最終話 「声にする、木曜日」
── 前話のあらすじ ──
第十一話「木曜日の、いつもの放送室で」
文化祭から一週間。いつもの木曜日に戻った二人。今日の雲を「羊」と、初めて同時に同じ答えを言った。
ハルは「なぜ放送部に入ったか」を問われ、「ソラさんがいたから。声が聞いてみたかった」と答えた。ソラは「来てくれてありがとう」と言った。
帰り際、ソラは「来週の木曜日、話したいことがある」と言った。「準備ができてないから今日は言えない」と。ハルも「準備をしようと思った」と心に決めた。
夕空に飛行機雲が一筋。木曜日まで、あと六日。
最終話「声にする、木曜日」
木曜日の朝、ハルは空を見た。
雲が多かった。でも、晴れていた。
風が少しあって、雲がゆっくり動いていた。今日の雲は——まだ決まっていなかった。
ハルは歩きながら考えた。
今日、ソラが話したいことを言う。
今日、ハルも声にしようと思っている。
どちらが先になるかはわからない。でも——どちらが先でも、ちゃんと聞く。ちゃんと言う。
それだけ決めて、ハルは学校に向かった。
* * *
放課後、ケンジが廊下でハルを捕まえた。
「今日だろ」
「何がですか」
「とぼけるな。雨宮さんが話したいことがあるって言ってた日」
「そうです」
「お前は? 準備できてるか」
「できています」
ケンジは三秒ハルを見た。それから、肩をぽんと叩いた。
「……行ってこい」
「はい」
「うまくいっても、いかなくても、報告しろよ」
「します。絶対に」
ケンジは笑って先に行った。
ハルは旧棟へ向かった。廊下がきゅうきゅう鳴った。いつも通りだった。でも今日は、少し違う気がした。
* * *
放送室のドアを開けた。
ソラがいた。
でも今日は、窓際ではなかった。
ドアの正面、机の前に立って、ハルを待っていた。
「来た」
「来ました」
ハルは部屋に入った。ドアを閉めた。
ソラは真っ直ぐハルを見ていた。いつもの無表情だった。でも——耳が、少し赤かった。
「コーヒー、まだ入れてない」
「わかりました」
「……その前に、言う」
「はい」
ソラは一回、深く息を吸った。
マイクの前でそうするように。放送を始めるときと、同じ顔で。
「……ハル」
「はい」
「あなたのこと、好きだと思う」
部屋が、静かになった。
「最初は——変なやつだと思ってた。幽霊とか言うし、蟻の話するし、自販機にぶつかりそうになるし」
「ぶつかりませんでした」
「ケンジさんが止めたんでしょ」
「……そうです」
ソラは続けた。
「でも——毎日来てくれた。何も言わず隣にいてくれた。テープを一緒に聴いてくれた。声にすることを怖がってた私に、声にしたらいいって、言葉じゃなくて隣で示してくれた」
ソラの声は、震えていなかった。でも、いつもより少し低くて、ゆっくりだった。
「……放送室に来るのが、楽しくなってた。あなたが来ると思うと、早く来たくなってた。帰りたくなくなってた」
間があった。
「声にしないと残らないって——あなたから教わったことだから。だから言う」
ソラはまっすぐ、ハルを見た。
「好きです。朝倉ハル」
* * *
ハルはしばらく、ソラを見ていた。
三秒。五秒。
ソラの耳が、どんどん赤くなっていった。
「……何か言って」
「言います」
「今すぐ」
ハルは一回、息を吸った。ソラと同じように。
「私も、好きです」
ソラが、目を丸くした。
「……それだけ?」
「それだけです」
「もっと言うことないの」
「あります。でも一番大事なことを先に言いました」
ソラはしばらくハルを見た。それから、ゆっくり息を吐いた。
「……続き、聞かせて」
「はい」
ハルは少し考えた。
「最初に声を聞いたとき——幽霊みたいだと思った。でも喋ったら、ちゃんとそこにいる人だとわかった。静かで、でも何かを抱えていて、でもそれをちゃんと持っている人だと思った」
「……ちゃんと持ってる、って?」
「逃げてなかった。ここに来続けてた。それは、ちゃんと持ってることだと思います」
ソラは何も言わなかった。
「テープを聴いたとき——ソラさんの声と、お父さんの声を聞いて、この人の声をもっと聴きたいと思いました。ずっと聴いていたいと思いました」
「……ずっと?」
「ずっと」
ソラは少し目を伏せた。
「……ずるい」
「何がですか」
「そういうこと、もっと早く言ってくれたらよかったのに」
「ソラさんも同じです」
ソラは少し笑った。「そうね」と言った。
* * *
二人でコーヒーを入れた。いつも通り、向かい合って飲んだ。
でも今日は、少し違った。同じなのに、全部が少し明るかった。
「放送、する?」とソラが聞いた。
「しましょう」
「今日の雲、何に見える?」
ハルは窓の外を見た。大きくて白い、のんびりした雲が流れていた。
「犬に見えます。大きい、のんびりした犬」
ソラは窓を見た。「……確かに」と言った。
ソラはミキサーの前に座った。ハルはマイクの前に座った。
スライダーが上がった。
「ON AIR」のランプが、灯った。
赤い光が、部屋に満ちた。
「こんにちは、深夜三時のラジオです」
ソラの声が、今日も流れた。
* * *
放送が終わった後、廊下から拍手が届いた。
ドアを開けると、二十人近くが並んでいた。一番前にケンジがいた。
ケンジはハルを見た。ハルは小さく頷いた。
ケンジは三秒固まって、満面の笑みになった。「よかったな」とだけ言って、人混みに消えた。
ソラがハルに小声で聞いた。「……何がよかったの、田中くん」
「ソラさんが想像してる通りのことだと思います」
ソラは三秒ハルを見て、耳を赤くした。「……ばれてたの」
「ケンジには。私には最近なんとなく」
「なんとなく、って」
「帰り際に来週も来る? って聞いてくれたので」
ソラはため息をついた。「……わかりやすかった」
「私も、蟻のことを考えるのをやめた、というのが」
ソラはしばらくハルを見て——声を出して笑った。
初めて聞く笑い声だった。小さくて、少し照れたような笑い声だった。
ハルは、ああ、これだ、と思った。この声を、ずっと聴いていたかった。
* * *
夕暮れの帰り道、二人で並んで歩いた。
「ソラさん、この方向ですか」
「……遠回りしてる」
「私も、なんとなくこちらに来ました」
「……知ってた」
二人で笑った。
「今日の雲、最終的に何に見えた?」とソラが聞いた。
「ずっと犬でした。のんびりした犬」
「私は——途中から、別のものに見えてきた」
「何ですか」
ソラは少し間を置いた。
「……二人みたいに見えてきた。並んでる、二つの雲。大きさが違うけど、同じ方向に流れてる」
ハルは空を見上げた。雲は、もう形が変わっていた。でも——二人が並んで歩いているのは、変わらなかった。
「……いい見え方ですね」
「そう?」
「そう思います」
ソラは笑った。今日二度目の笑い声だった。
ハルはまた、ああ、これだ、と思った。何度聴いても、そう思うのだろう。きっとずっと。
* * *
その夜、ハルは日記を開いた。
今日の雲の欄には「犬、のち、二人」と書いた。
今日気になったことの欄には、迷わず書いた。
「声にした。ちゃんと届いた。」
「ソラさんの声も、届いた。」
「声は、消えない。」
ハルはノートを閉じた。窓の外に星が見えた。
蟻は夢を見るのだろうか——と思いかけて、今日はやめた。
木曜日が、また来る。放送室に、また行く。ソラがいる。
それだけで、十分だった。それだけで、十分すぎた。
── エピローグ ──
翌週の木曜日。
旧棟の廊下に、二十三人が並んでいた。
きゅうきゅう鳴る床板の音がして、放送室のドアが開いた。スライダーが上がる音がした。「ON AIR」のランプが灯った。
「こんにちは、深夜三時のラジオです」
ソラの声が、廊下に流れた。
「今日の雲は——」
ハルの声が、続いた。
「おじいさんみたいに見えます。ゆっくりで、でもちゃんと進んでる」
「……私には、笑ってるように見えた」
「笑ってるおじいさんですね」
「そう」
廊下で、誰かがくすりと笑った。その笑い声が、また別の誰かに伝わった。
声は、消えない。届いた先で、また誰かの声になる。
旧棟の古い放送室から、今日も声が流れた。
「ON AIR」のランプは、赤く、静かに、灯り続けた。
── 了 ──
「きみの周波数が聞こえない」
全十二話・完




