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【完結】記憶にありませんが、責任は取りましょう  作者: 楽歩


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26.王太子妃の微笑み

 王宮の奥、サロンへと案内された瞬間、鼓動がひときわ強く跳ねた。


 春の気配がそっと忍び寄る季節。


 大きな窓から射し込む柔らかな陽光は、まだ少し冷たい空気を淡く温め、部屋全体に光を落としていた。


 絵画に入ってしまったようだった。


 そして、その中央に王太子妃殿下がいた。



 視線がこちらへ向けられた瞬間、体の中に氷の欠片が落ちたように、ひやりと冷たいものが走る。



「ようこそ、本当に来てくれるなんて嬉しいわ」



 断ってもよかった? そんなわけがない。



 上品で穏やかな声。だが微笑んでいるのに、瞳だけは鋭く、こちらの心の奥を見透かされているようだった。



 テーブルの上には、すでに何種類もの茶器が端然と並び、淡い光を反射して宝石のようにきらめいている。


 緊張のせいか、指先が少しだけ冷えていくのを感じた。




「今日は、あなたのハーブティーを楽しみにしていたのよ」


 

 やっぱり、知っている!


 私が何を作り、何を悩んできたのか。どんな思いを胸にこの場に立っているのか。すべてを見通されたような感覚に、体が固まる。



「ふふ、そんなに怖がらなくてもいいのよ。私はただ“あなた”に興味があるだけ」



 柔らかな微笑。けれど、そこに滲む確かな圧。


 

 目だわ。目が怖い。


 これが日記にあった“捕食者の目”。獲物を追いつめるのではなく、逃がさないと告げる支配的な静けさ。


 静寂に包まれた中、私はなんとか気力を断ち切られないよう踏みとどまっていた。


 ここは、逃げられない場所。


 私の一挙手一投足が、すべて試されている。


 

 深く息を吸い、両手でそっと包みこむようにして、メリッサから受け取った小さな木箱を差し出した。



「こちら王太子妃殿下への、ささやかな贈り物です。私が調整したブレンドティーをお持ちいたしました。お気に召すと嬉しいのですが」


 銀糸のリボンを結んだ木箱は、陽光を受けて静かに輝く。箱を開けば、ふわりと穏やかな香りが立ちのぼった。



「まあハーブのブレンド? どのようなブレンドかしら?」



 穏やかでありながら、逃げ場のない気品を帯びた声。促されるように、私は一つずつ丁寧に説明を続ける。



「こちらは、心をほぐし、疲れた時に飲んでいただけるものです。カモミールとラベンダーを基調に、少しだけオレンジピールを。甘い香りが重なり、緊張を和らげる働きがあります」



 殿下の目がわずかに細められた。興味と、確かに呼べる反応。



「まぁ優しい香りの組み合わせね」


「それから、もう一種もお持ちしております。こちらは気分を整えたい時に。レモングラスとペパーミント、そこにほんの少しだけジンジャーを。爽やかさと温かさを同時に感じられるよう調整いたしました。心が沈んでいる時や、胃腸の調子が優れない時にも役立つかと存じます」



 殿下の長く繊細な指が、瓶の表面をそっとなぞる。



「さらに体を温めたい時のものもございます。ジンジャーとシナモンで調えた、ひと品です」


 言葉を重ねるごとに、殿下の表情に淡い柔らかさが生まれていく。

 



「あなたハーブに想像以上に詳しいのね」


「少しだけ、薬草に明るい先生もおりまして」


「ふふ、なるほど、ロバート先生ね」


 ロバート先生までご存じ……。



 その事実に小さく目を見張りながら、私はそっと息を整えた。


 殿下は、最初のブレンドティーの蓋を開き、ゆっくりと香りを確かめた。


 わずかに傾けられた横顔は優雅で、けれどその動きには、何かを選別するような鋭い静けさがある。


 ふわりと、カモミールとラベンダーの柔らかな香りが空気に散る。



 その瞬間、殿下の睫毛が、ゆっくりと伏せられた。白い指先がわずかに緩み、ふっと肩の力が抜けたようにさえ見える。



「これは、良い香りね。緊張がほどけていくような優しさのある調合だわ。これを先にいただきましょう。最近、寝つきが悪くて些細なことで胸がざわつくの」



 艶やかに首を傾げながら言うその声音は、弱さの吐露ではない。むしろ、“煩わしさ”を押し込めたような調子だった。


 控えていた侍女が王太子妃殿下から瓶を受け取り、恭しく受け取り、静かに奥へ下がっていく。



「あなた、記憶がないのでしょう?」



 真正面から射抜くような視線。その一言に、心臓が一度、大きく跳ねた。



「はい。その……日記を見て把握していることもあるのですが分からないことも多く。ご迷惑をおかけしていたなら、本当に申し訳ございません」


 言い終えた瞬間、殿下はふっと唇を綻ばせた。



「あら、謝るのは私のほうよ?」


 どういう意味――と問い返そうとした、その一拍。殿下は、何でもないことのようにさらりと続けた。



「日記に、学院でのあなたへの“嫌がらせ”書いていなかった? あれ、全部、私が指示したの」



 空気が、凍りついた。


 思考が、その場で止まってしまうほどの衝撃。


「ど……どうしてでしょうか」


「理由なんて単純よ?」



 殿下は椅子の背にもたれ、指先を静かに組む。その仕草は優雅なのに、王太子妃という立場の重みを無意識に示しているかのようだった。



「あなたが王太子殿下に近づくたび、胸がざわついたの。嫉妬と言ってしまえばそれまでだけれど当然でしょう? 私は彼の婚約者だったのだから。今だって、あなたが王太子殿下の気を引くために記憶喪失のふりをしている、そう疑って、胸がざわつくの」


 “寝つきが悪くて些細なことで胸がざわつく”


 些細な私のせいで胸がざわついて、寝つきが悪い――?



「家の力を使って、あなたのご実家に圧力をかけることもできたのよ……ふふ、むしろ、守られたのよ? 殿下の“お気に入り”への警告程度ですませたんだから」


「……っ」


 その言葉は優しさの形をしているのに、実はまったく違う。それは、権力者だけが軽やかに口にできる“真実”だった。



「でも記憶は本当にないようね。少なくとも私の知っている“ララ”は、私の機嫌を取ろうなんてしないもの。ふふ、私のために努力した今のあなたのことは気に入ったし、この贈り物も、もちろん気に入ったわ」



 王太子妃殿下は、指先まで洗練された所作で手を伸ばし、先ほど受け取ったブレンドティーの箱の一つを軽やかに掲げてみせる。


 控えていた侍女が静かな足取りで近づき、湯気の立ちのぼる紅茶を丁寧に淹れる。磁器のカップが受け皿に触れて、微かな澄んだ音を立てた。


 殿下はその香りを楽しむように目を伏せ、ゆったりと口をつける。



「美味しい。今日から楽しみが増えたわ」



 柔らかい声音だった。けれど、その言葉の端々に漂う選ぶ側の余裕に、心のどこかがそっと冷える。


 ――ああ、早く帰りたい。


 心の中で、そっと小さくつぶやいた。




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