33.貴婦人たちのチェックメイト
僅差で負けた。決して手は抜いていない。
むしろずっと僅差で負けた状態で進むことに、途中から恐怖すら覚えていた。
そんなことがある? 間違いなく、意図的に流れを操っていたに違いない。
「対戦、ありがとうございました。それでは、お気に召していただけるか分かりませんが、新しいボードゲームをお持ちいたしましたので、ご覧になっていただけますか?」
気を取り直し、用意していた箱をメリッサから受け取り、差し出す。
「もちろんよ! 今日はそれを楽しみにここに来たのだから」
控えていた王宮の侍女が静かに動き、テーブルの中央に新しい盤と駒が置かれた。私はその駒を配置に付ける。
2人が、思わず身を乗り出す。
「美しい駒ね。リバーシと違ってひっくり返すものじゃないのね」
「これは盤を進むものかしら?」
光を受けて艶めく白と黒の駒が、整然と並んでいる。
「おっしゃる通りでございます。こちらがルールをまとめた冊子になっておりますので、ご覧ください」
アーガントン侯爵夫人は、差し出した冊子を受け取る。ページをめくる指先が迷いなく進む。
「なるほどね、面白いわ。大体理解したから、とりあえずやってみましょう、アイラ」
大体理解した? 早くないかしら?
心の中で小さく呟く間もなく、対戦は始まった。盤上では駒が次々と動かされ、アーガントン侯爵夫人は冊子を片手に、ときおり笑みを浮かべながら手を進めていく。
「駒の動きは激しく、油断すれば一瞬で形勢が崩れる。まるで容赦のない戦場に放り込まれた気分よ」
低く唸るその声には、純粋な興奮が滲んでいた。
「確かに、それに同じ展開が繰り返されることはなさそうね」
王太子妃殿下が、盤から視線を離さずに言う。
「ええ。ほぼ同じ局面にはならないと言われています。そしてアーガントン侯爵夫人、“チェックメイト”です」
告げた瞬間、盤上は静止した。勝ってしまったが、これは不可抗力だ。
初見の相手に負ければ、かえって不自然だろう。手を抜くな、と言われてもいた。
だ、大丈夫、のはず……。
「攻撃されて逃げられないキングの姿。少し愉快ね。あら、不敬だったかしら、“王太子妃殿下”?」
「まあ、ミレイユ。ゲームの話でしょう? 問題ないわ」
即座に返される言葉に、場の空気が和らいだ気がしたがーー。
……これは、笑っていい会話なのかしら。まだ私には判断が付かない。作る表情に困るわ。
「これはいいわね。先を読まなくてはいけない戦略。後戻りできない判断力。政治的だわ。優柔不断なセルジュにやらせて特訓するのもありね」
やはりセルジュ・アーガントン様は優柔不断なのね。
「それじゃあ、私も覚えて王太子殿下とやってみるわ。あの人、後先考えないところがあるから」
そんな気がしていました。お会いしたことは私、ありませんけど。
「良いものを作ったわアイラ。これは貴族に売れるわよ。私も広げるからあなたの商会に言っておきなさい。これから忙しくなるって」
アーガントン侯爵夫人の言葉に、小さく拳を握る。よし、お墨付きが増えた。
「部屋に飾っておくだけでも素敵よね。私も、贈り物に使いたいからいくつか注文するわ。すぐ準備してくれる?」
「はい、もちろんでございます、王太子妃殿下」
その後は、2人が対戦するのを横で指導しながら、穏やかな時間が流れた。駒の触れ合う音と、時折交わされる感嘆の声が、心地よく耳に残る。
「王太子妃殿下そろそろお時間です」
侍女長が、礼を崩さぬままそっと声をかける。
「え?もうそんな時間、夢中になっていたわ」
「本当ね。ああ、なごり惜しいわ」
大きなミスなく切り抜けられた、という確かな手応えがあった。
挨拶をして帰ろうと席を立った、そのときだ。ふとした会話の切れ間に、あまり聞きたくなかった予言めいた言葉が、耳に入り込んできた。
「次は、ディアーヌ・ライクスバートよ、アイラ」
「私たちと違って脳筋だから。頑張ってね」
軽く笑いながら告げられた名前に、胸の奥が小さくざわめいた。
何を頑張ればいいのだろう。むしろ、努力すれば何とかなる相手だというのなら、それに越したことはないのだけれど。
「いつ、お会いすることになるでしょう?」
慎重に問いかけると、二人は顔を見合わせる。
「そうね、私たちもめったに会えないのよね。辺境伯領だから」
「早くて、王家主催の秋の夜会かしら」
豊穣を感謝する夜会。その言葉に、心の中でそっと息を吐く。助かった。少なくとも、今すぐ備えなければならない事態ではない。じゃあ、まだしばらく考えなくていい……。
「アイラ、今度は絶対勝つわ。あなたも私に負けないように、ちゃんと練習しておくのよ」
冗談めかした口調の裏に、本気が透けて見える。
「また3人で会いましょう。今度は直接あなたに招待状送るわ」
「お待ちしております」
そう答えながら、口元に浮かべた笑顔が不自然でないか、内心で確かめる。
ああ、無事に生き延びた。
庭園に出ると、空気が一段軽く感じられる。
「メリッサ、あなたもお疲れ様」
居るだけで精神が削れるでしょう。
「いえ、奥様ほどではございません。帰ったらハーブのお風呂を準備いたします」
「ペパーミントがいいわね」
「そういたしましょう」
整えられた小径を辿り、門へと向かって歩く。あの角を曲がったら、きっと……。
「アイラ、偶然だね。私も今ちょうど帰るところなんだ。一緒に帰ろう」
やっぱりいた。レオナール様だ。
門柱の影に立ちながら、いかにも“たまたま通りかかりました”という顔をしている。
この前、怒っていないと伝えたはずなのに。待っていたことを責められると思ったのだろうか。今日は偶然を装っているらしい。
「ふふ、レオナール様、私のために待っていて下さったのですよね。嬉しいです。さぁ、帰りましょう」
そう言うと、彼の表情が分かりやすく変わった。不安げに強張っていた顔が、明るくなる。
「そうだね、帰ろう」
小さく零れた安堵の声。そのまま自然な仕草で私の隣に立ち、歩調を合わせてくる。少し近いけれど、離れる気配はない。
先ほどまで変に気を遣っていたせいだろうか。この屈託のない笑顔と雰囲気に、つい気が緩む。
本当に、分かりやすい方。言葉の裏を読まなくてもよくて、ほっとする。
「寒くない? 風、少し冷たいね」
そう言って、さりげなく私の外套の袖口を整える指先は、とても大切なものに触れるみたいに慎重だった。




