第22話 子爵家の裏庭
封書は、丁寧だった。
昨日差し戻した嘆願書から三日。ヴァイス子爵家から届いた再提出の弁済計画書は、前回とは別物のように体裁が整っている。弁済原資の根拠、月次の支払い額と期日、保証人の署名──全部、揃っていた。
朝一番の局間便で届いたその封書を開いて、私は執務机の上に書類を広げた。
(……三日で、ここまで体裁を整えてきた)
前回は弁済計画書すら添付されていなかった。保証人の署名もなかった。それを不備として差し戻したら、たった三日で──形式だけは完璧な書類が戻ってきた。
速い。速すぎる。
書記局で五年と半年、万の書類を捌いてきた勘が、首の後ろをちりちりと刺す。急いで体裁を整えたということは、中身を精査する時間がなかったということだ。あるいは──精査されると困る何かを、急いで隠す必要があったということだ。
保証人の署名欄を確認した。署名者は「クラウス・ヴァイス」。ヴァイスの親族だろう。弟か、従兄弟か。
次に、弁済原資の根拠書類。「現有資産目録」と題された一枚の紙。子爵家の所有する不動産、動産、預貯金の一覧。
指で項目を辿った。
宮廷区画の子爵邸。ある。家財一式。ある。金貨の預け先。ある。
不動産。子爵邸のみ。
(……これだけ?)
子爵家が不動産を一軒しか持っていない。ありえなくはない。でも──。
嘆願書の裏面に残っていた走り書きが、頭の中で光った。
レーゲン別邸。
あの六文字が、この資産目録のどこにもない。
◇
監査局の資料室は、書記局の二つ隣の棟にある。冬の渡り廊下は底冷えがした。吐く息が白い。
ハルトマン鑑定官が、分厚い眼鏡の奥で目を細めた。
「不動産登記簿の閲覧か。対象は?」
「レーゲン別邸。ヴァイス子爵家に関連する不動産として、登記の有無と現在の名義を確認したいんです」
「ヴァイス案件の延長だな。閲覧権限は監査局にある。少し待ってくれ」
ハルトマンが資料室の奥に消えて、三分ほどで戻ってきた。手に薄い綴じ書類を持っている。
「あった。レーゲン別邸。登記番号四三七―二。──名義は、クラウス・ヴァイス」
クラウス・ヴァイス。
今朝の弁済計画書で保証人として署名していた名前と、同じだ。
「名義変更の日付は」
ハルトマンが頁をめくった。
「……免職命令の二日前だ」
二日前。
公聴会の裁定でヴァイスが懲戒免職になる二日前に、別邸の名義が本人からクラウスに変わっている。
(裁定が出ることを予測して、資産を親族名義に移したのか──)
偶然ではない。免職の二日前というタイミングは、公聴会の日程が通知された直後だ。弁済命令が出る前に、差し押さえられる資産を減らしておく。そして弁済計画では「現有資産」としてこの別邸を記載しない。記載しなければ、弁済原資の計算から外れる。
帳簿は嘘をつかない。でも、資産目録は──記載しなければ、存在しないことにできる。
「ハルトマン鑑定官。名義変更書類の魔力痕跡鑑定は可能ですか」
「登記簿の原本に触れれば、記帳者の魔力痕跡は残っている。鑑定はできる」
「お願いします。名義変更の記帳者が誰なのかを特定したい」
ハルトマンが眼鏡を押し上げた。秋の公聴会の前にも、帳簿の魔力痕跡を鑑定してくれた人だ。あのときは「アーレンスが言っていた通りだ。書記局に、目のいい人間がいる」と言われた。
今日は何も言わなかった。ただ、登記簿の原本を棚から取り出して、掌をかざした。
鑑定は十分ほどで終わった。
「結果が出た」
報告書を受け取った。
「名義変更の記帳に残存する魔力痕跡は、宮廷財務局元副次長ディートリヒ・ヴァイスの登録魔力と──一致」
一致。
「高い類似性」ではない。一致だ。
ヴァイス本人が、自分の手で別邸の名義を弟に書き換えていた。免職の二日前に。弁済命令が出ることを見越して。
「これは──」
「資産隠しだ。確定的な」
ハルトマンの声は淡々としていた。鑑定官として、数字と魔力の事実だけを述べている。でもその淡々さが、かえって重い。
「報告書の写しをいただけますか」
「持っていけ。アーレンス監査官にも一部送る」
◇
書記局に戻って、フリッツ局長の執務室に入った。
「局長。ヴァイス子爵家の弁済計画書について、報告があります」
登記簿の写し。名義変更の日付。魔力痕跡鑑定の結果。三枚の書類を局長の机に並べた。
フリッツ局長が一枚ずつ目を通した。読み終えて、顔を上げた。
「……資産隠しだな」
「はい。免職の二日前に、別邸の名義を弟のクラウス・ヴァイスに変更しています。変更の魔力痕跡はヴァイス本人と一致。再提出された弁済計画書の現有資産目録には、この別邸の記載がありません」
「つまり、弁済原資を過少申告して、差し押さえを逃れようとしていた」
「そうなります」
フリッツ局長がペンを取った。
「差押え請求書を起案しろ。対象はレーゲン別邸および名義変更後にヴァイス家から移転された資産一切。根拠は──」
「宮廷官吏服務規程第九十三条。『公金弁済命令に係る資産の隠匿または不当な移転が認められた場合、宮廷省は当該資産の差押えを命じることができる』」
条文が口をついて出た。局長が一瞬だけ目を見開いて、それから小さく頷いた。
「書け」
差押え請求書を起案した。事実の記載。証拠の列挙。条文の引用。感情は一文字も入れない。
午前便で宮廷省に提出した。
回答は──午後、退勤の鐘が鳴る二時間前に届いた。
『差押え執行命令。対象:レーゲン別邸(登記番号四三七―二)および関連移転資産。即日執行。』
宮廷省の公印。即日。
(……速い)
速いのは、ヴァイスの弁済案件が国王陛下の裁定に基づいているからだろう。国王裁定の弁済命令を、資産隠しで逃れようとした。宮廷省にとっても看過できない案件だ。
差押え執行命令の写しを、帳面に挟んだ。
ヴァイス子爵家の別邸は、今日をもって公的管理下に入る。弁済原資は確保された。百二十金貨の逃げ道は、塞がった。
◇
退勤の鐘が六つ鳴った。今日は定時だ。
鞄を閉める前に、差押え書類の写し一式を整理していた。執行命令、登記簿の写し、鑑定報告書、そして──宮廷省から回付された関連書類の束。
束の中に、見慣れない紙が一枚、紛れ込んでいた。
差押え対象の資産リストに添付された、ヴァイス子爵家の過去三年分の支出記録の抜粋。宮廷省が差押え範囲を確定するために取り寄せたものらしい。
目が、ある行に止まった。
「交際費」の欄。支出先の名前。
ベルント・グレーフェ。
金額。年間八金貨。三年分。合計二十四金貨。
(……二十四金貨)
正規書記官の年俸が十五金貨。その一年半分を、「交際費」として一人の人物に支出している。
ベルント・グレーフェ。聞いたことのない名前だ。交際費として計上されているが、金額が大きすぎる。通常の社交──贈答品や会食──で年間八金貨は、子爵家の規模を考えても突出している。
政治献金、と呼ぶべきものだろう。帳簿上は「交際費」でも、実態は──。
(誰だろう、この人は)
帳面を開いた。日付。「差押え関連書類に『ベルント・グレーフェ』への支出記録あり。年間八金貨×三年=二十四金貨。名目は交際費。要調査」。署名。
鞄を閉じた。
窓の外はもう暗い。冬の日は、本当に短い。
◇
官舎に帰ると、ヴェインの靴があった。
今日も定時に帰れたらしい。復職二日目。
書斎に入って、灯りをつけた。机の上に──また、あった。
灰色インクのメモ。ヴェインの筆跡。角ばった、無駄のない字。
『別邸の登記情報、添付済み。今日も定時に帰れたか? ──V』
添付済み、という言葉の横に、小さな紙片がクリップで留めてある。開くと、レーゲン別邸の登記情報の要約──名義変更の日付、変更前の所有者名、変更後の所有者名、面積、評価額。監査局の資料から抜き出したものだ。
(……私が今日確認した内容と、同じだ)
いや。厳密には、少し違う。評価額が書いてある。私が見た登記簿の写しには、評価額の欄がなかった。ハルトマンに頼んだのは名義と日付の確認だけで、評価額までは──。
ヴェインが、別途調べたのだ。私の帳面を見て、私が何を追っているかを理解して、私が手の届かない情報を補完している。
灰色インクと、私の黒インク。同じ机に、違う色の言葉が並ぶ。
秋の終わりに官舎の書庫で帳簿を並べて読んだ夜を思い出す。あの頃は肘と肘の間が掌ひとつ分で、停職中の監査官と正規書記官だった。
今は──法的に夫婦で、復職した監査官と書記官長補佐で。肘は並んでいないのに、インクが並んでいる。
(「今日も定時に帰れたか?」)
帰れた。六つの鐘にちゃんと間に合った。
メモの余白に、黒インクで一行書き足した。
『帰れました。別邸の差押え、執行済み。──M』
書いてから、少しだけ迷った。一文字の署名は、ヴェインの真似だ。真似していることに気づかれたら──。
(……別に、いいか)
別にいい。同じ机を使っているのだから、同じ書き方をしても不自然ではない。
居間の方から、かすかに頁をめくる音がする。壁一枚の向こうに、灰色インクの持ち主がいる。
帳面を開いた。今日の記録を書いた。再提出された弁済計画書。レーゲン別邸の名義変更。魔力痕跡の一致。差押え執行命令。ベルント・グレーフェの名前。二十四金貨。
書き終えて、ペンを胡桃材のペン立てに差した。赤みを帯びた木目が灯りに光る。
ベルント・グレーフェ。
ヴァイスが三年間、年八金貨を注ぎ込んだ相手。ヴァイスは免職された。百二十金貨の横領が確定し、資産隠しも発覚した。弁済の逃げ道は塞がった。
でも──ヴァイスから金を受け取っていた人間は、まだ何も咎められていない。
明日、議会の議員名簿を確認する。ベルント・グレーフェという名前が載っているかどうか。載っていたら──。
帳面を閉じた。
窓の外は暗い。冬の夜は早くて、鐘が六つ鳴ってからもう随分経った。
居間の頁をめくる音が、止まった。代わりに足音が聞こえて──台所の方へ向かっている。
少しして、書斎の扉の前で足音が止まった。
「……茶を淹れた」
低い声。扉越し。
「今日は少し濃い」
少し濃い。昨日の朝より。
私は立ち上がって、扉を開けた。




