きずな君の記憶①【先を越された】
いつからだろう。
自分の名前が『特別』だと感じられるようになったのは――――。
「きずな君!」
心臓が小さく音を立てて響く。振り向くと予想通り、太陽みたいに眩しい笑顔を浮かべた同級生がいた。
彼女の名前は逢璃。高校に入ってから出会った、笑顔の可愛い女の子だ。
「おはよう、きずな君!」
「おはよう、逢璃」
逢璃はそう言って満面の笑みを浮かべる。彼女につられて、俺も笑った。
子どもの頃から俺には、妙なテリトリー意識があった。誰かが自分の領域に入るのがひどく嫌で、他人とあまり関わりたくない。けれど、逢璃だけは違った。根気強く話し掛けてきてくれたから、という理由もあるけど、必要以上に踏み込まれても嫌だと思わない。寧ろ心地良さを感じていた。
「聞いてよ。今日お母さんがね、卵焼きを焦がしちゃってね――――」
他人の話になんて興味がない。聞く必要性を感じていなかったし、時間の無駄だと思っていた。だけど、逢璃の話は不思議と面白くて。もっと、何でも聞かせてほしいとそう思う。笑顔を見ているだけで、自分まで楽しくなってくる。
けれど、それが何故なのか、この頃の俺には分かっていなかった。
変化が訪れたのは、高校2年生の頃。昼食後、俺のところに来るのが日課になっていた逢璃が、その日は来なかった事が理由だった。
(一体、何処にいるんだろう?)
別に約束をしているわけじゃない。2年になってからはクラスも別だし、本当なら毎日会話をしていることが不思議なぐらいだ。そう思いつつ、何度も何度も教室の扉を確認しては落胆する。あまりにも落ち着かなくて、気づけば俺は逢璃を探して学校内を彷徨っていた。
「――――好きだ」
そんな声が聞こえてきたのは、体育館の裏に差し掛かったその時だった。
(今時、こんな場所で告白か)
ひどく冷めた気持ちで男の声を聞きつつ、俺は小さくため息を吐く。けれど、踵を返そうとしたその瞬間、心臓が止まるかと思った。
「ごめんなさい」
高く、涼やかな鈴の音のような声に心が抉られた。そっと覗き込むと、そこには予想通り、俺の探し人がいた。逢璃だ。
「好きな人がいるの」
もう一度「ごめんなさい」と言って、逢璃は頭を下げた。
(逢璃に好きな人が――――?)
そんなこと、考えたことがなかった。けれど、もしも逢璃が彼女の好きな人と上手くいったら、俺はどうなる?今みたいに微笑みかけてくれることも、一緒に昼休みを過ごすことも出来なくなるのだろうか。
(そんなの、嫌だ)
心臓がバクバクと音を立てて鳴り響く。強い眩暈に、まともに前が見えない。こんな風になるのは、生まれて初めてだった。走ろうが何をしようが、俺の身体は汗一つ搔きやしない。それなのに――――。
「きずな君?」
突然背後から声が掛けられ、俺は飛び上がった。
「逢璃」
目の前には不思議そうな表情を浮かべた逢璃が立っていた。
「何してるの? こんなところで」
逢璃がそう言って首を傾げる。いつもと同じ笑顔。けれど、俺には何故だか、逢璃が知らない女の子のように見える。
「――――逢璃が俺のところに来なかったから……」
素直にそう口にして、俺はひどく後悔した。
(なにを言ってるんだ、俺は)
約束をしているわけでも、恋人同士でもないというのに、この発言。格好悪いことこの上ない。けれど逢璃は瞳をパッと輝かせ、俺の手を握った。
「もしかして、探しに来てくれたの?」
心底嬉しそうに笑う逢璃に、心臓がドキドキと鳴り響く。先程とは違う、甘い響きだった。逢璃の笑顔に目が釘付けになって、息もまともにできない。
その瞬間、俺は逢璃が好きなのだと、初めて気づいた。
けれど、想いを打ち明けることは案外ハードルが高かった。
自分の気持ちに気づいて以降、逢璃に対してひどく臆病になってしまったからだ。
「きずな君!」
逢璃が俺の名前を呼ぶ度、どうしようもなく嬉しいと感じる。笑顔を独り占めしたくなる。
けれど、もしも想いを打ち明けて、俺の名前を呼んでくれなくなったら? 笑顔を向けてくれなくなったら? そう思うと、すごく怖かった。怖くて堪らなかった。
(俺は、逢璃を失うことが、一番怖い)
第一、逢璃には既に、好きな人がいる。それを理由に、彼女は他の男の告白を断っているのだから――――。
「ねぇ……きずな君、この間女の子に呼び出されてたでしょう?」
思わぬ言葉に顔を上げると、逢璃が眉毛をへの字型にして、俺のことを見つめていた。
(呼び出し……)
「あぁ」
そういえば、というぐらいの認識だけれど、思い当たる節があった。同じクラスの女子に『付き合って欲しい』と言われたのだ。
「なんてお返事したの?」
逢璃が質問を重ねる。告白のために呼び出されたのだと分かっているらしい。逢璃の頬は少しだけ紅くなっていた。いつもと違う、少し拗ねたような表情に胸が高鳴る。
(可愛い)
反射的に彼女の頬に手を伸ばしそうになって、思い留まった。獣の如く喉が鳴る。
こんなにも逢璃のことが好きなのに。逢璃にしか興味がないのに。他の人と付き合えるわけなんてない。それが、逢璃には分かっていないらしい。
「断ったよ」
散々迷った挙句、一言、そう答える。
「そっかぁ」
そう言って逢璃は笑った。何だか泣き出しそうにも見える。
(少しぐらい、自惚れても良いだろうか?)
俺は逢璃の特別なんだと――――逢璃が俺と同じ気持ちなんじゃないかと、そう思いたくて仕方がなかった。
そんなことがあった数日後のこと。人伝に逢璃が他の男に呼び出されたと聞いた。心臓があり得ないぐらいに、ザワザワと騒ぐ。
(もしもそいつが、逢璃の好きな男だったら?)
そう思うと、怖くて堪らない。もしかすると手遅れなのかもしれないが、それでも何もせずにはいられなかった。
(今日、逢璃に告白しよう)
ようやく決心がついた俺は、気もそぞろに午前の授業を受けた。
昼休みを迎えると、いつものように、逢璃が俺の元にやってきた。その事実に、俺は少しだけホッとする。
けれど、心臓は絶えずバクバク鳴り響いていた。どう切り出そうか、場所を移した方が良いのだろうか。授業中からずっと考えていたことを、性懲りもなく逡巡しつつ、俺は逢璃を見つめる。
「わたし、きずな君が好き」
その時、あまりにも唐突に、逢璃がそう口にした。
俺は逢璃を見つめたまま、目を丸くする。信じられなかった。信じられないぐらい、嬉しくて堪らない。
(逢璃が俺を好き――――?)
彼女の声を頭の中で何度も反芻し、俺は喜びに打ち震える。
「もしもきずな君が、ほんの少しでもわたしを好きって想ってくれているなら……わたしをきずな君の彼女にして?」
何も言わない俺に、逢璃はそう言った。瞳が不安げに揺れている。
「……少しなんかじゃない」
答えながら俺は、自分の顔が真っ赤に染まっていくのを自覚していた。
全然、ちっとも、少しなんかじゃない。逢璃が知れば、重くて嫌になるほど、俺の気持ちは強いのに。
(今からでも伝わるだろうか)
自分の想いを伝えたくて、俺は逢璃の手を握る。
「……俺が先に言おうと思っていたのに」
逢璃の手は壊れそうな程、細くて小さかった。ずっとずっと、もう一度触れたいと思っていた。バクバクと心臓が鳴り響く。気づいたら逢璃がポロポロと涙を流していた。あまりの愛おしさに胸が疼く。俺は更に強く、逢璃の手を握った。
「好きだよ、逢璃。逢璃のことが、どうしようもないぐらい、好きだ」
用意していた告白の言葉とは全然違う。けれど、逢璃は嬉しそうに、何度も何度も頷いてくれた。それがあまりにも嬉しくて、俺は逢璃にバレないように、こっそりと涙を流した。




