00話 涸れた泉
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「母上……」
声に出してみたものの、その言葉が届くはずはなかった。
足に力が入らない。立っていることも叶わず、僕は泉を囲む土手に背を預けた。背に触れた土の感触で、自分の鼓動がやけに速いことを知る。
乾いている。
水底だったはずの土はひび割れ、細く長い亀裂が蜘蛛の巣のように走っていた。
この泉に水が湧かなくなって、どれほどの時が経ったのだろう。いよいよ最期が来たらしい。
目の前にあるのは、もう泉とは呼び難い。濁った水が、かろうじて手で掬えるほど残っているだけだ。
この水が消えれば、僕も終わる。
せめて最期に、母上に会いたかった。
泉に水が湧かなくなったとき、母上のもとへ向かおうとした。けれど、僕を虐げる兄姉に阻まれ、結局叶わなかった。
生まれてからずっと、僕は兄や姉たちに疎まれてきた。大河である母上の子は皆、その流れを受け継ぐ川なのに、末子の僕だけが泉として生まれたからだ。母上は、異端な僕にも変わらず優しかったけれど、兄姉たちは、それを良しとしなかった。
僕が涸れれば、きっと喜ぶだろう。
――。
何かに呼ばれた気がした。重い頭を、どうにか持ち上げる。
「あ……にうえ」
土手の上に、長兄が立っていた。唯一、僕を疎んじなかった兄だ。逆光で表情は見えない。
こちらへ降りてくる様子はない。長兄は、一歩を踏み出しかけ……引いた。
――ああ、もう助からないのだろう。
自然の摂理で失われるものは、救ってはならない。幼い頃に教えられた理だ。
母上と兄上に守られて、ここまで生きてきたけれど、もう、それも終わりだ。
……せめて。
見送りに来てくれた兄上に、お礼と別れを伝えたい。
重い身体を引きずるように、わずかに姿勢を変える。けれど、再び土手を見上げたとき、そこにはもう誰もいなかった。
その直後、空気が変わった。
背筋にざわりとしたものが走る。
鈍い動きで視線を戻すと、水溜まりの向こうに、誰かが立っていた。僕の足元を、じっと見つめている。
やがてその精霊は、静かに屈み込んだ。
もはや水溜まりと呼ぶことさえ躊躇われる泥水へ、迷いなく手を差し入れる。
天の川を編んだような長い銀髪。
こちらを見上げる深い色の瞳。
青と黒の強い色合いの衣。
眩しい。
強い光さえ弾いてしまいそうなその姿に、この状況でも思わず見入ってしまう。
こんなにも美しいものを、僕は知らない。
――誰?
そう尋ねたつもりだった。
けれど、声にはならなかった。
母上。
最期に、こんなにも綺麗なものを見ることができました。
どうか末永く――
瞼が、磁石のように引きつけられる。
逝く僕を見送るように、美しい唄が響いた。
巡れや巡れ
流れる水よ
この世の行の穢れを集め
この世の悪を凍らせよ
舞えや舞え舞え
飛び散る水よ
この世の行の癒しとなりて
この世の善に渡らせよ
◇◆◇◆
やわらかな光に包まれて、目が覚めた。
朝霧に滲む陽射しが、静かに瞼を叩いている。木々の葉が風に揺れ、影が淡く踊っていた。
少しだけ早い時間だけど、二度寝するほどの時間はない。布団から腕を生やし、大きく伸びをする。微睡みがゆっくり解けていった。
庭へ降り、水場で顔を洗うと、額の髪から雫がポタポタと滴った。
朝日を取り込んだその一滴を、拭わずに見つめる。
――雫。
それが、僕の名だ。
水の精霊を束ねる水理王・淼さまが与えてくださった名。
泉だった僕が、最後には一滴ほどしか残らなかったことに由来するらしい。
あのとき、涸れかけていた僕を淼さまが救ってくださってから、およそ十年。
泉を失い、居場所も意味も失った僕に、手を差し伸べてくれた。
ここ王館は、本来僕のような下位精霊がいるべき場所ではない。それでも淼さまは、仕事と住まいを与えてくださった。
精霊界には、『滅ぶべきものを助けてはならない』という理がある。それは理王であっても覆せないはずだ。
かつてそのことを尋ねたとき、淼さまはただ笑って――掬っただけだ、と仰った。
なぜ、救われたのかは分からない。
ただ一つ確かなのは、僕はもう泉の精ではないということ。
ただの一滴。
それが、今の僕だ。
それでもいい。
こうして、今も在る。
命を救ってくださった淼さまに、恩返しができれば……それで十分だ。
額の雫を拭い、部屋に戻って着替える。前掛けを締めれば、朝の支度は万全だ。
厨へ向かい、火を入れる。昨夜から浸けておいた海草が、静かに揺れた。
食事のあとは浴室掃除だ。その後、時間があれば庭か窓の掃除をする。
予定を組みながら、出来上がった朝食を、執務室へ運ぶ。
藍玉と水晶で飾られた黒い扉の前で立ち止まり、声をかけた。
「淼さま。朝食をお持ちしました。入ってもよろしいでしょうか」
許しを得て扉を開いた。
「淼さま、おはようございます」
主の姿が見えない。書類の山に隠れているらしい。
「おはよう、雫。すぐ行くから」
「かしこまりました」
卓に食事を並べていると、やがて淼さまが現れた。
背中に流れる銀髪が、朝の光を取り込んで輝いていた。
「お疲れ様です。どうぞお召し上がりください」
「ありがとう。雫も座って」
「……失礼します」
理王と下位精霊が同じ席に着くなど、本来ならあり得ない。それこそ、十年前は給仕として控えていた。けれど、「私と一緒に食事をしたくないのか」と言われれば、断ることはできない。
未だに慣れない緊張の中、向かいに座った。
「雫。今日の予定は?」
「今日は、大浴室の掃除をする予定です」
淼さまは忙しいのに、僕の予定にまで気を回してくれる。
「あぁ、あそこはしばらく使っていないが、まぁ……手入れは必要か。私は王館を空けるよ」
「かしこまりました」
淼さまは、小さく息を吐き出した。
「最近、妙な動きが多くてね」
「妙な動きですか?」
淼さまが外のお話をされるのは珍しい。
「あぁ、雫はまだ知らなくていいよ。……今は、ね」
「はぁ」
淼さまのお仕事を僕が理解できるはずがなかった。
「何かあれば、淡を頼るように」
「はい、かしこまりました」
淡さんは頼れる先輩だ。困ったことがあると、いや、本当に困る前にいつも助けてくれる。
僕も、いつか淡さんのように、もっと仕事ができるようになりたい。
そうすれば、もっと淼さまの役に立てる。
「雫がいてくれて助かるよ。淡だけだと心配だからね」
「そんな、僕なんて……滅相もない、です」
何気ない言葉に、胸が温かくなる。
こうした日常が、何よりも大切だった。
母上。
僕は今日も、ここで生きています。
救われた意味も分からないまま――。
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