第21話 紅茶が薄い朝
第3章スタートです!!!
退勤の鐘が六つ鳴る前に目が覚めたのは、新婚の朝というものが思ったより静かだったからだ。
隣の部屋から物音はない。ただ台所の方から、かすかに湯が沸く音だけが聞こえていた。
……湯。
誰かが台所にいる。この官舎には二人しか住んでいない。つまり、先に起きたのはあちらだ。
昨日の今ごろ、私は東棟の評議室で証言台に立っていた。八通の証拠を並べて、声を震わせずに事実を読み上げた。裁定が出て、焼き栗を分かち合って、宮廷省の窓口で婚姻届に署名して──「一緒に」と言った。
あれから一晩。
世界は何も変わっていない。冬の初めの朝は寒くて、官舎の窓は結露していて、玄関の靴べらは二つ並んだままだ。
変わったのは、台所から湯の沸く音が聞こえること。
着替えて、廊下を歩いた。書斎の扉は開いていて、ヴェインの部屋の扉は閉まっている。台所の灯りがついている。
入った。
ヴェインが、湯気の立つ鍋の前に立っていた。白いシャツに袖をまくった腕。五週間の同居で見慣れた姿。でも今朝は──監査官服の上着が、椅子の背にかかっている。濃紺の上着。昨日、五週間ぶりに袖を通していた、あの上着。
(……今日から出勤するのか。復職したんだから当然だけど)
テーブルに、カップが二つ。
二人分。
向かい合わせに置いてある。
「……おはよう」
低い声。振り向かないまま、鍋に向かって言っている。この人の挨拶は、いつも背中越しだ。
「おはようございます」
椅子を引いた。座った。テーブルの上にはパンとチーズ。昨日の公聴会の帰りに、正門近くの露店で買ったものの残りだろう。焼き栗の紙包みは──もう、ない。昨日、二人で全部食べた。
ヴェインが鍋から湯を注いで、カップを一つ、私の前に置いた。紅茶。茶葉の匂いがする。
一口、飲んだ。
──薄い。
湯の温度は悪くない。でも色が淡い。茶葉の量が足りていないのか、蒸らしが短いのか。
(……紅茶を淹れ慣れていない人の味だ)
ヴェインが向かいに座った。自分のカップを持ち上げて、一口。それから、わずかに眉を寄せた。
「……薄いな」
自覚はあるらしい。
「茶葉をもう少し足して、蓋をして蒸らすといいと思います」
「そうか」
短い返事。メモでも取りそうな顔をしている。紅茶の淹れ方を、帳簿の検査と同じ精度で分析しようとしているのかもしれない。この人らしい。
「……明日は濃く淹れる」
低い声で、カップに向かって呟いた。
私は「お願いします」とだけ答えて、薄い紅茶を飲み切った。パンを齧った。チーズは昨日の残りで少し固くなっていたけれど、文句を言う気にはならなかった。
法的夫婦の、最初の朝食。
向かい合わせのテーブルは狭くて、膝の距離は拳二つ分。春の公聴会のあとの焼き栗を数えたら、ここまでの道のりは半年と五週間。退勤の挨拶から始まって、帳簿を並んで読んで、雨の中で手を繋いで、「あなたと生きたい」と言われて──その翌朝が、薄い紅茶。
(……なんだか、ちょうどいい気がする)
ちょうどいい、は違うか。ちょうど悪い、でもない。ただ、この人との朝が思ったより静かで、思ったよりぎこちなくて、思ったより──温かかった。鍋の湯気が、台所の空気をほんの少しだけ甘くしている。
ヴェインが椅子を引いて立ち上がった。監査官服の上着を取った。
「行ってくる」
「お気をつけて」
玄関で靴音がした。それから扉が閉まって、官舎が静かになった。
テーブルの上に、空のカップが二つ。
……私も行かなければ。今日は、書記官長補佐としての初日だ。
◇
書記局に着いたのは、鐘五つの直後だった。
「マリエッタ! いえ──ホルン書記官長補佐!」
ハンナの声が廊下の端から飛んできた。小走りで駆け寄ってくる姿は、いつもと変わらない。変わったのは呼び方だけだ。
「ハンナ、普段はマリエッタでいいわよ」
「でも昇進したのよ? すごいじゃない! 昨日の公聴会、私も記録係で出てたけど、あなたの証言──もう、鳥肌立った。声が全然震えてなくて」
「震えてなかったのは、原稿を丸暗記したからよ」
「それができること自体がすごいって言ってるの!」
ハンナの目がきらきらしている。ありがたいけれど、少し照れくさい。五年間、名前を奪われていた人間が急に褒められると、体が受け取り方を忘れている。
執務机に着いた。机の位置が変わっている。書記官長補佐の席は、フリッツ局長の執務室の隣。棚ひとつ分だけ広い。
(……落ち着かない)
鞄を置いて、帳面を開こうとしたところで、フリッツ局長が入ってきた。
「ホルン──いや、アーレンス書記官長補佐」
局長も呼び方に迷っている。まあ、昨日まで「ホルン書記官」だったのだから仕方がない。
「ホルンで構いません。業務上はまだその方が通りがいいので」
「そうか。では当面はホルンで。──二件、報告がある」
局長が封書を二通、机に置いた。
「一件目。ヴァイス子爵家からの嘆願書だ。『百二十金貨の弁済を月次の分割で行いたい』との申請。今朝の局間便で届いた」
封を切った。羊皮紙一枚。文面は丁寧だが──。
指で項目を辿る。
弁済の意思表示。ある。月次の分割金額。記載あり。
弁済計画書の添付。
──ない。
保証人の署名。
──ない。
「局長。この嘆願書には弁済計画書が添付されていません。月次の分割金額は書いてありますが、弁済原資の根拠──何をもって毎月支払うのかの説明がない。加えて、保証人の署名もありません」
フリッツ局長が嘆願書を覗き込んだ。
「宮廷官吏服務規程第九十一条。『公金弁済の分割申請には、弁済計画書の添付および保証人一名以上の連署を要する』。この嘆願書は受理要件を満たしていません」
条文を引くのに三秒もかからなかった。五年間で二百四十七件の書類を処理してきた頭は、番号と条文がセットで入っている。
「差し戻しだな」
「はい。形式不備により受理できない旨を回答し、要件を満たした上での再提出を求めます」
回答書を起案した。条文の引用、不備の指摘、再提出の手続き。感情は一文字も載せない。書記官の文書に必要なのは、事実と根拠だけだ。
──春の公聴会も、秋の公聴会も、同じだった。手続きの穴を見つけて、条文で塞ぐ。
差し戻しの回答書に署名して、局間便の棚に入れた。
(……前の局長に名前を奪われた二百四十七件も、副次長に閲覧を妨害された帳簿も、全部こうやって一枚ずつ片付けてきた。今日も同じ。肩書が変わっても、やることは変わらない)
それが、少しだけ心強かった。
「二件目」
フリッツ局長がもう一通の封書を開いた。こちらは宮廷省からの照会。
「財務局の後任人事と会計制度の刷新について、書記局の意見を求めたい、と。昨日の公聴会でヴァイス副次長が免職になったから、財務局は実質トップ不在だ。ホルン書記官長補佐、あなたに聞きたい」
「何をでしょうか」
「帳簿だ。あなたが照合した百二十金貨の横領──あれが三年間見つからなかったのは、帳簿の仕組み自体に問題があるからだろう。何か改善の案はあるか」
前の世界の記憶が、頭の奥でちらついた。
複式簿記。配分額と支出額の両方を記録する。それだけで、二十七金貨の差額は帳簿を開いた瞬間に見える。
でも、この世界には「複式簿記」という言葉がない。概念ごと存在しない。だから──。
「提案があります」
紙を一枚取って、羽根ペンで書いた。
「今の帳簿は、支出だけを記録しています。でも各部署から財務局に配分された予算──つまり収入の記録と突き合わせなければ、差額は見えません」
「配分額と支出額の両方を帳簿に載せる、ということか」
「はい。さらに、残額──配分額から支出額を引いた数字も毎月記録します。三つの数字を並べれば、どこかで不正があれば即座に差額として浮かび上がる」
フリッツ局長が紙を見つめた。
「……なるほど。二十七金貨も百二十金貨も、この書き方なら帳簿上で一目でわかる」
「二重記帳制度、と呼んでもいいかもしれません。これを条文化して、全費目に適用する。差額が生じた場合は監査局への報告を義務づける。そうすれば──」
「帳簿が嘘をつけなくなる」
局長の声が、少しだけ低くなった。
「草案を起案してくれ。局長名で宮廷省に上申する」
「承知しました」
◇
午後。草案の骨子を書き上げて、手を止めた。
ふと思い出して、朝の嘆願書をもう一度引っ張り出した。差し戻しの回答書は既に出した。でも、書記官の習慣として──紙そのものをもう一度確認しておきたかった。
裏面に目を落とした。
……何か、ある。
紙の余白。右下の隅。インクの乾き具合が表面と違う。誰かが別のインクで、走り書きをしている。薄い文字。嘆願書の清書をする前の、下書き段階で書かれたメモだろう。消し忘れか、あるいは裏面だから気づかなかったか。
目を凝らした。
──「レーゲン別邸」。
四文字と二文字。名前と、場所のような言葉。
(別邸?)
弁済計画書がないのに、別邸の名前がある。百二十金貨の弁済原資がどこにあるのかを書かずに、不動産の名前だけが裏に残っている。
偶然かもしれない。ただのメモかもしれない。
でも、ブルーメ元局長の五十金貨の弁済が先月完了したと聞いたとき、フリッツ局長は「あちらは資産で清算できた」と言っていた。ヴァイスは子爵家。資産がないとは考えにくい。それなのに弁済計画書を出さない。資産目録を出さない。代わりに──裏面に、別邸の名前が残っている。
(……資産を隠しているのかもしれない)
帳面を開いた。今日の日付。「嘆願書裏面に『レーゲン別邸』の走り書き。弁済計画書の未提出との関連を要確認」。署名。
書き終えて、帳面を閉じた。
窓の外は、もう暗くなりかけている。冬の日は短い。
退勤の鐘が、六つ鳴った。
◇
官舎に帰ると、ヴェインの靴があった。
監査局は書記局より始業が早いが、復職初日だからか──今日は定時で帰れたらしい。
書斎に入った。灯りをつけようとして──机の上に、小さなメモ用紙が置いてあることに気づいた。
灰色インクの筆跡。ヴェインの字だ。
『別邸の名前は登記簿で確認できる。監査局の閲覧権限で。──V』
……いつの間に。
嘆願書のことは話していない。裏面の走り書きのことも。でもこの人は、帰宅して書斎を覗いて、私の帳面が机の上に開いてあったのを見て──読んだのだ。「レーゲン別邸」の四文字を。
(帳面を開きっぱなしにしたのは不用心だったけれど──)
不用心で、よかった。
壁一枚の向こうから、頁をめくる音がかすかに聞こえる。
秋の終わりの夜、帳簿を並べて座った書庫を思い出した。肘と肘の間が掌ひとつ分だった、あの夜。あのときは同居一週間目で、形だけの夫婦で、停職中の監査官と正規書記官だった。
今は──法的に夫婦で、復職した監査官と書記官長補佐で、同じ帳面を読んでいる。
台所で紅茶を淹れた。二人分。
今度は私の番だ。茶葉を多めにして、蓋をして、しっかり蒸らした。カップを二つ持って居間に入ると、ヴェインが書斎から出てきたところだった。
「紅茶、淹れました」
「……ああ」
テーブルに座った。ヴェインがカップを受け取って、一口飲んだ。
灰色の瞳が、ほんの少しだけ見開かれた。
「……ちょうどいい」
朝の薄い紅茶と、夜の「ちょうどいい」。一日で埋まった差を、たぶん私たちはこれから何度も繰り返す。少しずつ近づいて、少しずつ覚えて、少しずつ──。
「明日からは交代で淹れましょう」
ヴェインの耳が、ほんの少しだけ赤くなった。監査官服の襟で隠れかけていたけれど、灯りの角度で見えた。
(……冬なのに、耳が赤い)
帳面には書かなかった。書くほどのことではない。ただ、胡桃材のペン立ての赤みと、この人の耳の赤みが、灯りの下で同じ色をしていることだけ──覚えておこうと思った。
書斎に戻って、今日の記録を書いた。嘆願書の差し戻し。二重記帳制度の提案。レーゲン別邸。灰色インクのメモ。
帳面の最後に、一行だけ迷って──書かなかった。
書かなかったのは、朝の紅茶のことだ。薄かったこと。でも、温かかったこと。
それは記録ではなく、ただの──朝の話だから。




