ホームにて
「ネタでしょ?」
話を聞き終えた俺がそう言うと、笹川さんは鼻の頭に皺を寄せて紫煙を吐き出した。喫煙ルームには俺たち二人だけである。
「作り話ならもっとホラーに脚色するよ。夜中に走る暴走列車とか、バラバラんなった体を探す人身事故の幽霊とか、路線図にない駅とか」
「あー、ネットで読んだことあります」
「今のは全部、社内で聞いたほんとの話。別にオバケとは言わないが、おまえが四苦八苦してる普通の客より遥かに変な奴らが、ここにはいるんだ」
他の鉄道会社でも同じようなもんじゃないか、と、笹川さんは三本目の煙草に火を点ける。彼はかなりのヘビースモーカーだ。
俺は半信半疑で、自分の加熱式煙草を吸おうとしたが、本体の充電切れに気づいた。笹川さんの差し出した煙草は、さすがに遠慮しておいた。
確かにどれも怪談と言えるほど怖い話ではなかった。そのぶん、妙なリアリティがある。
毎日不特定多数が集まり、交差し、移動し、散っていく場所が駅だ。たまに変なものが紛れ込んでいてもおかしくはないし、気づかれないのかもしれない。
「おまえが今日接客した人たちだって、全員生きた人間だったって言い切れるか?」
気味の悪いことを言われて、俺は頬を引き攣らせた。
「はは、怖がらせようとしてます?」
「まあ、ロクでもない職場なのは間違いないよ。心身病むくらいなら、さっさと逃げた方がいい」
笹川さんは赤いネクタイを緩めて、口の端で笑った。
「それでも、この仕事やっててよかったと思えることがあるから、俺は続けられてるんだけどな……お、やべ、休憩終わりだ。ホームに出るぞ」
火を点けたばかりの煙草は、ほとんど吸われないまま揉み消された。
あのうすみません、と遠慮がちに声をかけられた。
下り列車の発車を見送った俺は、少し身構えて振り向く。さっき笹川さんも言っていた通り、声をかけてくるのは圧倒的に怒っている客が多い。とりあえず警戒してしまう。
立っていたのは、親子連れの旅客だった。
ポロシャツ姿の父親と、ワンピースを着た母親、それに幼稚園児くらいの女の子。平日の昼間ではあるが、夏休み中なので、こういった休日モードの家族連れも珍しくない。
「すみません、子供が線路に物を落としてしまって……」
父親は頭を掻いて、申し訳なさそうに告げた。娘さんらしき女の子は、彼と手を繋いだまましょんぼりとしている。その後ろで、母親も困った顔をしていた。
ごく普通の、善意のお客さんらしかったので、俺は少し安心した。
「何を落とされました?」
「ぬいぐるみです、小さな、このくらいの。さっき電車を降りる時に、ホームの隙間に落としてしまったみたいで」
父親は少し離れた乗車位置のマークを指差した。
ホーム柵がついているのであまり頻繁ではないが、乗降の際に車両とホームとの間に物を落とす旅客は珍しくない。歩きスマホで手が滑って、というパターンがほとんどなのだが。
俺はホーム柵越しに軌道を確認した。ホームの下に入り込んでいるのか、落下物は確認できなかった。
「……電車に轢かれちゃったのかな」
女の子はすでにべそを掻いている。よっぽどお気に入りのぬいぐるみだったのだろう。
「落下物拾得の手順は? どうするんだったっけ?」
いつの間にか隣に来ていた笹川さんが小声で尋ねた。俺は頭の中でマニュアルを確認する。
「少々お待ち下さい。すぐに探してあげるからね」
後半の言葉は女の子に向けたものだった。目に涙をいっぱい溜めた女の子の頭を、母親が優しく撫でた。父親はお願いしますと頭を下げた。
俺はまず無線で事務室に連絡をする。ダイヤが空いている時間帯なので、次の列車の入線までには五分あった。列車を止める必要はないが、指令センター経由で運転士に注意喚起がされるはずだ。
許可を待つ間に、俺は柱に格納された安全拾得器を準備する。いわゆるマジックハンド、通称『拾い棒』というやつだ。
事務室からのゴーサインを受けて、作業のため一部のホームドアを開けるが近づかないように、とアナウンスを入れる。まばらにいた旅客が、物珍しそうに見物を始めた。
父親の示した場所のドアを開け、身を乗り出して、百三十センチ下の軌道を確認する。うんと身を乗り出してホームの下まで覗くと、それらしきものが見えた。
「黄色い……ウサギのぬいぐるみであってますか?」
「はい、それですそれです! よかったなあミユ、轢かれてなかったよ」
一緒に覗こうとする父親を押し止めて、俺はホームに腹這いになった。
拾い棒を握った腕を思い切り伸ばし、ずいぶん奥に入ってしまったウサギを掴む。クリーニングしたばかりのベストが汚れるのなんて気にならなかった。
笹川さんがタモを持ってきてくれたが、結局俺は自力でその憐れな転落者を救出することができた。
俺からウサギを受け取った女の子は、輝くような笑顔になった。父親が何度も頭を下げる。
「すみません、ありがとうございます! ほんとにご迷惑をおかけしました。ほらミユ、駅員のお兄さんにお礼を言いな」
女の子は小さな声でありがとうと呟き、恥ずかしそうに父親の後ろに隠れてしまった。もう二度と離さないと言わんばかりの勢いで、ぬいぐるみをぎゅうぎゅうと抱き締めている。
俺は何だかすごく……嬉しくなってしまった。
我ながら単純だが、今日あった嫌なことがどうでもよく思えてきた。やるべきことをきちんとやって、それで他人から感謝されるのは悪くない。まったく悪くない。
父親はもう一度礼を述べた後、娘を促して改札の方へ向かった。
母親も二人の後に続いたが、振り返って、俺に向かって丁寧に頭を下げた。俺も帽子を取ってお辞儀を返した。
「な、やめられないだろ、この仕事」
笹川さんが後ろから俺の肩を小突いた。
ドヤ顔が目に浮かぶようで、何か言い返そうと振り向いたら、彼はそこにはいなかった。
かわりに、改札の方から別の先輩が駆けて来るのが見えた。
「大隅っ! 拾得作業は二人でやれって教えただろ! 何で俺が来るまで待たなかった」
丸顔に眼鏡をかけた松井先輩は、口を開くなり叱責した。いつもは温厚なのだが、こと安全に拘る指導は厳しい人だ。指導員として、新人の俺をビシビシ鍛えてくれている――って、あれ?
「今さっきまでここに笹川さんが……」
「笹川さん? 誰だそれ?」
「誰って、俺の……」
指導員の笹川さんですよ、と言おうとして、俺は口ごもった。指導員は目の前にいるじゃないか。
寝言の途中で夢から醒めたみたいな気分だった。
記憶の上に被せられていた薄いカーテンが外れ、現実が甦ってくる。
すみませんでしたと謝って、俺は汚れてしまったグレーのベストを払った。夏用の制服は、このベストに白い半袖シャツ、そしてノーネクタイだ。
何で気づかなかったのだろう。彼が着ていた紺色の制服は昔のデザインだった。十年も前にリニューアルする前の――古い社内報で見たことがある。
客にキレかけた俺を宥め、愚痴を聞き、妙な怪談を語ったあの人は、いったい誰だったんだ?
おまえが今日接客した人たちだって、全員生きた人間だったって言い切れるか――返答のようにあの人の言葉が思い出されたが、なぜか怖くはなかった。
駅とはそういう場所なのだ。
この世の人も、そうでない人も、善いモノも、悪いモノも、やって来て一瞬すれ違っては去っていく。俺たちの仕事は、そういった雑多な存在をフラットに受け入れ、安定した輸送を提供することなのだろう。
十年以上前、この駅の若い駅員が事故死しているという事実を知ったのは、だいぶ後になってからである。同僚だったという助役の話によると、その駅員はたいへん後輩の面倒見がよく、特に新入社員から慕われていたという。
きっとこの仕事が大好きで、鬱憤を溜めまくっている俺をほっとけなかったに違いない。お節介なことこの上ないが、おかげで俺はもうちょっとだけ頑張ってみようという気になっている。
そして蛇足ながら、後日談を。
数日後に、駅宛てに一通の礼状が届いた。
あの時俺がぬいぐるみを拾ってあげた女の子と、その父親からである。子供らしい文字で「えきいんさんありがとう」のメッセージは嬉しかったが、帽子を被った俺の似顔絵は少しばかり恥ずかしかった。
父親からの追伸には、あのウサギのぬいぐるみは昨年の暮れに亡くなった母親の形見なのだと書かれていた。
余命宣告を受けた病床で、娘のために手作りしたものだという。だから、自分にとっても娘にとっても大事な宝物だったのだと。
あの時俺に深々と頭を下げた女性は、真夏に冬物のワンピースを着ていた。
世間はもうすぐお盆だな、と思った。
―了―