02話 奇襲と罰
朝食を終え、淼さまを見送ったらその後は浴室掃除だ。忙しいけど充実している。
淼さま専用の浴室だけど、淼さまは普段、ここを使わない。でも、突然使うときがくるかもしれない。その時、汚れていたり、埃が溜まっていたりしたら大変だ。
乾ききった浴室に水を流し、隅から隅まで磨く。結構体力がいる仕事だ。それに時間もかかる。でもその甲斐あってすっかり綺麗になった。
仕上げに洗い流していると、足下に水が溜まっていた。埃かゴミで排水口が詰まってしまったみたいだ。
排水口を覗きこむ。
「なんか詰まって……え?」
排水口と目があった。一旦、視線を外して目元を押さえた。目が疲れているのかもしれない。
もう一度、覗きこむ。
今度は、排水口が瞬きをした。見間違いではない。水がぐんぐんと逆流してくる。
「……っうわ!」
噴水のように飛び出た水に尻餅をついてしまった。排水口の蓋が勢い良く飛び、少し遅れてカランカランッという音がする。
僕の背丈よりも高く噴き出ている。高い天井なのに触れそうだ。噴き出た水の先端は蛇の頭になっていた。
ーー精霊だ。
人型ではない精霊と会うのは初めてだ。
浴室に精霊が住んでいるなど思いもしなかった。淼さまは何も言わなかったけど、僕が離れに住まわせてもらっているのだから、浴室を与えられている精霊がいてもおかしくはない。
「あ、あの。初めまして」
大きな口を開けて威嚇された。口の中も透明なんだ、とちょっと抜けたことを考えてしまった。
「……っわ!」
蛇が僕に向かってきた。口を開けて今にも僕に噛みつこうとしている。ギリギリのところで袖で払って防いだ。
怒っている。住処に汚れを流されたら怒って当然だ。
僕一人ではどうしようもない。
けれど淼さまはいない。淡さんを呼んでくるしかない。
壁に伝って出口へ向かう。ところが蛇の胴体が扉を抑えていて、出口が塞がれていた。
困った。やっぱり自分で何とかするしかない。話を聞いてくれるかどうか……。
「あ、の」
ドンッと壁が叩かれた。浴室の壁に振動が伝わって音が反響している。
残念ながら話ができる状態ではない。広い浴室いっぱいに蛇の体が蠢いている。
ど、どうしよう。
話をするどころか、逃げ場もなくなってしまった。蛇が大きな口を開けて再び向かってきた。
駄目だ、逃げられない!
噛まれるのを覚悟してギュッと目を瞑った。
バチンッ!!!! とすごい音がした。
けれど痛みも衝撃も来ない。恐る恐る目を開け、組んだ腕の隙間から浴室の様子を窺う。
「あれ?」
何もいない。
足下の水が勢いよく排水されていった。
消えた? 蛇が僕を噛もうとしていたのに……夢?
吹き飛んだ排水口の蓋がそうではないと告げてくる。心臓がバクバクと騒がしい。
気味が悪い。早く終わらせてしまおう。
排水口を直接覗きこむのが怖くて、精一杯腕を伸ばして蓋を被せた。
すぐに排水口から距離を取り、出来る限りの速さで浴室を後にした。無意識に外へ出ると、太陽の暖かさに少しだけホッとする。
しばらく経って、夕食を作る時間になってもまだ動悸は収まらなかった。おかげで要領が悪い。手順を間違えつつも、何とかいつもの時間に夕食を作り終えた。
動揺を誤魔化すために、深呼吸をしてから執務室の扉を叩いた。
「淼さま。夕食をお持ちしました」
……あれ、返事がない。
「淼さま?」
もう一度ノックをする。やはり返事がない。
「淼さま? 失礼します」
思いきって扉を開けてみると、主の姿がなかった。
今日に限って別の部屋だろうか?
それとも時間を間違えた?
視察で何かあった?
「雫?」
後ろの方から聞き慣れた声が聞こえた。
振り返ると外套が見える。美しい銀髪の主が長い廊下をこちらへ向かって歩いてくる。主の姿にほっとした。
「淼さま! おかえりなさいませ」
淼さまがこちらにゆっくり歩いてくる。小走りで近寄って迎えた。
「ただいま。雫が来る前に終わると思ったんだけど、遅くなってごめんね」
謝罪など恐れ多いと言おうとしたけれど、淼さまは脱いだ外套を僕に渡しながら話を続けた。
「前から揉めていた川同士がまた争いをしていてね。遅くなってしまった」
こんなに時間がかかるのは珍しい。でも僕が心配しても何の役にも立たないので、口を挟むことはしない。
「……せっかく作ってくれたのに冷めてしまったね」
淼さまの視線の先では、膳から上っていた湯気がすっかり消えていた。
おかしい。そんなにすぐ冷めるはずないのに。
浴室の出来事があってから、うまく仕事が出来ていなかった。もしかしたら、そもそもちゃんと温められていなかったのかもしれない。
「申し訳ありません。僕の不手際です。温め直して参ります」
僕がそう言うと、淼さまは僕から外套をやや強めに取り返した。
「雫は悪くない。いつも時間通りに用意してくれるから、私が遅かったせいだ。冷めても美味しいだろうけど、着替えもしたいからその間にお願いしようか」
僕が失敗したせいなのに、淼さまはそれを責めない。それどころか自分のせいだと仰る。申し訳ない気持ちで涙が出そうになった。
外套を軽く肩にかけて淼さまは続き部屋に行ってしまった。隣の部屋から、火の扱いには気を付けてーという声が聞こえる。
その声を聞きながら、不気味なほど冷たい汁物を抱え、厨房へと戻った。
◇◆◇◆
雫が去った音を確認する。
私にとって水の温度を変えることなど造作ない。雫には悪いが、水蠆を処理する間はここにいない方がいいだろう。雫は分からないかもしれないが、これでも兄だ。
雫から奪い返した外套を無造作に投げると、水蠆が飛び出してきた。
逃げようとしたのか、それとも私に飛びかかろうとしたのか。後者ならば度胸はあるが、いずれも懸命な判断とは言えない。
『水球』
水蠆を水球で捕らえた。じたばたと暴れているが無意味だ。残った体力の無駄使いにしかならない。名のある川の精霊だった面影などどこにもなかった。
「小癪な真似をする。その姿になっても、まだ末弟を狙うか。情けをかけたのは間違いだった」
雫に外套を渡したとき、水蠆が私の袖から外套に飛び移った。更に外套から雫に向かっていたのを見逃しはしなかった。
雫から強引に外套を奪うのと同時に水蠆を回収し、雫をその場から遠ざけた。
今、雫を奪われるわけにはいかない。
「腐っても古い川。平穏に済まそうと思ったが、どうやらその気がないようだ」
抑えていた理王としての力を、ほんの少し解放する。水蠆は水球の中でビクッと震え、動かなくなった。謝罪の念を送ってくるが、それは無意味だ。
「今更謝罪など必要ない。口ばかりの謝罪は聞き飽きた。しかし謝罪する意思があるのなら、敢えて聞こう」
水球の温度を下げていく。芯まで凍るのは時間の問題だが、少し猶予を持たせた。
「黒幕は誰だ?」
そう尋ねても、水蠆は謝罪するばかりで何も答えない。
仕方のないことだ。名を奪った以上、深く思考することはできない。それでも雫を襲おうとするのは余程の執念だ。
これ以上の問答は無用と判断し、外側から徐々に凍らせていく。水蠆は恐怖と寒さでピクリともしない。
そのとき、雫の気配を感じた。パタパタパタ……と狭い歩幅の足音も近づいてくる。
水球を水蠆ごと急速に凍結させた。
『露散』
パンッという小さな音がして氷球が弾けた。弾けた瞬間から蒸発をしていく。まるで初めから何もなかったかのようだ。
「帰還は許さじ」
隣の部屋で扉の開く音がする。外出用の衣類を脱ぎ、手早く身支度を整えた。
雫が狙われる訳とは……?




