ある夏の昼下がりに
貴族たちが王都での拠点に使うマナーハウスがずらりと並ぶ一角に、古びた看板をかける喫茶店がある。
昼間だというのに空っぽの店内にいるのは一人の老爺だけだ。来客があるとバーカウンターの向こうから鋭い眼光を飛ばしてくる。
キリクは父とともにそこを訪れていた。
従順な犬のように一歩分だけ距離を開けて、黙って父の後ろをついていく。
父が店内に入るなり老爺は丸イスから立ち上がってカウンターの仕切りを開いた。
父は慣れたようにそこに入っていく。
カウンターを越え裏へと続くドアを抜けると、地下に続く階段があった。
(ベタだな……)
あからさまに怪しい雰囲気の漂う店内に、いよいよ自分は引き返せないところまで連れてこられたのだ、とキリクは知らず生唾をのんだ。
こういう時にあの仏頂面の執事が隣にいたらいいのに、残念ながらここには立ち入り禁止だ。
先を行く父の背中もわずかに強張っているように見えて、キリクは警戒レベルを数段引き上げた。
いつも自分を圧倒する父ですら緊張を覚えずにはいられない相手に今から面会するのだと実感がじわじわとこみ上げた。
階段を下って突き当りの扉を押して開ける。もわりと白く濁った空気がこちらへと流れてきた。咳き込みそうになるのをこらえて平然とした顔で父に続いて中に入る。
そこには上層の喫茶店からは考えもつかない程広い空間が広がっていた。扉をくぐって室内に入ってきたキリクとグルジエフ卿へと次々に視線が突き刺さった。
(あぁ…これは、嫌な感じだ)
あまりあちこちへと顔を向けない方がいいかもしれない。
ちらりと一瞥しただけでも驚くほどの有名人が腰を据えているのが見えた。ここに集う輩は皆そうした連中ばかりだ。知ってしまえば何に巻き込まれるか分からない。
とはいえこの中でも自分がかなり危ないところに足を突っ込もうとしているのは重々承知だが。
広い会場の中で父が向かっているのは一番奥、つまり一番偉い人物がいる場所ということだ。
一人の壮年の男性が座すテーブルの前にくると、父は頭を下げた。キリクも黙ってそれに倣う。
「仰せの通り、愚息の挨拶に参りました。今回の件で御家の使用人に協力を頂いた様で…、誠に感謝を申し上げます」
人にへりくだることを良しとしない父の珍しい態度に、キリクはぐっと唇に力を入れた。
「あぁ、グルジエフ卿か。相変わらず堅苦しいな君は。そう気張らずとも取って食いやしないんだから。折角の機会だ。ご子息も顔を上げてくれ」
存外に穏やかな声だった。
その言葉に従ってゆっくりと顔を上げると、友好的な笑みをたたえた美丈夫がコーヒーカップを片手にこちらを見上げていた。
この場においてはその柔和な顔立ちはあまりに不釣り合いで、拍子抜けしてしまいそうになる。しかしこの人物が見た目通りの穏やかな性格をしていないことは父の様子を見れば明らかだった。
気を緩めないキリクにふっと青色の目を細めると、男は再び口を開いた。
「賢い息子を持って卿は幸せだな。名を聞かせてくれるか?」
「キリクと申します閣下。この度はお招きいただき感謝いたします。それと、重ねて先日はありがとうございました」
「協力するのは当然のことだ。例の件は卿に一任してあるから何か必要なものがあれば何でも言いなさい。きっと用意できないものはないから」
「ありがとうございます」
「それで、今回の結果を聞かせてくれるかい?」
「勿論です」
キリクはちらりと父の目を見て確認を取る。父は早くしろとでも言わんばかりに頷いた。
「今回の計画は概ね成功です。駒の暴走によって当初予定していた流れとは変わってしまいましたが、王子とかの令嬢の距離は順調に縮まっています。事件に関して公爵令嬢の関与を疑う声も上がっていますので、少し手を加えてやれば予定通りに事は進むかと。侯爵令嬢に対しても不信感を与えることができましたので今後ますます彼女は孤立していくでしょう」
「そうか。次の計画は?」
「現在準備を進めておりますが今のところ問題ありません」
「よろしい。グルジエフ卿のご子息は優秀なようだ」
満足げに男は頷いた。そのままにこやかな笑顔でキリクにこう尋ねた。
「君はこの計画を不思議には思わないのかい?」
ほっと胸をなでおろしたのもつかの間、どくどくと心臓が嫌な音を立てている。
「……申し訳ありませんが、ご質問の意味を図りかねます」
「そう深く考えずともいい。父が娘の将来を邪魔するような計画に君は違和感を感じないのか? と聞いているんだよ」
「それは……」
「普通は娘が王妃になるっていうなら貴族にとってこれほど喜ばしいこともない。それを進んで放棄することに何の意味があるのか知りたくないか?」
らんらんとした青い瞳がキリクのことをじっと見つめていた。
自分は感情を表に出さないのが得意だと思っていたがこの男にそれが通用するとは思えない。
無意識に喉が鳴った。
「気にならないと言えば…嘘になります。ですが、私には知る必要のないことだというのも理解しています。尻尾に頭はいりませんから」
「いい返事だ。それならばせいぜい切らずに済むよう大事に扱うとしよう」
男はカップに口をつけながら机の上に広げられた何かにすらすらとサインをした。それを傍に控えていた使用人に渡すとにこりとキリクに微笑みかける。
ぞわりと悪寒が背筋を走った。一つ答えを間違えていれば、キリクと父は間違いなく彼らの悪事の一つを背負って首を切られていたところだ。
(一瞬たりとも気が抜けない)
喉がカラカラだ。
「ご褒美にさっきの問いの答えを教えてあげよう。簡単なことだ。あの子が僕たちを裏切るから。今のうちに危険の目は摘んでおこうっていう話。うまい汁を吸うより足場をきちんと整えることの方が大事だろ? 君には期待しているよ。侯爵令嬢も王子も、あの子に味方はいらない。せいぜい彼らの不信感を煽って娘を孤立させてくれ」
「最善を尽くします」
「期待してるよ。あーあ、僕にもこんな親思いの息子がいたら良かったんだけど」
残念だ、とわざとらしく笑う姿にキリクは曖昧な笑みを返すことしかできなかった。
*
視界の隅を黄色い目をした猫が横切った。
こんなさびれた場所にも猫がいるのかなんて少し驚きだ。
猫が嫌いな彼女のヒステリーに巻き込まれないためにも帰りに安全なところまで連れて行ってやらなければならないだろう。
気を抜くとため息をつきそうになるのをなんとかこらえて、前を歩く仰々しい甲冑姿の男たちの後を追う。
何十にも鍵をかけた門をもういくつ通ってきたかも覚えていない。ここを訪れるといつも恐ろしく時間を食うので本当はあまり足を運びたくなかった。
しかし己の本意に気付かれないためにも精々月に一度くらいは顔を出して演技しておかなければならないのだ。無駄に勘の良い女に台無しにされたら困る。
ガチャガチャと先導の役人が鍵を開けるのを待ちながらぼんやりと空を見上げた。
考え事をする時空を見上げるのは昔からの癖だ。
もうしばらくしたら自分はこの世界から消えていなくなる。
課せられた役柄から解き放たれるために随分と時間がかかってしまったが、ようやく、ようやくだ。
焦ってはいけない。
消えたがっていると気付かれてしまえば全てが水の泡だ。
あくまで彼らが描くシナリオ通りに自分は消えてやらなくちゃならない。
してもいない悪事の黒幕にされて、ただ一人の味方もなくし、一人ぼっちで世界から退場していく哀れな令嬢として消えるのだ。
それもこれも全部一人の少女を守るために。
ずっと昔から準備してきた。手紙を受け取ったあの日から。
運命は書き換えた。
消えるのは自分一人でいい。
胸元に輝く赤い宝石の中に炎が揺らめく。
長い金髪をなびかせて鍵の開いた門をくぐりぬけた。
「お元気でしたか、お母さま」
ある夏の昼下がりの出来事だ。
これにて避暑編は終わりです。
次章準備のために長くて一週間ほどお休みを頂くかもしれません。
できるだけ早く次のお話をお届けできるように頑張ります!
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