34.到着、そして不穏
春のお茶会から、二ヶ月が過ぎていた。
今日は、お父様とお母様が暮らすラングフォードの領地へ向かう日だ。
本来ならレオナール様も同行する予定だったのだけれど、どうしても外せない仕事が入ってしまい、今回はお兄様一家と一緒に向かうことになった。
「……本当に、気を付けて」
出立を前に、レオナール様はそう言って私の前に屈み、外套の留め具を丁寧に整えてくれた。
「領地までは遠くないとはいえ、無理はしないで。寒かったらすぐ膝掛けを使うんだ。馬車酔いも——」
「大丈夫ですわ。レオナール様」
くすっと笑ってそう言うと、彼は一瞬言葉に詰まり、それから困ったように眉を下げた。
その様子を見ていた子供たちが、ひそひそと囁き合っているのが見えたけれど、レオナール様はまったく気にした様子もなく、最後にもう一度、私の手を両手で包み込んだ。
領地はそれほど遠くはない。早朝に出発すれば、途中で休憩を挟んでも夕刻には到着できる距離だ。
「ラングフォード子爵、どうぞよろしくお願いします」
「ああ、アイラたちは任せてくれ」
そう言ってお兄様に向き直った彼の声は、先ほどまでとは打って変わって落ち着いている。
簡潔な挨拶が交わされる傍らで、子供たちは落ち着きなく馬車の周りを行き来していた。遠出と聞いて、朝から興奮が抑えきれない様子だ。長旅というほどではないが、子供たちにとっては立派な冒険である。
エルドリックがティアナにお願いをしている。
「お母様、子供たち同士で馬車に乗ってもいい?」
「だめよ。あなたたちは私と一緒。ラルとリズはアイラと一緒よ」
「えー、つまんない」
「大人も一緒じゃないと危ないわ」
「お兄様、わがままを言ってはいけません。どうせあちらではたくさん遊ぶのだから、1日位我慢してくださいませ」
ティアナとエレナの諭すような言葉に、エルドリックは一瞬口を尖らせたものの、すぐに納得したように頷いた。
「うん、わかった……。じゃあ、ラルとリズ、休憩で止まったときに。またな」
そう言って手を振り、軽やかに馬車へと乗り込んでいく。その後ろ姿を見送りながら、私たちも自分たちの馬車へ向かった。
「お馬さん! 私も乗れる?」
目を輝かせるリズに、小さく笑って首を振った。
「リズはまだ早いわね。お母様、馬に乗れるからリズも一緒に乗せてあげるわ」
「え? お母様、馬に乗れるの?」
ラルが驚いた顔をする。
「ええ、乗れるわよ。小さな頃から大得意。よかったら、ラル、一緒に遠乗りしましょうね」
「やったー! 楽しみ」
弾む声が馬車の中に広がる。私はその様子を眺めながら、ふと引っかかるものを覚えた。
ララは、乗らなかったのかしら。
少なくとも、日記には特に書かれていなかった。
春のお茶会の後、辺境伯夫人に関する日記はすべて読み返した。
残すところ、あと三分の一ほど。暖かくなってしまい、暖炉で燃やすことができなくなったから、今は一枚一枚、ろうそくの火で処分している。時間はかかるけれど、それでも構わないわ。
手間がかかっても、この世から完全に消してしまいたい。
『コリンを私から奪いたいのなら、正々堂々剣で勝負しなさい』
日記に書いていたディアーヌ・ライクスバートの言葉。
王太子妃殿下の言葉を思い出し、思わず苦笑が漏れた。脳筋ってこういうことなのね、と。
さすがに剣は握ったことすらない。同じ台詞を言われたらどうしよう。
剣が好きなのかもしれないと、商会長に良い剣がないか探してもらってはいるけれど、どうなることやら。
けれど、王太子妃殿下は秋とおっしゃっていた。まだ時間はある。今は焦る必要はないわね。
気がつけば、子供たちはすっかり眠り込んでいた。昨日は楽しみすぎてなかなか寝付けなかったと、ルーシーたちが言っていた。今朝も早起きだったのだから、当然ね。
規則正しい寝息が重なり、馬車の中は穏やかな静けさに包まれていた。
途中、いくつかの街に立ち寄り、休憩を挟みながら進んだ馬車は、日が暮れ始める頃にようやく領地へと到着した。
夕焼けに染まる空の下、門の前にはお父様とお母様が並んで立っている。その姿を認めた瞬間、長旅の疲れがふっと和らいだ。
馬車が止まり、順に降り立つ。
「おお、みんなよく来た」
満面の笑みで迎えてくれるお父様は、心から嬉しそうだ。
「さぁ、疲れたでしょう。早く中に入りましょう」
その言葉を合図にしたかのように、子供たち三人は競うようにお父様とお母様のもとへ駆け寄り、飛びつく勢いで甘え始める。
一方でリズはというと、予想通りだった。
人見知りが顔を出し、私の後ろに隠れるようにもじもじしている。
「ほら、あの二人は私のお父様とお母様よ。リズのお祖父様と、お祖母様」
「おじいさま……おばあさま?」
不安そうに確認するような声。
「そう。あとでちゃんとご挨拶しましょうね」
「はい」
小さく頷いたリズの手を引きながら、私たちは邸の中へと入った。
*****
夕食を終え、食後のお茶を楽しむ時間になる。
「それにしても、二人が仲直りしてくれて、本当に嬉しいよ」
しみじみとした口調で、お父様が言った。
「そうね。こんなふうに集まれる日が来るなんて、思ってもみなかったわ。孫も勢ぞろいで」
お母様の声には、感慨がにじんでいる。
先ほどまで人見知りをしていたリズは、いつの間にか安心したらしく、もうお母様の膝の上でうとうとしていた。
ふと周りを見ると、他の子供たちも皆、目をこすりながら舟を漕いでいる。
「寝不足と疲れね。子供たちは、もう部屋に行って寝かしつけましょう」
「そうね。それがいいわ」
ティアナと顔を見合わせ、私たちは子供たちを連れて部屋を出た。
子供たちをそれぞれの部屋へ連れて行く。
まずはリズの部屋だ。慣れない場所に少し不安そうだったけれど、ベッドに横になると、長い一日の疲れが勝ったのだろう。私が髪を撫で、静かに子守歌を口ずさむうちに、すぐに小さな寝息が聞こえ始めた。
次に、ラルの部屋に行く。布団を整え、額にそっと口づけるだけで、あっという間に眠りに落ちていく。
「本当に、今日はよく頑張ったわね」
小さく呟き、燭台の灯りを落として静かに扉を閉めた。
ティアナと合流し、皆が待つ部屋へと戻る。部屋に足を踏み入れた瞬間、お兄様が何とも言えない表情でこちらを見ているのに気づいた。
……どうしたのかしら?
「お兄様、何の話をしていたのです?」
「いや、それが……その……父上に聞いてくれ」
「お父様?」
首を傾げた私に、お父様はきょとんとした顔を向ける。
「ん? 変な話はしてないぞ。明日、辺境伯夫人が来ると言っただけだ」
――え?
「辺境伯夫人って、まさか……ディアーヌ・ライクスバート辺境伯夫人のことですか?」
「何を不思議なことを聞いている。辺境伯夫人は一人しかいないだろう」
「……何をしに?」
「ああ、馬の様子を見に来るんだ。ラルたちの小馬は辺境伯領から買ったんだ。あの夫人がわざわざ育てていた馬だそうだから、診察がてら来てくださるそうだ」
わざわざ?
私が来た、このタイミングで?
意図的? それとも偶然?
すっかり油断していた。まだ会うのは先の話だとばかり思っていたのに。
「辺境伯領からは、遠いでしょう」
「そうだな。だが、一人で馬を飛ばしてくるから問題ない、と手紙が来た。到着は明日だ」
……確かに。剣の決闘を挑もうというくらいなのだから、自分の身は自分で守れる人なのでしょうね。
「お父様……恨みますわよ」
思わず、低い声が漏れる。
なぜ、よりによって辺境伯領から馬をお買いになったのか。
「な、何でだ? 怖いんだが。説明をしてくれ」
問い返されても、答える気力は残っていない。口から出るのは、ため息ばかりだ。
旅の疲れに加え、精神的な消耗が一気に押し寄せてくる。
……もう、今日は部屋に戻って寝ましょう。
お父様への詳しい説明は、お兄様に任せることにした。




