00話 涸れた泉
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「母上……」
声に出しては見たものの、母には届いていないだろう。
手に力が入らず、足は震えている。立っているのが辛くて、泉を囲む土手に寄りかかった。土に背をつけたことで、自分の鼓動が異常に速いことを認識してしまった。
水底だったはずの土はすでに乾いている。細くて長い亀裂が無数に入っていた。
この泉に水が湧かなくなって、どれほどの月日が経ったのだろう。遂に最期の時が来てしまった。正直のところ、もっと早く涸れてしまうと思っていた。ここ数日続く曇天の影響かもしれないけれど、よく持った方だと思う。
雨が降れば少しは水量が増えるかもしれない。しかし多少潤ったところで、自分の最期がせいぜい一日、二日延びるだけだ。涸れる泉を甦らせるほどの雨など見込めないだろう。
目の前にあるのは、もう泉とは呼び難いただの水溜まりだ。濁った水が辛うじて手で掬える程度しか残っていない。
この水が完全に消えたときが僕の最期だ。
僕は最期に何を見るのだろう。
――――――。
何かに呼ばれた気がした。力を振り絞って重い頭を持ち上げる。
「あ……にうえ」
凭れた土手の上に兄が立っていた。見送りに来てくれたのだろう。逆光で表情までは分からなかった。
こちらに降りてくることは無さそうだ。自分はもう助からないのだろう。力を抜いて再び身を土手に預けた。
自然の摂理で失われるものは助けてはいけない。幼い日、そう教えてくれたのは母上だったか、兄上だったか。
生まれてからずっと、数多い兄姉に虐げられてきた。大河である母上の子は皆その支流なのに、末子の僕はどういう訳か泉として生を受けた。
母上は異端な僕にも愛情を注いでくれたけれど、兄や姉はそれが面白くなかったらしい。僕が涸れたら、さぞ喜ぶだろう。
その中で唯一、一番上の兄だけは自分に優しかった。母上と長兄に守られて何とか今日までやってきたけれど、ここまでのようだ。
出来れば最期に母上に会って、別れの挨拶をしたかった。泉に水が湧かなくなったとき、母上の元へ向かったけれど、それも兄姉に妨害されてしまって、結局対面は叶わなかった。
そうだ。せめて、今、見送りに来てくれた兄上に別れとお礼の言葉を言いたい。
重くなった瞼と力の入らない腕を誤魔化して、何とか体勢を変えた。けれど、再び土手を見上げたときにはもう兄上は立っていなかった。
それを確認し、落胆する間もなくザワリと鳥肌が立った。
自分でも呆れるほどに鈍い動きで姿勢を戻すと、水溜まりを挟んで誰かが立っていた。僕の足元をじっと見つめている。
しばらくすると何も言わずにそっと屈み、もう水溜まりとさえ言い難い、僅かな泥水に腕を伸ばして手を浸した。
天ノ川のような長い銀髪。
自分を見上げてくる濃い色の瞳。
青と黒の強い色の衣装。
すべてが眩しい。強い太陽の光さえ跳ね返しているようだ。これほど美しいものを今まで見たことがない。この危機的な状況でも見惚れてしまいそうだ。
誰?
そう聞いたはずだった。
でも、もう声が音になっていなかった。
母上。
僕は最期にとても綺麗なものを見ることができました。どうか末永く、健勝で……。
上下の瞼が磁石のように引き寄せられる。
逝く僕を送るように、美しい唄が通り抜けた。
巡れや巡れ
流れる水よ
この世の行の穢れを集め
この世の悪を凍らせよ
舞えや舞え舞え
飛び散る水よ
この世の行の癒しとなりて
この世の善に渡らせよ
優しい光で目が覚めた。朝霧で柔らかくなった陽射しが瞼に落ちていた。木々の葉が風になびき、影が揺れている。
日の角度から見て、いつもの起床時間よりも少しだけ早いけれど、二度寝するほどの時間もない。布団から腕を生やして大きく伸びをして、微睡みを追い払った。
部屋を出て庭へ下りる。占有している水場で勢いよく顔を洗うと、額の髪からポタポタと雫が滴った。
朝日を取り込んだ目の前の雫を、拭き取らずについ眺めてしまう。
雫ーー僕の名だ。水の精霊を束ねる水理王・淼さまからいただいた有り難い名だ。泉だった僕が一滴ほどしか残らなかったことがその由来らしい。
涸れかけた泉の僕を淼さまが救ってくださってから、概ね十年になる。
泉を失い、居場所も存在意義も失った僕に手を差し伸べてくれたこと……本当に感謝している。
ここ王館は理王の住まいであり、本来、僕のような下位精霊がいるべき場所ではない。けれど淼さまはここでの仕事と、住処として離れを与えてくださった。
しかし精霊界には『滅ぶべきものを助けてはならない』という理がある。精霊にとって絶対的存在の理王といえど、自然の摂理を妨害してはならない。
だから僕を救ったのは理違反ではないかと淼さまに尋ねたことがあった。しかし淼さまは笑いながら、掬っただけだと仰った。
淼さまが何故、僕を助けてくれたのか分からない。けれど確かなのは、僕はもう泉の精ではないということ。
ただ一滴の雫。それが今の僕だ。
まだこの世に存在している。それで満足だ。
額の雫を拭き取り、自室に戻って手早く着替えた。仕上げに前掛けを締めれば、朝食を作る準備は万全だ。
急ぎ足で厨へ向かう。僕の主な仕事は炊事、洗濯、掃除など、いわゆる洒掃薪水だ。
厨房に立って袖を捲り、昨夜のうちに海草を浸けておいた鍋を火に掛けた。食事の後は浴室掃除だ。それから時間があれば窓か庭の掃除だ。
予定を考えながら朝食を完成させた。これを淼さまの執務室へ運ぶのが日課だ。
慣れた廊下を進み、藍玉と水晶で装飾された黒い扉の前で立ち止まった。
「淼さま。朝食をお持ちしました。入ってもよろしゅうございますか?」
入室の許可をもらい扉を開け、部屋の主に挨拶を送る。
「淼さま。おはようございます」
入ってやや左側の執務席には水の精霊王である水理王・淼さまがいる……はずなのだけど、書類の山で姿が見えない。
「おはよう、雫。すぐ行くから」
「かしこまりました」
淼さまは、水の精霊を統べる方だ。水に関するあらゆる領域や現象をまとめ上げる大変なお仕事をしているらしい。
執務席から離れた卓に朝食を並べていると、淼さまがいらっしゃった。
「お仕事お疲れ様です。どうぞお召し上がりください」
背中に流れる銀髪が今日も美しい。射し込む朝日に負けず輝いている。
「ありがとう。雫も座って」
「……し、失礼します」
僕も向かいの席に着いた。
理王と下位精霊が一緒に食事をするなどあり得ない。愚鈍な僕でもそれは理解している。
仕え始めた頃は給仕として控えていたけれど、控えられていると落ち着かないとか、一緒に食事をしたくないのかとか、あれこれ言いくるめられて今に至る。
恐れ多すぎて未だに緊張する。けれど淼さまはそんな僕の緊張を気にも止めず、優雅に汁物を口へ運んでいる。
「雫。今日の予定は?」
淼さまはご自分のお仕事が忙しいはずなのに、僕のことまで気を回してくれる。
「今日は浴室を掃除する予定です」
「あぁ、あそこはしばらく使ってないけど、まぁ定期的に手入れは必要か。私は王館を空けるから、困ったことがあったら、いつものように淡を頼るように」
「はい、分かりました」
僕の先輩である淡さんは、長く王館で働き、何でも把握している。困ったことがあると、すぐに飛んできてくれる。僕にとってはとても頼もしい存在で、淼さまの信頼も厚い。
いつか淡さんみたいに、もっと淼さまのお役に立てるようになりたい。
「雫がいてくれて助かるよ。淡だけだと心配だからね」
「いえ、そんな僕なんて滅相もない」
こうした日常の何気ない会話が幸せだ。
母上。
僕は今日も元気に過ごしています。
序章はまったり。1章はザワザワ。2章はハラハラ……と続いていきます。