92.紫紺の瞳
頭がひどく重い。
吐き気がする。
指先が冷たくて寒い。
ゆっくりとした覚醒は感じるのに、身体が怠くてもう1度意識を手放したくなるくらいだ。
───もう、1度?
急激に脳内がクリアになる……こともなく、重怠い瞼を無理やりに押し上げた。
未だ霞がかった思考は、自身の現状を把握するには不十分だったがそれでもヴェルに目を覚ませと訴えかけてくるのだ。
何か硬いものに座らされている。脱力感が酷いのに、横になっていたわけではないようだ。
どうして自分は眠っていたのか、この気怠さは一体何なのか。どうして自分は1度意識を手放したんだった?
「おや、目が覚めました?」
聞いたことのある男の声。酷く不快で、けれど今その理由に思い至るだけの余力がない。
「……反応が乏しいわね」
「まだ駄目なようですね。急に倒れたので気力でも尽きたのかと思いましたが……これは少々、違うようです」
男の声と共に、今度は聞いたことのない女の声。
「手荒く扱ったんじゃない?下手に貴方が頭を殴れば、守護者でも脳に影響があるかもしれないわ」
「酷いですね、僕は一切手出ししてませんよ。"倒れる直前は"」
ヴェルの耳に入る声は純粋な”音”だけだ。相手が何かを言っていることは分かるが、その内容は雲を掴むように朧気で意味のある言葉として届かない。
しばらく男女がなにやら言葉を交わしているのを頭の片隅だけで捉えながら、ヴェルは使い物にならない脳をなんとか巡らせてここに至る直前の経緯に思考を馳せる。
どうしてこんなに頭が重いのか。
どうしてこんなに吐き気がするのか。
そうして、泥のような意識の中からひとつの答えだけが弾き出された。
───特定因子欠損症。
そうだ、と連鎖的に思い出すのは姉の顔だ。
彼女は大丈夫なのだろうか。自分と同じように飲んでいる薬だ。まさか、同じように発作が起こっていたりしないだろうか。
「……シ、……リス」
ヴェルの声に、真っ先に反応したのは女の方だった。
「ぅ……つっ……」
頬を掴まれる感覚。
無遠慮に顔をあげさせられた振動で、さらに激しくなった頭痛にヴェルが呻き声を上げた。けれど女はお構いなしで彼の頬を掴む手に力を籠める。
残念ながらヴェルの視界はまだ焦点が合わない所為で、女の様子をしっかりと把握する事が出来ないでいる。ただ、その声は案外上からではなく真正面から聞こえていた。
「貴方……」
「い、て……」
「そう、その顔───面影があるわ。貴方だったのね……」
震える声。まるで、歓喜に打ち震えているかのような。そのくせ、ヴェルの頬を掴む力は次第に痛みを伴うほどに強くなっていく。
「貴女の握力で掴んでは彼の顔が潰れてしまいますよ」
「……あぁ、そうね。……つい感極まってしまって」
耐えがたいほどの力に顎の骨が軋み始めた頃。
男の静止で、あっさりと女の手が離れた。支えの無くなったヴェルの頭部は重力に従って下を向き、その衝撃がまた頭痛を助長させた。ただでさえ気怠いのだ。もはや、ヴェルには呻く気力すらない。
「彼とお知り合いなんですか?」
「ある意味そうといえるわ。それより、この子薬か何か持ってなかった?」
「見てませんねぇ。一応、干してあった服も全部持っては来てますが」
「確認してちょうだい、予備薬くらいは持っているはずよ。今のままだと碌にお話も出来ないもの」
またも男と女の話し声。次はヴェルの横側でなにやら衣擦れの音も聞こえてくる。
「あ、本当にありました。何の薬ですか、これ?」
「特定因子欠損症。といっても症状緩和の薬だから鎮痛と制吐作用程度だと思うわ」
「へぇ、これが……」
再び、頬を掴まれる。無理やりに上げられた口元に何かが押し込まれ、次いで息もつかぬ間にぬるい液体が喉に流れ込んでくる。
そもそも吐き気がある状態だ。口の中に強引に流し込まれれば吐き出してしまうのも自明の理だ。しかし、それを許さないといわんばかりに口元を何かが覆った。
「飲みなさい」
耳元で響く女の声には有無を言わさぬ迫力があった。
「飲み込みなさい。体が辛いままは嫌でしょう?それに私、貴方とお話ししたくてたまらないの」
ぐ、と口元の圧迫感が増して鼻まで覆う。恐らくそれは手のひらだ。
ヴェルが吐き出さないようにと押さえつけられた手の圧は強く、抗うことが出来ない。段々と苦しくなってきた呼吸に、とうとう身体は素直に口の中のモノを胃液とともに飲み込むことにしたらしい。
一瞬、嘔気の波が引いて異物感が喉を滑り降りていく。
「気分はどうです?マシになりました?
徐々に視界にかかる霧が晴れて景色が現実感を取り戻していく。相変わらず暗いのは視界の問題だけでなく、今いる薬品庫のような部屋の明かりが乏しいのもあるだろう。
頭痛は軽減し、せり上がってくる吐物感も落ち着いて確かに身体の辛さはマシになっていた。
もっとも動けるかはまた別で、神経が上手く繋がっていないような歯痒さに苛立ちが募る。同時に、倦怠感の残滓と目の前の人物への嫌悪でヴェルの気分は最悪だった。
「クソ悪ぃ、に、決まってんだろ……」
「目に光が戻りましたねぇ。元気になったようで良かったです」
殴りかかれるものならそうしていたかもしれない。しかしそこでようやくヴェルは自らの身体の重さが倦怠感だけによるものでない事に気が付いた。
腕が、椅子の手すりに固定されている。ベルトのような太い拘束具は両の手首と肘を押さえつけ、満足に動くのは指先だけだ。足が重いのも、おそらく同様に固定されているのだろう。
せめて最大限の敵意を込めてヘイを睨みつけるが、やはり彼はどこ吹く風でヴェルの怒りなどものともしていない。
「シルヴィアはどこだ……っ!?」
「忘れていなかったんですね。別の名前を呼んでいたので、てっきり彼女の事なんてどうでもよくなってしまったのかと」
「御託はいいんだよ、どこだって聞いてんだろ!」
曖昧な記憶の中で確かに姉を呼んだ気はするが、それは自分の症状と重ねた故に仕方がない。だが姉の元には彼女のことをよく知ってる友人たちもいるのだ、心配せずとも大事には至らない……と、そう思いたい。
それよりも、今は自分とともに崖下に落ち万全でないはずの状態でヘイたちと接敵したシルヴィアだ。ヴェルを置いて逃げていてくれればいいのだが、目の前の男が浮かべる嫌な笑みはそんな希望を嘲笑うかのようで。
「勿論、ここにいますよ。貴方のことを心配していたようですから、あの場に捨て置くのも可哀想でしょう?」
純粋に好意的な感情というよりも、面白い玩具に対するような軽薄さ。ヘイの言う「気に入ってる」からはそんな感情がありありと感じられた。
そして彼がヴェルに向ける視線もまた同じもののように感じられて、さらなる苛立ちを誘った。
「お連れするまでにかなり暴れてくださったので大変でしたよ、彼女が万全の体調でなかったことが幸いでした。いやはや5、6人ほどこちらの人員が骨を折りましたが……今頃はよくお眠りになられているかもしれません」
「眠ってる、だと?」
ヴェルの脳裏に、当初、自身も誘拐されかけた記憶が蘇る。
あの甘い香りと刺激臭、奥に感じた薬品臭さ。何をとっても不快なにおいだったが、ひとつ、気になることがあった。
「てめぇ、子どもの飲みもんに何か混ぜてやがったな?」
「お気付きになられました?」
「いま気付いた自分をぶん殴りてぇくらいだよ。苺っていうから果物の匂いかと思ったけど……あの薬かなんかと同じにおいがしやがる」
思えば気付けるポイントはあったのだ。
嗅ぎ分けができるほど、獣人並みの大層な鼻を持っているわけではない。それでも、鼻の奥に残るようなあの甘さを見逃してしまったことがヴェルには悔しくてたまらなかった。
くふくふとヘイが含み笑いを漏らす。薄らと開いた金の双眸は、仕掛けた落とし穴にヒトが落ちたのを心から楽しむような無邪気さと残忍さに満ち満ちていた。
「ヴェルさんの捕縛を失敗したと報告を受けてから、いつ気付かれるだろうとドキドキしていました。"飲むな"とか言われると困っちゃいますのでね、僕の毒は警戒を持つ相手には効きづらいですから」
「どく……?」
「おや?あの出来損ないの同族もどきに聞いてませんでした?僕たち蛇鱗人が、個々それぞれで毒を持っているという話を」
確かに死んだ蛇鱗人の男は"毒"の話をしていた。
畳み掛けるような訴えだった。全てを仔細に覚えているわけではないが、男の言ったように蛇鱗人全てが"毒"を持っているとするのならば、目の前のヘイもそうなのだろう。
「わりと使い勝手が悪いんですよ。においも味も、警戒心が強くて敏感な種族に使うには苦労する───」
「ヘイ、答え合わせの問答は後にしてちょうだい。貴方、散々この子で遊んだんでしょう?そろそろ変わってほしいわ」
「あぁ、すみません。つい推理小説の犯人の気分になってしまいました」
謝罪を口にはするものの、悪びれる様子もないヘイ。彼が身をどけることで、影に隠れていた女がようやくヴェルにも見えるようになる。
露わになったその姿の意外さに、ヴェルは一瞬目を見開いた。
ゆっくりと一歩、ヴェルに近付いたのは1人の少女だった。
「子ども……?」
「あら、侮りではなく褒め言葉として受け取ればいい?」
座った状態のヴェルよりもさらに低い背丈は、むしろ幼女と言っても過言はないかもしれない。ただ、深い沼のようなくすんだ藍色の髪をかき上げて見えた顔は、幼いと一概に言うことが出来なかった。なぜなら、女の顔はヴェルの知る一般的な造形とは一線を画していたからだ。
死体よりもなお色の悪い、青紫の肌。血が通っていないということではないだろう、現にヴェルの頬を握り潰さんとした手は生きた温もりを感じさせていた。
明らかに普段見ることのない肌の色。けれどそれよりも目を引くのは形状し難いほどに大きな瞳だ。
口などはヴェルやヘイのそれと変わらないのに、鼻がない。代わりに、中心に位置する紫紺の瞳は顔半分を占めるほどに大きく、ひとつしかなかった。
二の句を継げないでいたヴェルを見て女は笑みを浮かべる……穏やかに、幼い子どもを相手にするかのように。
「一応、はじめましての体で自己紹介をしておきましょうか。私はサーヒラ。単眼鬼のサーヒラよ」
「……体も何も、お前の事なんざ知るかよ」
「ふふふ、そんなつれないこと言わないで仲良くしましょ?」
投げつけられる辛辣さなどお構いなしに、サーヒラと名乗った女の指がヴェルの頬を撫でる。次は握り潰すような荒々しいものではなく、赤子に触れるかのような繊細で柔らかな触れ方だった。なのにどうしてか怖気がするほどに刺々しさを感じる。
男性らしく丸みのない頬を下から上になぞる指が、自身を睨みつける翡翠の隣でぴたりと止まった。
「そうよね、そう、この色」
そのまま、横に滑って髪をひとふさ掬い上げる。
「この色だった……」
哀愁。
言うなれば、そんな声音。
大きなひとつ目を細めてサーヒラがヴェルの瞳を覗き込む。濁った紫紺の中心、瞳孔の深い深い黒に吸い込まれそうに感じてヴェルは思わず目を逸らした。
「───さっきも言ったけど貴方とお話がしたいのよ。私とお話をしてくれるなら、まずはあの女の子を解放してあげてもいいわ」
「ええ……シルヴィアさんをお連れしたのは僕なのですが……」
「構わないでしょ?あの子の部屋に封を施しているのは私よ。文句があるなら、貴方だけで管理できるように手足くらい折っときなさいな」
世間話の延長かと思うくらい淡々と提示された恐ろしい案に、逸らしたはずの顔をすぐに戻す。眼前の女は無慈悲に笑うわけでもなく、かといってヴェルを焚き付ける風でもない。純粋にひとつの提案としてヘイに「骨を折れ」と言っているのだ。
そして存外、それに抵抗を示したのはヘイだった。
「そこまで手荒な真似はしませんよ。言ったじゃないですか。僕、彼女のことは結構気に入ってるんです」
「意外だわ。貴方って虫の翅を捥ぐのが好きじゃなかった?」
「比喩ですよ。物理的に手を加えるのは最終手段です」
「呆れたこと」
聞くに耐えないやりとりではあるが、どうやらシルヴィアに大きな怪我は無いようで心底安心した。少なくとも、直ぐに危害を加えられるという心配もなさそうだ。
不満げに口を尖らせてはいるものの、ヘイはこれ以上反論をする気はないらしい。サーヒラもまた、彼に何か言うこともなかった。
「聞いていたでしょう?彼女が今後も無事でいられるかは貴方の態度にかかっているの。だから目を見て話しましょう。コミュニケーションの基本なのだから」
シルヴィアを引き合いに出されると否が応でも応えねばならない気になってしまう。彼女らが自身の言葉にどこまで責任を持つつもりかは知らないが、動かないヴェルにはその提案に応じるほかないのだ。
瞳孔の奥まで覗き込めそうな大きな瞳が、ヴェルの翡翠を深く深く射抜く。居心地が悪いほどの凝視から目を逸らすことは、もう許されなかった。