28.秘密の負け方レッスン
「つ、強いね、アイラ」
レオナール様が目を瞬かせながら苦笑する。その視線は盤面よりも、どこか楽しげに私の手元を追っていた。
午後の日差しが差し込む部屋で、簡易の卓を挟んで向かい合うふたりの前には、先ほどまで激しく動き回っていた白黒たちが静かに並んでいた。
ララの記憶にあったゲームのルールとは少し違っていたけれど、実際にやってみれば問題なく対応できた。――むしろ、圧勝だったわ。
……いや、侯爵夫人に圧勝したらまずい。絶妙な差で負ける技術を身につけなければ。
「たまたまですわ。レオナール様が手加減してくださったのでしょう? もう一度お願いしますわ」
そう言うと、彼は少し困ったように、けれど嬉しさを隠しきれない柔らかさを浮かべて笑った。
「いいよ」
レオナールは、どこか嬉しそうに目を細めて頷いた。
ご機嫌なのが隠しきれない。勝負そのものより、私と向かい合っている時間が楽しいと言わんばかりだ。
今度こそ、自然に負けるための“ぎりぎりのライン”を探らなければ。
感情の流れを読み、手癖を観察し、相手の喜びを壊さない絶妙な配置を計算しながら、そっと駒を進めていく。
その間も、彼の視線は終始穏やかで、私が一手置くたびに微かに表情が緩むのが分かった。
そして結果は、僅差で私の負け。
「惜しかったね、アイラ。でも今日が初めてとは、思えないほど上手だよ」
微塵も疑っていない。その言葉に、社交辞令の色はない。
でも……意外と難しいわね。相手によって癖も違うし、感情の揺れも考慮する必要があるだろう。これは本格的に、いろいろな人と練習したほうが良いかもしれない。
「やはり負けてしまいましたわ。もう少し練習したら、また対戦していただけますか」
「もちろん、受けて立つよ」
レオナールは弾む声でそう言い、嬉しさを隠さない笑顔をこちらへ向けた。
ふと、彼は思い出したように視線を上げ、別の話題を口にした。陽光を受けた笑顔はどこか弾んでいて、これから話すことを楽しみにしているのがすぐに分かる。
「そうだ、アイラ、結婚式はどうする?」
「結婚式ですか?」
問い返すと、レオナールは照れたように視線を落とし、手元の駒を指でころころ転がした。
「僕は春がいいけど、春だとドレスが間に合わないかな」
ぽつりとした言い方だが、声には期待がにじんでいる。
「そうですわね。春は例のお茶会が予定されていますし、夏は領地に……その後はラルの誕生日、そのうちにリズの誕生日もございますし」
自分で並べてみても、ずいぶんと忙しい。
しかし、レオナールは慌てたように両手を上げた。
「まって、まって、そうなったら結婚式ができなくなってしまうよ」
軽く眉を下げて、困ったように笑う。その表情が妙に可愛らしくて、私は思わず頬をゆるめた。
「私は構いませんが」
「わたしが構うよ。ずっと楽しみにしていたんだから。初めての結婚式」
“初めて”
その一言が胸に触れ、思わずまばたきをする。
「初めてなのですか?」
「ああ。前はサインだけして。それに元妻はこっそり幼なじみと街で結婚式を挙げたんだ。知っていたけど、かわいそうだからそっとしておいたんだ」
淡々と語る声は優しいが、横顔には、寂しさが影を落としていた。
「分かりました。やりましょう、結婚式。そうですね……ラルとリズの誕生日の間にやりましょう」
「ああ! そうしよう」
レオナール様がほっと息をつき、心から嬉しそうに微笑む。
ちょうどその時。
「何やっているの?」
ぱたぱたと軽い足音が駆け抜け、小さな影が部屋に飛び込んできた。ラル、続いてリズも後ろから顔を覗かせる。
「あっ! リバーシだ。お母様、僕とやろう」
「あら? わかるの?」
「はい、前、お父様とやったことがあるよ!」
胸を張って言うラルの声は誇らしげで、瞳がきらきら輝いていた。その無邪気な勢いに、レオナール様が嬉しそうに笑う。
向かい合って座ったラルの表情は、喜びも悔しさもくるくると変わる。本当に感情が豊かで、いずれこの子にも「感情を装う方法」など教える必要があるのかと思うと、胸が痛んだ。
「やったあ、ぎりぎり勝った!」
「凄いわ、ラル。負けたけど嬉しいわ」
ぱあと輝くラルの笑顔に、リズの手があがる。
「私もやる!」
「リズにはまだ早くないかしら」
うるうると潤んだ瞳で見上げられる。ああ、こんな顔をされたら――。
「じゃあ、僕とペアでお母様に挑もう。ひっくり返すっていう重要な役割をリズに任せるよ」
「はい!」
ぴんと背筋を伸ばすリズ。
ラルの指示を受けて、頼りない手つきでひっくり返していく。時々まったく違う方向に手を伸ばしてしまうけれど、ラルは困ったように笑うだけで決して怒らない。
えらいわ。
また小さな司令塔が指示を出していく。
ぱちん、と小気味よい音がして、リズの小さな指が最後、ひっくり返した。
それを見たラルが眉を寄せ、首をかしげながら覗き込む。
「リズ、これは勝ったか負けたかわからないね、数えてみよう」
「はい、1,2,3,4? 1,2? 3,4」
途中で順番が混ざってしまって、リズは自信なさげに指をさしながら数え続ける。
そういえば、まだ四までしかしっかり数えられないのよね。ラルが横で一緒に数えている。
「やったリズ、ふたりでお母様に勝ったよ!」
「やったあ!」
弾けるような声とともに、二人はぴょんぴょん跳ねる。
その姿があまりにも愛らしくて、つい笑みがこぼれた。
……それにしても、意外と“僅差で負ける”のが上手くなってきたわ。
相手の喜びも残しつつ、疑われない程度に、自然に、自然に――。ある意味、これも鍛錬といえるかもしれない。
よし。これはもっと練習しておく必要があるわね。
お兄様たちやロバート先生、使用人、それに商会の二人にも協力してもらいましょう。さまざまな癖を読む力がつけば、もっと自然に「負けられる」はずよ。
ふたりが手を繋いでぐるぐる回りながら笑い続けるのを見守りながら、私はそっと息をついた。




