第29話 靴べらが三つ
湯を沸かす音が、今朝で最後になる。
官舎の台所。見慣れた石壁。見慣れた竈。カップが二つ、テーブルの上に向かい合わせで置いてある。パンとチーズ。いつもの朝食。
ヴェインが紅茶を淹れた。カップを私の前に置いた。
一口、飲んだ。
──ちょうどいい。
この「ちょうどいい」に辿り着くまで、何日かかっただろう。最初の朝は色のついた白湯みたいだった。次の日は少しだけ濃くなって、その次はまだ薄くて。毎朝少しずつ調整して、少しずつ近づいて──ある朝、「ちょうどいい」になった。
今朝の紅茶は、その「ちょうどいい」だ。
「……最後ですね、ここでの朝は」
「ああ」
短い返事。ヴェインはカップを持ち上げて、一口飲んだ。自分の淹れた紅茶に、もう眉を寄せなくなっている。
官舎の居間を見回した。テーブル。椅子。壁の棚。書斎への扉。同居が始まった秋の夕暮れに、この扉を開けて中に入った。靴べらが玄関に二つ並んでいるのを見つけた。書斎の机にペン立てが置いてあるのを見つけた。
帳簿を並べて座った夜。肘と肘の間が掌一つ分だった。紅茶が薄かった朝。灰色インクのメモ。外套を肩にかけた夕暮れ。「エッタ」と呼ばれた書斎の扉の前。
全部、ここで起きた。
(……寂しいのかな、これは)
寂しい、とは少し違う。ここを離れるのが惜しいのではなく──ここにあった時間が、鞄の中に全部入っている気がして、その重さを確かめたくなっただけだ。
「行きましょう」
「ああ」
カップを洗った。二つ。最後に棚に戻した。
玄関で靴を履いた。胡桃材の靴べらが二つ、棚に並んでいる。
──いや。もう並んでいない。ヴェインが先に二つとも鞄に入れていた。
(……靴べらは一番最初に荷造りするんだ、この人は)
官舎の扉を閉めた。鍵を回した。
振り返らなかった。振り返ると一秒遅くなる。
◇
荷物は、本当に少なかった。
台車一台。帳面と衣類と書類の箱が私の分。書類と衣類と鑑定道具の箱がヴェインの分。あとは胡桃材の靴べら二つと、ペン立てが一つ。
大通りから細い路地に入って、白い壁の家の前に着いた。鍵を差し込んだ。回した。扉を開けた。
一週間前に焼き栗を食べた、あの空っぽの部屋。空っぽではなくなっていた──大家が約束通り、基本の家具を入れてくれている。テーブル。椅子が二脚。寝台。棚。書斎の小部屋には机が一つ。
ヴェインが真っ先に向かったのは、玄関だった。
靴べらの棚。壁についた小さな棚。ここに住むと決めた日、最初に確認した場所。
鞄から胡桃材の靴べらを取り出して、棚に並べた。二つ。丸い葉の焼印。アーレンス家の家紋。赤みを帯びた木目が、新しい玄関の光を受けている。
私はペン立てを持って書斎に入った。机の上に置いた。南向きの窓から光が左側に差し込む。利き手が右だから影が落ちない。ヴェインが確認した通りの位置。
ペン立ての胡桃材が、机の木目と少しだけ色が違う。官舎の書斎では灯りの下で赤く見えた。ここでは窓の光で、もう少し明るい茶色に見える。
(……同じペン立てなのに、場所が変わると色が変わる)
帳面を机に置いた。開いた。秋の終わりに涙の染みがついたページ。オスカー殿下の三行の手紙が挟まったページ。制度可決の記録。新居契約の署名。全部、この帳面の中にある。
帳面を閉じて、ペン立てに羽根ペンを差した。
ここが──新しい書斎だ。
◇
昼過ぎ。玄関の扉を叩く音がした。
開けると、エリーゼ・フォン・クライスト嬢が立っていた。冬の外套。薄い書類鞄。いつもの微笑み。
「おめでとう、マリエッタ」
手紙を差し出された。淡い水色の封筒。クライスト家の紋章の封蝋。
「ありがとうございます、エリーゼ嬢。──上がりますか?」
「いいの? 散らかっていたらごめんなさいね」
「散らかるほどの荷物がありません」
エリーゼが居間に入って、きょろきょろと見回した。テーブルと椅子と、まだ何も飾っていない白い壁。
「……本当にすっきりしているわね」
「荷物は帳面と靴べらとペン立てだけですから」
「ヴェインさんらしいわ」
手紙を開けた。丁寧な筆跡。短い祝辞。そして──封筒の中に、もう一枚。薄い紙片。
焼き栗の店のお取り寄せ券。
紙片に印刷された店名。インクが少し擦れている。春の公聴会の日に正門の前で分かち合った、あの屋台と同じ店名。
「これは──」
「ヴェインさんが、以前この店の焼き栗が好きだとおっしゃっていたから。父の知り合いに卸元がいるの」
(……ヴェインが、焼き栗が好きだと「おっしゃっていた」?)
あの人が自分から食べ物の好みを口にするところを、私は一度も聞いたことがない。焼き栗を買うのはいつも「帰りに通りかかった」「屋台があった」で、「好き」とは言わない。
エリーゼに、言ったのだろうか。いつ。どこで。
「エリーゼ嬢。ヴェインがそう言ったのは、いつですか」
「ええと──秋の公聴会の前日だったかしら。中庭ですれ違ったときに、ほんの一言だけ。『あの屋台の栗はいい』って」
あの屋台の栗はいい。
あの人にしては饒舌な一言だ。公聴会の前日。八通の証拠を揃えて、証言原稿を書いて、「あなたと生きたい」と言った夜の前日。あの日に、中庭でエリーゼとすれ違って、焼き栗の話をしたのか。
(……あの人の中では、公聴会と焼き栗が同じ日に並んでいるんだな)
少しだけ、口元が緩んだ。
「ありがとうございます。大事に使います」
「お互い様よ」
エリーゼはいつもそう言う。秋の雨の日も、冬の中庭でも。お互い様。この人との関係は、情報の交換から始まって──いつの間にか、手紙と焼き栗の券を持って引っ越し祝いに来てくれる距離になっていた。
「幸せにね、マリエッタ」
「……はい」
声が少し詰まった。幸せにね、と言われたのは──この人生で初めてだった。
◇
午後。今度はフリッツ局長が訪ねてきた。
書記局長が部下の新居を訪問するのは珍しいことだろう。でもこの人は、春の公聴会から私の仕事を見てきた人だ。ブルーメ元局長に名前を奪われた二百四十七件を知っている人だ。
「邪魔するぞ」
「どうぞ。狭いですが」
「官舎よりは広い」
フリッツ局長が鞄から書類を取り出した。綴じてある。表紙に「二重記帳制度 初年度運用計画書」。
「施行は明日だ。計画書の最終確認をしてほしい」
受け取った。開いた。
私が起案した書類だ。帳簿の書式変更。各部署への説明手順。検査基準。差額発生時の報告フロー。監査局との連携体制。全部、一条一条、書記局の机で書いた。
目を通した。修正箇所はない。局長の承認印が全ページに押してある。
「……問題ありません」
「そうか。明日から、これが動く」
局長の声が低くなった。あの、眉が五ミリ上がるときの声。
「ホルン──いや。アーレンス書記官長補佐。五年間の二百四十七件は、全部ブルーメに名前を奪われた。一つも、あなたの名前は残らなかった」
「はい」
「この制度には、あなたの名前がある。起案者欄に、書記官長補佐マリエッタ・ホルン。条文に、署名に、議会の記録に」
──二百四十七件の業務改善案。年間千二百時間の削減。全部、ブルーメ元局長の名前で報告された。提案は通った。でも「誰が書いたか」は消えた。
この制度は、違う。
名前がある。私の名前が。紙の上に、消えない形で。
「明日から、よろしく頼む」
「……はい。承知しました」
声が、また半音上がった。
局長が帰った後、書斎に戻って帳面を開いた。日付。「フリッツ局長来訪。運用計画書の最終確認。明日施行。二百四十七件の提案が、一つの制度になった」。
書き終えて、ペンを胡桃材のペン立てに差した。新しい書斎。新しい窓からの光。同じペン立て。同じ帳面。
◇
夕方。荷物の整理がひと段落して、居間のテーブルで紅茶を飲んでいた。
ヴェインが淹れた紅茶。ちょうどいい濃さ。新しい台所で淹れても、味は変わらなかった。
ふと、玄関の方を見た。
靴べらの棚。朝、ヴェインが二つ並べた棚。
──三つ、ある。
立ち上がった。玄関まで歩いた。
棚の上。胡桃材の靴べらが、三つ並んでいる。左の二つは官舎から持ってきたもの。木目に使い込んだ艶がある。
右端の一つは──新しい。
新品。
同じ胡桃材。同じ赤み。同じ丸い葉の焼印。アーレンス家の家紋。でも木目に艶はなく、角がまだ少し尖っている。使い始めの、まっさらな靴べら。
朝、ここに並べたのは二つだった。荷物の中にも二つしかなかった。
三つ目は──いつ、どこから。
「ヴェイン」
居間に戻った。ヴェインがカップを手に、椅子に座っている。灰色の瞳が私を見た。
「靴べらが三つあります」
「ああ」
「朝は二つだったのに」
「荷物の底に入れておいた」
荷物の底。つまり、引っ越しの荷造りの時点で──三つ目を用意していた。新居の契約をしたとき以降のどこかで、実家の職人に頼んで作らせたのだろう。家紋入りの靴べらを。
あの人は、靴べらもペン立ても焼き栗も、全部事前に用意する人だ。同居が始まる前から靴べらを二つ作らせていた人だ。渡り廊下で三年半すれ違っていた時期に、「望んでいた」と言った人だ。
でも──三つ目は、意味が違う。
「……いつか、のために」
ヴェインの声が低かった。いつもの半音ではない。もっと──奥。喉の底から、慎重に選んだ言葉を一つずつ出すときの声。
いつか。
三つ目の靴べらの「いつか」の意味を、聞かなくてもわかった。二人の靴べらの隣に、もう一つ。小さな。いつか。
「……いつか」
繰り返した。声が掠れた。自分の声なのに、思ったより震えていた。
ヴェインが私を見ている。灰色の瞳。無表情。でも──耳が赤い。白いシャツの襟元から、首筋まで。冬の夕暮れの光の中で、はっきりと。
(……この人の耳は、いつも口より先に答えを出す)
泣きそうだった。泣きそうなのとは違う。もっと手前の──名前のつけられない感覚。秋の夜に書斎で帳面に涙を落としたときと似ているけれど、あのときより温かい。
「急がない」
ヴェインが言った。いつもの言葉。紅茶の濃さも、呼び名も、新居も──全部「急がない」で始まって、全部いつの間にか「ちょうどいい」に辿り着いた。
「急がないけど──ちゃんと、用意はしてあるんですね」
「当然だ」
靴べらのことを聞いたときと同じ返事。「当然だ」。声に迷いがない。紅茶の濃さには何日も迷うくせに、靴べらと未来のことには一切迷わない。
少しだけ笑った。笑ったら、掠れていた声が戻った。
「明日は制度施行初日です」
「ああ」
「定時に帰ります」
「一緒に」
一緒に。いつもの約束。でも今日から、帰る場所が変わった。
窓の外で、冬の夕暮れが早い。鐘が六つ──鳴るのは明日だ。今日はもう鳴り終わっている。
玄関に、靴べらが三つ。鞄の中に、帳面。書斎に、ペン立て。台所に、ちょうどいい濃さの紅茶。
明日、この家から出勤して、この家に帰ってくる。定時に。二人分の足音で。
三つ目の靴べらは、まだ誰の足も通していない。まっさらで、角が少し尖っていて、新しい木の匂いがする。
いつか、その角が丸くなる日が来る。急がない。でも──靴べらは、もう並んでいる。




