第27話 二つの署名
ハルトマン鑑定官の指先は、いつも乾いている。
秋の公聴会の前、帳簿の魔力痕跡を鑑定したときもそうだった。分厚い眼鏡の奥の目が細まって、乾いた指先が報告書の端を押さえて、声だけが淡々と事実を述べる。
今日もそうだ。冬の監査局資料室。石壁の冷気が足元から這い上がってくる。
「結果が出た」
ハルトマンが報告書を差し出した。
受け取った。紙が冷たい。このところ紙はいつも冷たい。冬だから当然なのだけれど、秋の帳簿照合のときとは、紙の重さが違う。
読んだ。
『鑑定対象:代理神殿長ミュラーの署名(神託認定書類)に残存する下層魔力痕跡。
鑑定結果:下層痕跡は、第二王子オスカー・ガリスティア殿下の登録魔力と──高い類似性を示す。』
高い類似性。
「一致」ではない。秋の公聴会でヴァイスの帳簿改竄と告発書の偽造を証明したときの「一致」とは、一段階下の判定だ。でも──春の公聴会でブルーメ元局長の処分根拠になったのと、同じ水準。
「一致ではなく、類似性」
声に出して確認した。
「ああ。だが類似性の程度は高い。署名に直接触れたのではなく、書類を手渡した際に痕跡が移った可能性がある」
手渡し。つまり──ミュラーが神託の書類を作成する前に、オスカー殿下がその書類に触れた。触れただけで魔力痕跡は残る。この世界では、手は嘘をつけない。
「ハルトマン鑑定官。この報告書の写しを」
「二部用意してある。書記局と宮廷省に」
この人はいつも、こちらが求める前に用意している。秋の鑑定のときもそうだった。「アーレンスが言っていた通りだ」と言って報告書を渡してきた人。
「ありがとうございます」
「礼はいい。事実を述べただけだ」
鑑定官の台詞が、書記官の台詞と同じだった。「書記官の仕事です」。私もいつもそう言う。事実を扱う人間は、どこの部署でも似たようなことを言うらしい。
◇
書記局に戻って、机の上に報告書を広げた。
帳面を開いた。この数週間で書き溜めた記録を、頭から辿る。
ヴァイスの百二十金貨の横領。告発書の偽造。婚姻令の承認欠落。神託の認定不備。──ここまでが秋の公聴会で決着した。
弁済嘆願書の形式不備。レーゲン別邸の資産隠し。差押え執行。ベルントへの二十四金貨の政治献金。──ここまでがヴァイス家の残務。
ベルントの反対意見書。判例の誤引用。議事録の自己矛盾。議会除名。──ここまでがオスカー殿下の代理人による議会工作。
ミュラーの偽神託。魔力炉照合日と神託日付の時系列逆転。炉の記録は物理的に改変不可。──ここまでが神殿を通じた介入。
そして今日。ミュラーの署名の下層に、オスカー殿下の痕跡。
一本の線だ。
ヴァイスの横領を隠すために告発書を偽造し、ヴェインを排除しようとした。横領が発覚して免職されると、弁済を逃れるために資産を隠した。それが塞がれると、ベルントを議会に送り込んで制度案を潰そうとした。それも失敗すると、ミュラーを使って偽神託で監査局の権限を削ろうとした。
全部、手続きの穴を突いて仕掛けてきた。全部、手続きで塞いだ。
そして全部の線の先に──政務参画を三年間禁じられたはずの第二王子が、いる。
(……重い)
帳簿の差額を追っていたら、ここまで来た。五年と半年前、宮廷書記局の非正規書記官として帳面を開いたときには、王子の名前がこういう形で帳面に載るとは思っていなかった。
でも。
条文と記録と鑑定結果は、相手が誰であっても同じ重さだ。二十七金貨の差額を見つけた日も、百二十金貨の横領を確定した日も、偽神託の日付を見つけた日も。紙の上の事実は、書記官の前では平等だ。
照会書を起案した。
宮廷省宛。事実の羅列。証拠の列挙。条文の引用。ベルントの議会工作からミュラーの偽神託、そしてオスカー殿下の痕跡まで。感情は一文字も載せない。
フリッツ局長の執務室に持参した。
「局長。宮廷省への正式照会です。偽神託の無効宣言と、関係者の処分を求めます」
局長が照会書を読んだ。一枚、二枚、三枚。添付のハルトマンの鑑定報告書。ミュラーの認定書類の写し。魔力炉記録の日付対照表。
読み終えるまで、十二分。
局長が顔を上げた。眉が──五ミリくらい上がっていた。
「……ここまで繋がるのか」
「はい。ヴァイスの横領から、オスカー殿下の偽神託まで。一本の線です」
「これを出すと、王族の処分に踏み込むことになる」
「踏み込むのは宮廷省です。私は事実と証拠を照会するだけです」
フリッツ局長がペンを取った。局長印。日付。
「午後便で出す」
「承知しました」
◇
回答は──退勤の鐘が鳴る一時間前に届いた。
宮廷省の公印。制度管理課の署名。
『貴照会について精査の結果、以下の通り回答する。
一、代理神殿長ミュラーが奏上した神託は、認定書類における魔力炉照合日と神託日付の時系列不整合により、認定要件を満たしていないものと認定する。当該神託は無効とし、公的効力を有しない旨を宣言する。
二、代理神殿長ミュラーを罷免する。後任は正規の手続きにより選任する。
三、第二王子オスカー・ガリスティア殿下の登録魔力痕跡が認定書類から検出されたことについて、政務参画禁止期間中の介入行為にあたる可能性を認め、処分の強化を検討する。』
無効。罷免。処分の強化を検討。
秋のカタリナ嬢の神託は、認定要件の空欄を指摘して無効にした。今回のミュラーの神託は、日付の逆転という物理的に反論不可能な証拠で無効にした。
神殿を使った介入の道は、塞がった。
(……終わった。ベルントの議会工作も、ミュラーの偽神託も。全部、紙で終わった)
封書を帳面に挟んだ。指先の冷たさが、少しだけ和らいでいる。
退勤の鐘が、六つ鳴った。
◇
宮廷外の住居は、大通りから細い路地に入った先にある。白い壁、木製の窓枠、緩い屋根の傾斜。数日前にヴェインと下見に来た、あの家。
大家は初老の女性で、書記局の照会を通じて信用照会済みだった。テーブルの上に契約書が広げてある。
「家賃は年四金貨、前払い。修繕は大家負担。入居は鍵渡しの翌日から」
大家が契約書の条項を読み上げた。聞き慣れた事務手続きの言葉。書記官の耳には心地よい。
ヴェインが隣に立っている。風邪はだいぶ良くなったらしい。咳は止まっている。数日前に私の外套を肩にかけたとき、絶句したあの顔が──今日は、いつもの無表情に戻っている。
署名欄。二人分。
ヴェインがペンを取った。右手。長い指。鑑定で文書に手をかざすときの、あの指が、契約書の上を走る。
「ヴェイン・アーレンス」
署名。角ばった、無駄のない字。灰色インクではなく、大家が用意した黒インク。でも筆跡は同じだ。書斎のメモと、同じ手。
ペンを置いて、ヴェインが呟いた。
「……今度は自分の名前で」
声が低かった。いつもの半音ではない。もっと──喉の奥。
自分の名前で。
あの秋の夕暮れを思い出した。白い結婚の婚姻令が官舎に届いた日。対象者欄にはもう名前が印刷されていて、署名欄だけが空白だった。あれは──命じられた署名だった。オスカー殿下が、ヴェインの人事を掌握するために仕掛けた婚姻令。署名したのは私たちだけれど、選んだのは私たちではなかった。
今日の契約書は、違う。
二人で下見をして、靴べらの棚を確認して、机の位置と光の方向を計算して──選んだ場所だ。
「私も」
ペンを受け取った。ヴェインの指に触れた。冷たい指。いつも冷たい。でも数日前より──少しだけ、温かい。風邪が治りかけている指の温度。
署名欄に、書いた。
マリエッタ・アーレンス。
──アーレンス。
婚姻届に署名したときは「ホルン」で、それから宮廷省の窓口で新姓に書き換えた。あのときは手続きとして書いた。今日は──ペン先が紙に触れた瞬間、違和感がなかった。
(……馴染んでいる。新しい名前が、手に)
大家が契約書を確認して、認可印を押した。日付。
「おめでとうございます。鍵は来週お届けします」
「ありがとうございます」
大家が部屋を出た。テーブルの上に、署名の入った契約書の控えが残っている。二人の名前が並んでいる。ヴェイン・アーレンスと、マリエッタ・アーレンス。同じ姓。
ヴェインが契約書の控えを見ていた。灰色の瞳が、二つの署名を行き来している。
「……同じ姓が並ぶと」
言いかけて、止めた。この人はいつも、大事なことを途中で飲み込む。
「並ぶと?」
「──いい」
飲み込んだ。でも、耳がほんの少し赤い。白いシャツの襟から覗く耳の縁。冬の夕暮れの光で、赤みが淡い。
(……この人の耳は、嘘が下手だ。口より先に赤くなる)
何を言おうとしたのか、聞かなかった。聞かなくても、耳が答えている。
◇
帰り道。石畳の大通りを歩いた。冬の夕暮れ。二人分の足音。吐く息が白い。
鞄の中に、宮廷省の回答書が入っている。偽神託の無効宣言。ミュラー罷免。オスカー殿下への処分強化の検討。
──そして、回答書の末尾。
あの一行を、まだ読み返していなかった。帰り道の足音を聞きながら、頭の中で反芻する。
『なお、オスカー・ガリスティア殿下より、書記官長補佐マリエッタ・アーレンス宛の書面が当省に届いている。転送の可否を確認されたい。』
オスカー殿下からの書面。
政務参画を禁じられた王子が、書記官長補佐宛に書面を送ってきた。宮廷省を経由して。
(……何が書いてあるんだろう)
怒りか。弁明か。それとも──。
「エッタ」
ヴェインの声。低い。いつもの呼び名。数日前に無意識に口から出て、私が「いいです、それで」と答えた三文字。もう自然に出ている。
「宮廷省の回答、末尾に何か書いてあったか」
「……読みましたか」
「回付の写しが監査局にも来ている」
そうだ。宮廷省の回答は関係各署に回付される。監査局にも。
「オスカー殿下から書面が届いているそうです。私宛に」
「読むか?」
その声に、護るような低さがあった。紅茶の濃さを調整するときの声とも、判例の誤引用に「面白い言い方をする」と言ったときの声とも違う。──秋の雨の日に傘を差し出したときの声に、似ている。
「読みます。明日」
「……ああ」
明日でいい。今日はまだ、契約書の署名の余韻の中にいたい。二つの名前が並んだ紙の温もりを、もう少しだけ鞄の中で温めておきたい。
石畳を歩いた。肩が並ぶ距離。手は繋いでいない。でも──歩幅が合っている。いつからか、この人と歩くとき、歩幅を合わせなくても同じ速さで歩けるようになっていた。
官舎の玄関で靴を脱いだ。靴べらが二つ。胡桃材の赤み。丸い葉の焼印。アーレンス家の家紋。
もうすぐ、この靴べらは新しい玄関に移る。靴べらの棚がある、あの白い壁の家に。
帳面を開いた。今日の記録。ハルトマンの鑑定結果。オスカー殿下の痕跡。照会書の提出。偽神託無効宣言。ミュラー罷免。新居の契約。二つの署名。
最後に──書こうか迷って、書いた。
「マリエッタ・アーレンス。契約書に書いたら、手が覚えていた。もう、違和感がない」
帳面を閉じた。
明日、オスカー殿下の書面を読む。何が書いてあっても──紙で来るなら、紙で返せる。
台所の方から、湯を沸かす音がした。ヴェインだ。紅茶を淹れている。
今日の紅茶は──もう、薄くないだろう。




