27.帰り道の安堵
王太子妃殿下のハーブ園を、今度見せてもらう約束をした。
殿下は、楽しげにハーブの話を続ける。薬草にも詳しく、薬師たちと共に薬の開発にも力を入れているのだと教えてくれた。
興味深い話のはずなのに、半分も耳に入ってこない。
瞬きひとつ、気を抜けない。常に背筋を正されるような緊張がつきまとう。
「あら、もう時間ね」
柔らかな声で告げられ、ようやく張りつめた空気が緩んだ気がした。
「本日は楽しい時間をありがとうございました」
「次会うときも“アイラ”であることを祈るわ」
「……努力いたします」
口にしたものの、努力で何とかなるのかしら。自分でも心許ない。
「ミレイユ・アーガントンもあなたに会いたいと言っていたわ」
……やっぱり。
ミレイユ・アーガントン。
宰相補佐セルジュ・アーガントンの婚約者……いえ、今は妻だったわね。
「光栄ですわ。できれば、同じく手土産を何か用意したく思いますので、時間を少しいただければと」
すぐには、気持ちが持たない。何とか時間を稼ぎたい。
「ふふ、そうね。もうすぐ春になったら、王宮の庭園に私のお気に入りの花が咲くわ。ガゼボで三人でお茶会なんかいいわね」
春の風景が脳裏に浮かぶ。白いガゼボ、咲きそろう花々、そして緊張で固まる未来の私。
「二、三ヶ月後、ということでしょうか」
「そういうことになるわね。今、彼女も他国に行っているから、その頃帰ってくるし、ちょうどいいわ」
他国? そうだわ、確か結婚しても外交官補佐を続けている才女と聞いた。
花が咲かなければ――温かくなるのが遅くなるよう祈ろう。できれば三ヶ月後。
「王太子妃殿下は、アーガントン侯爵夫人と仲がよろしいのでしたよね?」
「そうよ。エレノア・ライクスバートも」
辺境伯令息コリン・ライクスバートの妻。夫婦そろって辺境伯領を守っていると聞く。
……とりあえず優先すべきは、ミレイユ・アーガントン様だわ。
「その、アーガントン侯爵夫人は、何がお好きでしょうか?」
「そうね。ああ、そうだわ。今、リバーシにはまっていると手紙が来たわ」
リバーシ。ボードゲームね。
確かララが作りたがっていたけれど、他国に似たようなものがすでに存在していたから諦めたと書いていたものだ。
「きっと、あなた、相手させられるわよ。こてんぱんにされないように練習しておくといいわ」
こてんぱん……。
こてんぱんにしたいほどララは一体、アーガントン侯爵夫人に何をしたのだろう。
「教えていただき感謝いたします、王太子妃殿下」
「またね、アイラ」
殿下が軽やかに手を振ると、厚みのある扉が静かに閉じられた。
やっと、終わった。
その安堵を胸に、私は王宮の長い廊下を歩き始めたが、すぐ、王太子妃殿下の言葉が思い出される。
「ふ、ふふふ。……こてんぱんですって、メリッサ」
「奥様、練習、私も付き合います」
助かるわ。
外へ出ると、春の気配を含んだ風がふわりと頬を撫でる。
ああ、まぶしい。
ここまでずっと緊張の中を歩いていたものだから、その風さえも妙に優しく感じられてしまう。
門へ向かうと、視界の端に、見慣れた伯爵家の馬車が停まっているのが見えた。
――あら?
馬車の前に立つ人影は、外の光を背に柔らかく輝いて見えた。
「あ、アイラ。一緒に帰ろうと思って待っていたよ」
レオナール様が、いつもの穏やかさそのままに満面の笑みで手を振っていた。私を見つけた瞬間、その瞳がはっきりと輝き、安堵と喜びが隠しきれない様子で細められる。
その視線を受けた途端、胸の奥に張りついていた硬いものが、ふっとほどけるようだった。
呼吸を取り戻すみたいに、私は一息に大きく息を吐いた。
「レオナール様、お仕事はどうしたのですか?」
安堵のあまり、少し声が震える。
「仕事はちゃんと終わらせてきたよ、急いで」
そう言ってから、私の様子をじっと確かめるように視線を巡らせる。
「ほら、アイラ、朝から緊張しているように見えたから。えっと……怒ってる?」
ほんの少し眉尻を下げて心配そうに尋ねるその表情は、私の小さな変化ひとつも見逃さない人のものだ。
ああ、一息に大きく息を吐いたから、ため息だと思ったのね。声も震えたし、怒っていると思ったのね。
「ふふ、怒っておりませんわ。なんだか今まで息をするのを忘れていたようです。レオナール様の顔を見て安心しました。待っていてくれて、ありがとうございます」
そう告げると、彼はほっとしたように肩の力を抜き、今度は照れたように微笑んだ。
「そうかい? よかった。じゃあ、帰ろう」
差し出された手は、迷いなく、けれどとても大切にするように優しく伸ばされている。
一緒に馬車へ乗り込み、扉が閉まる。
柔らかな揺れが身体を包み、隣にいる彼の気配が、何よりの安心を運んでくる。
馬車はゆっくりと街道を進み、外の景色が窓を流れていく。
夕陽が差し込んで、レオナール様の金の髪がほのかに光を帯びていた。その横顔を見ていると、不思議と落ち着く。
「お茶会はどうだった?」
「なんとか、無事に終わりましたわ。ブレンドティーも気に入ってくださいました」
「それはよかった。頑張った甲斐があったね」
そう言って向けられる微笑みは、労わるようで、誇らしげでもある。
「ええ。でも、次があるようです。今度は王太子妃殿下とアーガントン侯爵夫人と三人だそうで」
そう告げると、レオナール様は驚いたように眉を寄せながら、それでもどこか楽しげに笑った。
「それは……大役だね。でも、君なら大丈夫だ」
「そうだわ、レオナール様。家にリバーシなどありませんよね」
「リバーシ? あるよ。それこそ、アーガントン侯爵夫人が気に入って、他国からいくつか送ってきたと、セルジュがくれたんだ」
なるほど、と胸の中でつぶやく。
「そうなのですね。私、やったことがありませんので、もしよかったら、家に帰ったらお茶を飲みながら一緒にやっていただけますか?」
少しだけ遠慮がちな問いかけに、彼は即座に、迷いなく頷いた。
「ああ、もちろん。私も得意だから教えてあげるよ」
ふわりと微笑むその表情は、勝負の話よりも、“一緒に過ごす時間”そのものを喜んでいるように見えた。
揺れる馬車の中、彼の隣で。
張りつめていた心が、ようやく安らぎを取り戻していった。




