つかのまの休息
流れる景色を随分と懐かしく感じた。
少しだけ開けた窓の隙間から土と草の匂いがまじり合ったような匂いがふきこんでくる。
ぼんやりと夏の訪れを感じていた。
シュキアス家は代々王城に上がって文官として仕える者が多いせいか、あまり領地の経営には力を入れていない。治める土地も同じ家格の者たちと比べると少ない方だ。
侯爵夫妻は一年のほとんどを王都のマナーハウスで過ごすが、それでもなんとかやっていけるのは信のおける使用人たちのおかげだ。
領民たちがのんびりと豊かに暮らすこの地はアリスのお気に入りだ。
青々と茂るプラタナスの並木を抜けると半年ぶりの我が家が見える。
これまで学院主体の避暑に参加せず、休暇が始まればとっととここへ戻ってきていたが、今回は色々とあったせいで休暇はもう一週間と残されていない。しかしそれでも久しぶりにゆっくりと息をつけるかと思うと体から力も抜けるというものだ。
ずるずると柔らかいソファに腰を沈み込ませてだらしない姿勢を取ってしまっても見逃してほしい。
アリスは到着まで少しの間だけでも、と目をつぶった。
「お嬢様、お屋敷につきましたよ」
コンコン、と控えめなノックと共に扉の向こうの御者が遠慮がちにそう声をかけた。
ぱちりと目を開けたアリスは居住まいを正してから「開けて」と返事を返す。
思いのほかぐっすりと眠りこんでしまったようだ。
御者の手を借りてステップを降り礼を告げると、うんと大きく背を伸ばす。
その様子を眺める初老の紳士がいた。
当主不在の間屋敷と領地の一切を任される使用人の筆頭、シュキアス家の家令だ。
きっちりと着こなされた燕尾服の胸元にはそれを表す黄水晶があしらわれたシュキアス家のバッチが留められている。
細かい皺の寄った目尻にさらに皺をよせて、孫を見る祖父のように目を細めた。
「お帰りをお待ちしておりましたよ、お嬢様」
「ダニエル!?」
パッとアリスの顔が輝く。
速足で家令の元に駆けよって、白い手袋に包まれた硬い手を取る。
「どうしてここへ!? 元気にしていた?」
その姿は年相応にも見える。
忙しい父に代わってよくアリスの面倒を見てくれたこの優しい家令がアリスは大好きだった。
年の瀬に体調を崩してから一時職を辞しており、アリスがここを出る時も会えずじまいだった。もう会うことはないだろうと思っていたのだが。
こみ上げた懐かしさに胸が満たされる。
「まだ一年と経っておりませぬのにお嬢様は寂しがりやですな」
「だってもう会えないと思っていたんだもの! その格好は? もしかしてまたお父様にこき使われているの?」
この家令は優し気な見た目に反して中々のやり手なのだ。能力主義の父が中々手放すのを良しとしないくらいだから。
「旦那様に良くしていただいたおかげで今ではすっかり元の調子を取り戻したのですよ。ご恩をお返ししようとまたお屋敷で雇っていただけないか聞いたのです。下働きでもなんでもいいと伝えたのですがこうして元の地位に戻して頂けて」
「当然よ! ダニエルを下働きになんかしたらシュキアス家は潰れてしまうわ。でも無理はしないでね? 長生きするのよ」
「お嬢様も。くれぐれも無茶はなさらないで下さいませ。早馬が来たときは肝を冷やしましたぞ」
未だに巻かれている包帯へと目が向けられる。
袖からわずかにのぞく白い布に気付くのはやはりさすがというか。そこを庇うようにして手で押さえてアリスは苦笑した。
「それでは私におつかまり下さい。まだ本調子ではないようですし、まずは休まれるでしょう?」
「ええ、お願い」
家令に手を引かれ、アリスは慣れ親しんだ樫の扉をくぐった。
「学院はどうですか? お困りのことなどあればすぐに連絡を下さればお役に立てることもありますよ。これでも私はルシアン校の卒業生なので」
「確かそこでお祖父様と出会ったのよね? 今のところは特に問題はないわ。毎日が慌ただしいけれど。皆に色々と仕込んでもらったことがとても役に立っている。あの時ダニエルが許可をくれたおかげね」
アリスが使用人たちのやる仕事を教えてほしいと頼み込んだ時、止めずに好きなようにさせてくれた家令には頭が上がらない。
「お嬢様は何でもよく吸収なさったから私どももついつい楽しくなってしまって。旦那様もお止めになりませんでしたし」
(それはただ私に興味がないだけでしょうけど)
そう言いかけてすんでのところで踏みとどまる。この家令はアリスと父親の仲を特に心配しているから。
わずかに曇った表情でアリスの考えは家令に筒抜けだったが、生温かい目を向けられるだけで済んだ。
「さ、お部屋に着きましたよ。しばらくしたらお茶を持って参りますのでゆっくりお寛ぎください」
「ありがとう」
「今日のお茶請けは特に気合を入れるようにと料理長に伝えておきましたから。きっとお嬢様の好きな桃のケーキが出るはずです」
「本当? 楽しみ!」
アリスは弾んだ声を上げた。
近頃は良くない想定外ばかりだったから、こうして少しでも良いことがあると救われるというものだ。
ご機嫌でソファに腰掛けると家令も嬉しそうに頷いた。
「あ、そうそう。一つ忘れておりました」
老紳士は扉を閉めようとして、わざとらしく間延びした声を上げる。
「どうしたの?」
ご機嫌なアリスは気付かずにこやかに尋ねた。
そろそろ物忘れが始まる年かしら、なんてのんきに考えていた。
しかし家令の口から発された言葉はアリスの顔から笑顔を奪う。
「昨晩旦那様がお帰りになられたのですが…」
「!?」
「ひと休憩したら一度書斎に顔を出すようにとの仰せです」
「!!」
目に見えてアリスの顔が強張っていた。
家令のモノクルの向こうの瞳がいつも通りに優し気な弧を描いている。
「あとで私が迎えに参りますね」
逃げ場がない。
前言撤回、やっぱり想定外は悪いものばかり運んでくる。
アリスはがっくりと項垂れた。
*
折角のケーキなのにそれをつつくアリスの心持ちはずん、と重たかった。
ちまちまと切ったケーキをため息交じりに口に入れる娘に、同じ席に着く母は愉快そうに微笑んだ。
先ほど待望のケーキとともにアリスの部屋を訪れたのは、シュキアス侯爵の妻でありアリスの母その人だ。
父がこの家にいるのはにわかに信じがたかったが、仲の良い母がここにきているということは間違いなく父も自分を待っているのだろう。現実から目を背けたい。
「料理長自慢のケーキはお気に召さない? あなたの大好きな桃を使った自信作だって聞いたわよ?」
「そんな分かりきったことを聞かないでください。悪いのはケーキではありません」
ふわふわのスポンジに桃を混ぜ込んだ白桃クリームをぬって、表面に桃のピューレをのせた桃のケーキはアリスの大好物である。桃の果汁をゼラチンで固めて細かく刻んで甘い炭酸水をそそいだゼリーはキラキラと輝いているし、余った桃で作ったジャムを乗せて食べるスコーンも絶品だ。
少し季節がずれてしまっているのにここまでのものを作ってくれる料理長には感謝しかない。
事実、気分はどよんと沈み込んでいるのに、先ほどからスイーツたちに伸びる手は止まらない。
お気に召していないはずがない。
「それじゃあ誰が悪いっていうの?」
くすくすといたずらっぽく少女のような笑みを浮かべる母。
もういい年のくせをしてアリスと並んでも姉にしか見えない。
シュキアス侯爵夫人は一部の熱狂的なファンを社交界に持っていることで有名だがデビューしていないアリスがそれを知る由もない。
(つくづくお父様とは似合わないわね)
仏頂面の鉄仮面が脳裏に思い出されてアリスは苦い顔をした。
「あなたは本当にお父様が苦手ねぇ。よく似ているのに」
「言っておきますが苦手なのはお父様だけではありませんよ。私はお母様も苦手です」
「まぁひどい!」
プクーとリスのように頬を膨らませる母を見て頭を抱えそうになった。家族以外の前でこんなことをしていないと信じたいが。
顔だけは母に似てしまったアリスとしては鏡に映った自分の奇行を見せつけられているようで気持ちが悪いことこの上ない。
娘を困らせてひとしきり楽しんだら満足したのか、頬杖をついた侯爵夫人はいつも通り、人の毒気を抜くような柔らかい笑顔で言った。
「あの人なりにあなたのことを心配して戻ってきたのよ。王城に報せが届いた時とんでもない形相をしていたってフレデリックが震えながら教えてくれたわ。ここへ戻ってきたのだってその目で無事を確認するまで安心できないっていう理由なんだから」
「誕生日すら一度も顔を出さないお父様が? 口を開けばするのは仕事の話ばかりで、体の心配なんかされたこともありませんが」
「仕方がないわ。あなたったらよりにもよって一番忙しい鎮魂祭の日に生まれてくるんですもの。国をあげてのお祭りとなればやることもたくさんあるし。あの人がいない年に色々とハプニングがあったせいで、陛下が城を開けることをお許しにならないんですって」
ふいとそっぽを向く。
今更父の愛情をどうこうと言うつもりはない。そんな子供っぽい内容は幾度も繰り返しているうちにどうでもよくなる。
それよりアリスが最後にした嘆願を何一つ受け入れようとしない父の姿はアリスの心に深く傷を残している。
エレオノーラだけが悪いのではない。
確かに子爵家に手を出したのは迂闊だった。
それでもただの一度もエレオノーラがミュリエッタの命を狙うような真似はしなかったのに、どうして彼女だけこんなに罪が重いのか。ほんの少しでも彼女に温情をかけてやって欲しいと陛下に伝えて、と願っただけなのに。
(私の顔を見ようともしなかった)
ぎゅっと手に力が入る。この時点ではまだ未来の話だがアリスにとっては何度も経験された過去である。
母には最後まで会うことを許されなかったせいで、悪事がバレた後にどんな反応をしていたのかは分からないが、気持ちを持つと別れるのが辛くなるだけなので極力アリスからは関りを持たないようにしていた。
王都のマナーハウスに暮らす二人の元を離れて小さいうちからこの屋敷で暮らしていたのはそういうわけがある。
「私に似て可愛い顔をしているんだからにっこり笑って『お父様大好き』と言えばイチコロなのに。あなたが思っているより素直で可愛い人よ」
「するメリットもありませんから」
「全く強情っぱりねぇ。そういうところはぜーんぶお父様に似ちゃって……。もっと気楽に生きたらいいのに」
「お母様は気楽すぎです。そういえば随分とふくよかになられましたがもしかして、」
「とにかく! お父様に元気な顔を見せてあげて。一番心配していたのは間違いなくあの人だから」
さらりと頭を撫でられる。「ね?」と優しい声で柔和な笑みを向けられたらきっと断れる人なんていない。
鎮魂祭編スタートです。
今日からまたできるだけ毎日更新頑張りますのでどうぞよろしくお願いします!




