第二話 胃袋の値段
翌朝の空は、薄い鉛色をしていた。
ロウは背負い袋の重みを確かめながら、苔むした斜面を下っていた。袋の底には、布に包んだ魔石がひとつ。これを街で売れば、しばらくは食うに困らない。足取りは、いつもより少しだけ軽かった。
問題は、隣を歩く影のほうだった。
「……まだ食ってるのか」
ため息交じりのロウの問いに、ミオは口をもごもごさせたまま、こくりと頷いた。手には昨夜の精錬肝の残りを干したものが握られている。山ほどあった肝の、最後のひと切れだ。一晩で、それを全部平らげた計算になる。
「腹は、すぐ減る」
ミオは短く言って、また一口齧った。
昨日の戦いを思えば、無理もないのかもしれない。あの規格外の力。魔獣の群れを片手で沈めるような芸当をすれば、燃料だって相応に要る。要るのだろう。だが──と、ロウは内心で算盤を弾く。ただ、これを毎日続けられたら、魔石が何個あっても足りない。
「あのな、ミオ。一応言っておくけど。俺はそんなに金持ちじゃない」
「見ればわかる」
「即答か」
ミオは表情を変えずに歩き続ける。一晩経っても、彼女は一度も疲れた様子を見せなかった。汗もかかない。息も乱れない。坂を登っても、岩を跳び越えても、ただ淡々と足を前に出すだけ。
ふと、ミオが足を止めた。
視線の先には、樹海に半ば飲まれた、灰色の帯があった。植物に覆われ、緩やかにうねりながら地平へ続いている。神代の人々が遺した道の跡──「巡る道」と呼ばれる遺構の一本だ。
「……あれは、東へ続いてる」
ぽつり、とミオが言った。
「は? なんでわかるんだ。道標も何も残ってないだろ」
ミオは少し黙ってから、自分でも不思議そうに首をかしげた。
「……わからない。でも、知ってる気がする」
ロウは、背筋に小さな冷たさを感じた。遥か昔に死んだ道の行き先を、なぜこの少女は「知っている」のか。
だが、ミオはもう興味を失ったように歩きだしている。ロウは追いかけながら、その疑問を、ひとまず袋の奥にしまった。
◇
昼を過ぎて、二人は街に着いた。
鉄座。
遺構の谷間に、人間が無理やり建てた寄せ集めの街だ。崩れた塔の骨組みに板を渡し、錆びた鋼材を柱にして、その隙間に家々がびっしり詰まっている。空気には、いつも金属と煤の匂いが漂っている。
通りには、遺物を商う店が軒を連ねていた。よくわからない歯車、用途不明の筒、割れた板。そして、店先で青白く脈打つ魔石の数々。
人々は、これらを「神代の宝」と呼ぶ。神々の遺した不思議な道具。魔石は神の忘れ物で、それを動かすのは魔法の理なのだと、誰もが信じている。
ロウだけが、それが少しだけ違うことを知っている。
けれど、ここでも口には出さない。神を神でないと言ったところで、一文の得にもならないどころか、面倒を呼ぶだけだ。
そして今──その面倒の種は、別のところから芽吹こうとしていた。
「おい。見ろよ、あれ」
「化物みてえな飯の食い方だな」
通りのあちこちから、ひそひそ声が聞こえる。視線の集まる先には、火蜥蜴串焼きの屋台に張りついて、片端から串を平らげているミオの姿があった。屋台の親父が、引きつった笑みのまま串を焼き続けている。そして、屋台の脇には積みあがった串。
「ミオ……お前、その勘定、まさか」
「お前が払う」
「だよなあ!」
ロウは頭を抱えた。財布の中身が、まだ売ってもいない魔石の前借りで、みるみる溶けていく。
◇
「──ほう」
ザイ爺の遺物屋は、通りの奥の、ひときわ古い区画にあった。
白髪を後ろで束ねた大柄な老人が、片眼鏡を当てて、ロウの差し出した魔石を訝しいに眺めている。ロウがこの街で唯一信用している、本物の目利きだ。
「ロウ。お前、これをどこで拾った」
「鋼の連峰の、中腹あたりだけど。なんで」
ザイ爺は答えず、しばらく石を光に透かしていた。皺だらけの指が、わずかに震えている。
「規格が、おかしい」
低い声だった。いつも通り冷静沈着な声。ただ、少し震えている。
「この界隈で採れる魔石は、せいぜい『三級』だ。たまに二級が混じれば、街が沸く。だが、これは──」
老人は、片眼鏡を外して、ロウを見た。
「儂の知る等級に、当てはまらん。もっと深く、もっと古い場所でしか生まれんはずの代物だ。なぜこんなものが、連峰の中腹に転がっていた」
ロウは答えに詰まった。
正直に言えば、自分でもわからない。ただ、あの石に触れたとき、視えた来歴は確かに「上物」を示していた。だが、ザイ爺がこれほど驚くとは思っていなかった。
ロウの目利きは、物の「真価」を視抜く。だが、その価値が「世界の常識から外れている」かどうかまでは、教えてくれない。比べる相手を、ロウは知らないからだ。
「……いくらになる?」
「言い値で買おう。ただし──」
ザイ爺が声を潜めた、その時だった。
ノックと共に店の戸が、乱暴に開いた。
◇
「商談中に悪いな、ザイの旦那」
入ってきたのは、三人の男だった。先頭の男は、磨かれた革鎧の上に、見覚えのある紋章を縫いつけている。歯車を象った、円い徽章。
知っている嫌な顔だ。ロウは僅かに顔をしかめる。
ギルド。
この街の遺物の流れを、根こそぎ握っている連中。
単独行動のロウとは異なり、集団で遺跡探索をする者達。
言うまでもなく相性は最悪だ。 過去に揉めたことも一度や二度ではない。
「珍しい石が、この店に流れたと聞いてな。」
先頭の男──ヴァンは、薄い笑みを浮かべて、ロウの手元の魔石に目をやった。獲物を見定めるような目だった。
「ロウ。その石、うちで預からせてもらおうか。なに、悪い話じゃない。相場の半値……いや、三割は出してやる」
「相場の三割は、ただの強盗だろ」
言い返してから、ロウは後悔した。ヴァンの笑みが、すっと消える。
「言葉を選べよ、古物商。──この街で商売を続けたいならな」
背後の二人が、じり、と距離を詰めてくる。ザイ爺は唇を噛んだまま、動けずにいた。ギルドに逆らえば、この店も無事では済まない。それをこの老人は知っている。
ロウもまた、知っていた。
逃げ道はない。武器もない。交渉は──相手が、こちらの足元を見ている。
昨日の鋼喰獣と、何も変わらない。値段のわかる獲物に、なるだけだ。
そう、思った瞬間。
「うるさい」
声がした。
ロウの隣を、影がすり抜ける。
次に瞬きをしたとき、ヴァンの巨体は、店の壁にめり込んでいた。
「……っ、は……?」
誰も、何が起きたのか見えなかった。ヴァンですら、わかっていない顔だった。ただ、小柄な少女が一人、彼の前に立っているだけ。串焼きのタレで、口の端をわずかに汚したまま。
「飯の邪魔。あと」
ミオは、無感情な瞳でヴァンを見下ろした。
「その石は、ロウの。ロウのものは、わたしが守る。約束だから」
極度の緊張感が空間を支配する。
残った二人が、腰の得物に手をかけ──ミオが、ことり、と首をかしげた。
ただそれだけの仕草で、二人は凍りついた。獣の本能が、目の前の存在を「格上」と判断したのだ。
ヴァンは、壁から這い出すと、脂汗を浮かべたまま後ずさった。
「……覚えてろよ。ただのゴミ拾いが」
典型的な捨て台詞を残して、男たちは転がるように出ていった。
静まり返った店内で、ザイ爺がふう、と長い息を吐いた。そして、ロウとミオを交互に見て、しゃがれた声で笑う。
「……ロウ。お前、とんでもない連れを拾ったな」
◇
魔石は、結局ザイ爺が言い値で買い取ってくれた。これまで見たこともない額が、ロウの手のひらに乗った。
その夜には、半分も残っていなかったが。
「……嘘だろ」
ロウは、空になった皿の山を前に呆然としていた。鉄座でいちばん大きな食堂。その奥のテーブルで、ミオは今、十人前の定食を平らげたところだった。
「足りない」
「いやもう店の在庫が尽きてんだよ!」
あれほどの大金が、たった一晩で胃袋に消えていく。ロウは天を仰いだ。これが「守ってもらう」ことの代償か。割に合っているのか、いないのか、もうわからない。
ふと、ロウは気づいた。
あれだけ食っておきながら、ミオの表情は、どこか満たされていない。昨夜、精錬肝を食べたときに見せた、あのわずかな緩みが、今はない。
「……ミオ。それ、うまいか?」
「腹は、膨れる」
ミオはスプーンを置いて、少し考えるように言った。
「でも、昨日のとは違う。昨日のは──とても美味しかった。それに何か、思い出しそうになった」
ロウの胸が、とくん、と鳴った。
昨夜、ロウもまた、あの肝を口にした瞬間に「視た」。鋼の都市の、記憶を。
ミオも、同じものを感じていた。いや、ミオの場合は、もっと深く──「思い出す」と言った。
この街の食事では、それは起きない。市場に並ぶ、ありふれた食材では駄目なのか。
あの感覚を引き出せるのは、神代の遺跡が育んだ、特別な食材だけ。そして、それを「視抜いて」捌けるのは──たぶん、ロウだけ。
「……なあ、ミオ。ひとつ、思いついたんだけどさ」
ロウは、軽くなった財布を振りながら、少しだけ笑った。
「お前を満足させて、なおかつ俺が食っていく方法。たぶん、ふつうの遺物拾いじゃ駄目だ。もっといいモン──それこそ伝説級の、うまい食材を探す。そういう商売に、鞍替えするしかない」
ミオの瞳が、ほんの少しだけ、輝いた気がした。
◇
食堂を出ると、夜の鉄座は、青白い魔石灯にぼんやりと照らされていた。
通りの中央には、街のどの建物よりも古い、巨大な構造物がそびえている。
それに向かって祈りを捧げる者達。
筒のような胴体から、無数の腕のような枝が空へ伸びた、奇妙な姿。人々はそれを神の声を聞くための神像だと崇めている。祭りの日には、この前で祈りを捧げるのだ。
ミオが、その構造物を見上げて、足を止めていた。
いつもの無表情のはずなのに、その横顔には、また、ロウが名前をつけられない感情がにじんでいた。
「ミオ?」
ミオは、長いあいだ、それを見つめていた。
そして、ぽつりと言った。
「……あれは、神じゃない」
声は静かだった。けれど、妙に確信に満ちていた。
「あれは、声を遠くへ届ける機械だ。昔は、空の向こうの誰かと、話せた」
ロウは、息を呑んだ。
魔石が魔法でないことを、ロウは知っている。神代が「神の代」でないことも、薄々わかっている。だがそれは、長年の経験から「たぶんそうだろう」と推し量っているだけの話だ。
ミオの言い方は、違った。推測ではない。
まるで──それを、使ったことがあるような口ぶりだった。
「ミオ。あんた、本当に──」
「行こう」
ミオは、ふいに踵を返した。これ以上は何も言うつもりがない、というように。
その背中を、ロウは追う。聞きたいことは山ほどあった。だが、今は問わないほうがいい気がした。
夜空には、いつかと同じ天の柱が、黒い影となってそびえている。
その遥か向こうに、ミオの探す「誰か」がいるのか。あの煮込みでは満たせない、彼女の空腹の正体は、いったい何なのか。
ロウには、まだ何もわからない。
わからないまま、二人は伝説の食材を求めて、滅びた世界の奥へと、一歩を踏み出した。




