ああ」
パンを食べ終えて、椅子を引いた。
「今日は制度施行初日です」
「知っている」
「緊張してます」
「見えない」
「見えないだけです」
嘘ではなかった。手は震えていないし、声も安定している。でも胃の奥に、小さな石が一つ入っているような重さがある。自分が書いた条文が、今日から本当に動く。帳簿の書式が変わる。全費目の配分額と支出額と残額が三列で記帳される。差額が出たら監査局に報告が行く。
──もし設計にミスがあったら。条文の文言に曖昧な箇所があったら。運用で想定外の問題が起きたら。
「問題があれば直せばいい。制度は紙だ。紙は書き直せる」
ヴェインの声が、横から聞こえた。カップを洗いながら、竈に向かって喋っている。この人の大事な言葉は、いつも正面からは来ない。背中越し。カップ越し。扉越し。
(……でも、ちゃんと届く)
「行ってきます」
「ああ。定時に」
「もちろん」
玄関で靴を履いた。靴べらが三つ並んでいる。胡桃材の赤み。丸い葉の焼印。左の二つは使い込んだ艶。右の一つは新品の角。
扉を開けた。早春の風が頬に当たった。冬より少しだけ──柔らかい。
◇
書記局の執務机に、最初の帳簿が届いたのは鐘三つの直後だった。
財務局から提出された月次帳簿。新書式。表紙に「二重記帳制度準拠」の印。
開いた。
一頁目。費目ごとの三列。配分額。支出額。残額。
数字が並んでいる。三列。私が条文に書いた通りの書式で。
指で行を辿った。一行目──予算配分額と支出額を引いて、残額が合っている。二行目。三行目。四行目。全費目。差額──なし。
問題なし。
帳面を開いた。日付。「二重記帳制度、初の正常運用を確認」。署名。
書いている途中で、指先が震えた。嘆願書の不備を指摘したときは震えなかった。差押え執行命令を読んだときも。議会の採決を見下ろしたときも。なのに──帳簿の三列の数字が正しく並んでいる、というだけのことで、指が揺れている。
(……私が書いた書式だ。この世界になかった書き方。前の世界では当たり前だった書き方。それが今、目の前の帳簿に──ある)
「マリエッタ!」
ハンナの声が、机の向こうから飛んできた。両手にカップを持って、小走りで近づいてくる。いつもの光景。
「すごいわね、あなたが作った制度が動いてる」
「私が作ったんじゃないわよ」
「え?」
「帳簿が嘘をつけない仕組みを、みんなで作ったの。局長が署名してくれて、宮廷省が受理してくれて、議会が可決してくれて。私は条文を書いただけ」
ハンナがカップをテーブルに置いて、首を傾げた。
「……条文を書いた人が『書いただけ』って言うの、マリエッタらしいわね」
「らしいですか」
「らしい。すごくらしい」
ハンナが笑った。フリッツ局長が執務室のドアの向こうで、聞こえないふりをしている。でも──扉の隙間から、眉が五ミリ上がっているのが見えた。
◇
午後。監査局からの局間便が届いた。
封書を開けた。中に、書類が一通。「二重記帳制度 初年度運用報告書(第一号)」。
提出者欄。魔術監査局監査官ヴェイン・アーレンス。
受領印を押した。日付。書記官長補佐マリエッタ・アーレンス。
同じ姓が、提出者と受領者に並んでいる。
(……公文書に夫婦の名前が並ぶの、なんだか変な感じだ)
報告書の内容を確認した。監査局としての初日の所見。新書式の運用に大きな問題なし。帳簿の記帳精度について各部署への追加指導を推奨。
丁寧な報告だった。角ばった筆跡。無駄がない。灰色インクではなく黒インクだけれど──この人の字は、どの色で書いても同じだ。
報告書を棚に入れた。
退勤の鐘まで、あと二時間。帳面を開いて、午後の業務記録を書いた。初日の帳簿検査結果。ハルトマン鑑定官への連絡事項。各部署の帳簿提出状況。
ペンを走らせながら、窓の外を見た。早春の午後。日が少しだけ長くなっている。冬の間は退勤の鐘のころにはもう暗かった。今日は──まだ光が残っているだろう。
◇
退勤の鐘が、六つ鳴った。
鞄を持って書記局を出た。渡り廊下を抜けた。三年半、毎日すれ違ったこの廊下。退勤の挨拶だけの場所。焼き栗を分かち合った場所。「読みましたか」と言われた場所。
正門をくぐった。
ヴェインが、石畳の通りの角に立っていた。濃紺の監査官服。右手に紙包み。
──見覚えのある包み方。
「屋台が出ていた」
「毎回同じ説明ですね」
「事実だ」
「事実と理由は違うんですよ、アーレンス監査官」
「……家では『ヴェイン』でいい」
「ここは宮廷の外です」
「では?」
「ヴェイン」
並んで歩き始めた。石畳。二人分の足音。紙包みを開けて焼き栗を分けた。大きい栗が、今日もこちらに来た。
「嘘つき」
初めてこの人に「嘘つき」と言った。計量していない焼き栗の、嘘の分配を、嘘つきと呼んだ。
ヴェインの耳が赤くなった。白いシャツの襟がないから──いや、監査官服の襟があるのに、それでも耳の縁の赤みが見えた。
(……この人の耳は本当に正直だな。口が何も言わなくても、耳が全部答えている)
路地を曲がった。白い壁の家。木製の窓枠。鍵を差し込んだ。回した。
玄関に入った。靴を脱いだ。靴べらが三つ。
台所で湯を沸かす音がした。ヴェインが先に入って、紅茶の準備を始めている。
窓辺に椅子を二つ寄せた。早春の夕暮れが窓から差し込んでいる。冬の橙色よりも少しだけ──赤い。日が長くなった分、沈む角度が変わったのだろう。
ヴェインが紅茶を持ってきた。カップを二つ。窓辺のテーブルに置いた。
座った。向かい合わせではなく、隣。窓を向いて、肩が並ぶ配置。焼き栗の紙包みをテーブルに広げた。残りを二人で食べた。最後の一つは──小さい方だった。大きいのは全部、私が食べた。
「……全部大きいの食べちゃいましたね」
「気にしていない」
「気にしてないのに、毎回こっちに大きいのを渡す人は何て呼ぶんでしたっけ」
「夫」
秋の公聴会の帰り道に、私が教えた言葉。覚えている。この人は紅茶の淹れ方も焼き栗の答えも、一度聞いたら忘れない。
紅茶を一口飲んだ。ちょうどいい。朝と同じ味。
窓の外に、早春の空が広がっている。星が一つ、見えかけている。鐘の余韻はもう消えたけれど、空気の中にまだ振動が残っている気がする。
ヴェインの顔を見た。
灰色の瞳。黒い髪。飾り気のない輪郭。笑うと少しだけ目尻が下がって、硬い線がやわらかくなる顔。今は笑っていない。紅茶のカップを持って、窓の外を見ている。横顔。
いつもより──近い。
隣に座っているから当然だ。でも、近さの意味が違う。渡り廊下ですれ違っていた頃の近さでも、官舎の書斎で帳簿を並べていた頃の近さでもない。新しい家の、自分たちで選んだ椅子の、自分たちで決めた距離。
焼き栗の甘い匂いが、まだ指先に残っている。
「おかえり、ヴェイン」
声に出した。声に出そうと思って、出した。
ヴェインが窓から視線を戻した。灰色の瞳が、私を見た。
「……おかえり、エッタ」
低い声。半音低いのではなく──いつもの音域。でも、語尾の力が抜けていた。監査報告を読み上げるときには絶対に出ない、あのゆるさ。靴べらの棚を確認して「ある」と言ったときの、あの満足。
少しだけ身を乗り出した。
ヴェインの額に、唇を触れさせた。
一瞬。指先が触れるよりも短くて、焼き栗の皮を剥くよりも軽い。額の肌は少しだけ冷たかった。この人はいつも体温が低い。指も、額も。
離れた。
ヴェインが動かなかった。瞬きもしなかった。灰色の瞳が、近い距離で私を見ている。
三秒。五秒。
それから──耳が、赤くなった。首まで。
(……首まで赤くなるの、久しぶりに見た)
ヴェインが、カップをテーブルに置いた。右手が伸びて──私の左手に触れた。指が絡まった。秋の雨の日と同じ握り方。冷たい指。でも、あのときより──温かい。季節が変わったから。場所が変わったから。
握り返した。
窓の外で、星がもう一つ見えた。
◇
書斎に入って、灯りをつけた。
胡桃材のペン立て。南向きの窓。新しい机。帳面を開いた。
最後のページに近いところ。秋の夜、書斎で泣いた日の涙の染みが一つ残っているページ。乾いて、少し茶色く変色している。
その染みの隣に、ペンを置いた。新しいインク。黒。
一行、書いた。
「定時退勤。二人分の足音。紅茶、ちょうどいい」
帳面を閉じた。
居間の方から、カップを洗う音が聞こえる。ヴェインだ。二人分のカップを洗っている。流しの水音が、新しい家の壁に反射して、少しだけ丸い音になっている。官舎の石壁とは違う響き。
窓の外は暗くなっていた。早春の夜。鐘の余韻はとっくに消えている。明日もまた鳴る。六つ。
明日も帰る。定時に。この家に。靴べらが三つ並んだ玄関に。ちょうどいい紅茶が待つ台所に。
鞄の中の帳面が、少しだけ重い。涙の染みと、三行の手紙と、制度の記録と、今日の一行。全部入っている。
前の世界で最後に思ったこと。「誰かの隣で、時間を共有したかった」。
叶った。
鐘が六つ鳴ったら帰る。帰る場所に、もう一人分の足音がある。それだけのことが、二つの人生をかけて手に入れたものの全部だ。
流しの水音が止まった。足音が廊下を来て、書斎の前で止まった。
「エッタ」
低い声。扉越し。
「紅茶、もう一杯」
立ち上がった。扉を開けた。
第4章も執筆中でございます!!
お待ちいただけますと嬉しいです!!!




