第28話 三行の手紙
便箋が一枚、封筒の中に入っていた。
それだけだった。宮廷省の公印が押された転送用封筒を開けて、中から出てきたのは羊皮紙ではなく、薄い白紙の便箋一枚。折り目が一つ。丁寧な筆跡。
三行。
『制度には勝てなかった。監査を止めることは諦める。これ以上、王家の名を汚す気はない。──オスカー・ガリスティア』
読み終えるのに、五秒もかからなかった。
書記局の執務机の上で、朝の光が便箋の白さを際立たせている。冬の光は弱いのに、紙が妙に眩しい。
もう一度、読んだ。
「制度には勝てなかった」。
この一文が、喉の奥に引っかかった。
制度に勝てなかった。制度が──勝った。
(……制度は、使う人次第だ)
前の世界のことを、ふと思い出した。日本の役所。三十二歳で過労死するまで働いた場所。あの世界にも制度はあった。労働基準法という制度があった。定時退勤という制度があった。でも──守られなかった。制度があっても、運用する人間がいなければ紙切れだ。紙切れのまま、私は死んだ。
この世界では。
帳簿の書式を変えた。配分額と支出額と残額の三列を並べる。差額が出たら報告する。それだけの仕組みを条文にした。前の世界では当たり前だったことを、この世界の紙の上に書いた。
その紙が、王子を止めた。
便箋をテーブルに置いた。手は震えていない。怒りも同情もない。ただ──「制度には勝てなかった」の一文を、帳面に書き写すべきかどうか、迷った。
書いた。日付。「オスカー殿下より書面。三行。事実上の降伏声明。帳面に挟む」。
便箋を帳面に挟んだ。秋の終わりに泣いた夜の涙の染みがあるページの、三枚先。涙と降伏声明が、同じ帳面に入っている。
(……帳面は、全部を記録する。涙も、手紙も)
帳面を閉じた。
今日は──制度案の最終審議がある。
◇
議場の傍聴席は、冬の終わりに近づいても石壁が冷たい。
膝の上に帳面を開いた。羽根ペン。小型のインク壺。ベルントの演説を記録した日と同じ持ち物、同じ席。でも今日の議場には、あの弁の立つ末席議員の姿はない。除名されて、宮廷出入りを禁じられた。席が一つ空いている。
審議が始まった。
議長──白髪の老齢の議員が、制度案の最終読み上げを行った。「二重記帳制度。全費目について配分額・支出額・残額の三列を月次で記帳し、差額が生じた場合は理由書の添付と監査局への報告を義務づける」。
私が書いた条文だ。七枚の羊皮紙に書いた。フリッツ局長が署名して、宮廷省に上申して、議会に回された。
反対意見の求めに、誰も立たなかった。
ベルントが除名された後、反対派は沈黙していた。偽神託も無効になった。オスカー殿下の降伏声明が今朝届いた。──反対する理由を持つ人間が、もういない。
「採決を行う。二重記帳制度案に賛成の諸兄は挙手を」
手が上がった。
過半数。三分の二以上。数えなくてもわかった。議場のほとんどの手が上がっている。
可決。
議長が宣言した。「二重記帳制度案、賛成多数により可決。施行日は来月一日とする」
帳面にペンを走らせた。日付。「二重記帳制度案、議会にて可決。賛成多数。施行日──来月一日」。
書いている途中で、指先が止まった。
二百四十七件。
五年間で提出した業務改善案の数。全部、局長に名前を奪われた。提案は通ったけれど、起案者欄に「マリエッタ・ホルン」の名前はどこにもなかった。
今回は──上申書の起案者欄に「書記官長補佐マリエッタ・ホルン」と書いてある。議会の記録にも、制度の起案者として名前が残る。
前の世界で、制度に殺された。この世界で、制度を作った。
(……同じ「制度」という言葉なのに、重さが全然違う)
前の世界の制度は、私を守らなかった。この世界の制度は、帳簿が嘘をつけない仕組みになる。二十七金貨の差額も、百二十金貨の横領も、帳簿を開いた日に見える。誰かがもう一度不正を企てても、三列の数字が嘘を許さない。
傍聴席から議場を見下ろした。議員たちが退席していく。冬の議場に、石壁の冷気と紙の匂いが残っている。
帳面を閉じた。
指先が温かかった。冬の傍聴席は寒いはずなのに、ペンを握った手が──熱い。
◇
書記局に戻ると、フリッツ局長が執務室の前で待っていた。
「可決したそうだな」
「はい。賛成多数で」
「知っていた。──いや、確信していた、が正しいか」
局長の眉が五ミリ上がっている。この人の大喜びの顔を見るのは、草案を読み終えた朝以来だ。
「制度施行は来月一日から。ホルン──」
言いかけて、止まった。
「……アーレンス書記官長補佐」
まだ揺れている。この人が私の呼び名に迷うのは、もう何度目だろう。
「どちらでも構いませんよ、局長」
「いや。公文書に載る名前で呼ぶ。アーレンス書記官長補佐──初年度の運用設計は任せる。施行までに検査手順の整備、各部署への説明、帳簿書式の配布。全部、あなたが起案した制度だ。あなたが動かすのが筋だろう」
「承知しました」
承知しました、と答えたとき、声がいつもより少しだけ──高かった。嬉しかったのだと思う。承知しました、は事務的な返事のはずなのに、声が勝手に半音上がっていた。
(……ヴェインは声が半音低くなるのに、私は半音上がるのか)
半音の方向が逆なのが、なんだかおかしかった。
◇
退勤の鐘が六つ鳴った。
正門を出ると、ヴェインが石柱の横に立っていた。濃紺の監査官服。襟を少し立てている。風邪は治ったらしい。顔色がいつもの無表情に戻っている。
「制度、通った」
「聞いた。監査局でも通達が出ていた」
短い報告と短い確認。いつもの交換。
ヴェインが歩き出した。いつもの帰路──ではない。大通りを抜けて、細い路地の方へ。
「……鍵?」
「大家から受け取った。昼に届いた」
ポケットから鍵を二本取り出した。鉄の、飾り気のない鍵。一本を私に差し出した。
受け取った。冷たい金属。冬の空気を吸った鍵が、手のひらの中でじわりと温まる。
路地の奥。白い壁。木製の窓枠。緩い屋根。数日前に契約書に署名した、あの家。
ヴェインが鍵を差し込んだ。回した。扉が開いた。
中に入った。
空っぽだった。
居間になるはずの部屋。壁は白くて、床は石畳で、窓が南に向いている。家具は何もない。テーブルも椅子もない。靴べらの棚だけが、玄関の壁についている。空の棚。
冬の夕日が窓から差し込んで、白い壁を橙色に染めている。何もない部屋なのに、光だけがある。
ヴェインが右手のポケットに手を入れた。
取り出したのは──紙包み。
(……この人は)
見覚えのある包み方。あの屋台の。あの焼き栗の。
「帰り道に、屋台があった」
短い説明。春も、秋も、冬も、この人が焼き栗を買う理由はいつも一言だ。「帰りに通りかかった」「公聴会の前に買った」「帰り道に屋台があった」。全部、嘘ではないけれど全部でもない。
「ここで食べましょう」
床に座った。石畳の上に直接。冷たい。でも窓から差す夕日が、座った場所をぎりぎり温めている。
ヴェインが隣に座った。肩が並ぶ距離。空っぽの部屋で、二人だけ。壁と床と窓と光と、焼き栗の紙包み。
包みを開けた。甘い匂い。湯気はもう消えかけているけれど、まだほんのり温かい。
一つ取って、皮を剥いた。口に入れた。ほくほくして、苦みが少しだけ残る。春の公聴会の日の味。秋の公聴会の帰り道の味。正門で三度目に分かち合った味。全部同じ店の、同じ味。
大きい栗が、またこちらに来た。
「……計量していないんでしょう」
「していない」
「知ってます」
ヴェインの口元が、ほんのわずかに動いた。笑ったのだと思う。この人の笑いは、いつも口元だけで起きる。
「荷物は少ない」
ヴェインが空っぽの部屋を見回して、言った。
「靴べらとペン立てがあればいい」
(……靴べらとペン立て。この人の荷物の優先順位は、本当にそこなんだ)
「帳面も」
私が付け足した。
「帳面も」
ヴェインが繰り返した。
二人で笑った。声に出して笑ったのは──いつ以来だろう。靴べらの棚が決め手で新居を選んだ日に少しだけ笑って、「エッタ」と呼ばれた日は笑えなくて、今日は──笑えた。空っぽの部屋に、二人分の笑い声が響いて、白い壁に跳ね返った。
焼き栗を分け終えた。紙包みの底に、小さい栗が一つだけ残っている。
「最後の一つ」
「取れ」
「いいんですか」
「計量していない」
嘘つき。でも今日は言わなかった。最後の一つを口に入れた。甘い。
「引っ越しは」
「来週の定時退勤後」
声に出したら、胸の奥で何かが──動いた。来週の退勤。鐘が六つ鳴ったら、帰る場所がここになる。官舎ではなく、この白い壁の家に。靴べらの棚に胡桃材の靴べらを並べて、書斎にペン立てを置いて、帳面を開いて。
「来週」
ヴェインが繰り返した。低い声。半音ではなく──もう少し深い場所から。
「ああ。来週」
窓の外で、冬の夕日が沈みかけている。橙色が薄くなって、空が藍色に変わり始めている。空っぽの部屋に焼き栗の匂いだけが残っている。
来週、ここに帰ってくる。二人分の荷物と、靴べらと、ペン立てと、帳面を持って。
鞄の中で、オスカー殿下の三行の手紙と、今日の議会可決の記録が、同じ帳面に挟まれている。制度に勝てなかったと書いた王子の手紙と、制度を作った書記官の記録。
帳面の重さが、少しだけ増えた。
でも──鞄は軽い。荷物は少ない。靴べらとペン立てと帳面があればいい。あとは焼き栗と、隣の足音があれば。
来週の退勤の鐘が、待ち遠しかった。




