分からないこと
普通の学校のように、学期末のテストがあるわけでもないので、貴族舎はのんびりとした雰囲気のまま夏季休暇を迎えた。
学院が休暇に入るとすぐに大勢の学生たちが慌ただしく学園街を出て実家に戻っていく。寮は変わらず維持されているので、残ることもできるが、皆そろそろ自分の家や王都が恋しくなるのか、寮に残っているのは避暑旅行に参加する者くらいのものだった。
アリスとエレオノーラは空いた数日間をニナの店に行って服を受け取ったり、旅行に必要なアレコレを買い出しに行く時間に使った。
なんだかんだと忙しくしているうちに出発の日はすぐにやってきた。
アリスは鏡の前で入念に自分の姿をチェックしていた。
白のシンプルなワンピースの上に、淡い紫色の総レースのワンピースを重ねたものを着ている。勿論ニナの店で仕立てた服だ。
下に着たワンピースが肩の部分を大胆に出したオフショルダー型なので、レースの下に素肌が透けるのが少し恥ずかしいが、夏らしく涼やかだし意外と動きやすくて快適だ。それに何より可愛い。心配していたスカート丈もちゃんと膝が隠れるくらいの長さがあって安心した。
横髪を編み込んでハーフアップにして、最後につばの短い麦わら帽子をかぶったら完成である。
鏡の前でくるりと一回りすると気分が上がった。誰だってかわいい服を着たら嬉しくなってしまうものだ。アリスは足取り軽やかに部屋を出た。
*
バカルディまでは鉄道で行き、駅からは馬車が出ることになっている。
全部を馬車で行くとかなりの時間がかかってしまうので、汽車嫌いのエレオノーラも今回ばかりは酔い止めの薬を飲んでアリスと二人だけの個室の座席に座っていた。
「エレオノーラ様、本当に大丈夫ですか?乗り物酔いが酷いと伺いましたが……」
アリスは心配そうな顔で聞く。
「最近乗っていなかったからもしかするとあまり酔わなくなっているかもしれないわ。そんなに心配なさらないで。それよりその服、とてもよく似合ってる」
エレオノーラに褒められてアリスも照れた顔でほほ笑んだ。
「エレオノーラ様こそ、よくお似合いです。彼女にお願いして正解でしたわね」
エレオノーラが着ているのはアリスとほとんど同じだが、下のワンピースが立て襟になっていたり、袖が七分だったり、スカートの長さがアリスより長かったりと所々違う。あまり肌を見せないスタイルはエレオノーラの雰囲気によく合っていた。
そうして和やかに談笑している余裕は、汽車が動き出すと途端になくなった。
最初は平気そうにしていたエレオノーラも、五分とたたないうちに血の気の引いた青い顔をしていたのだ。
口を開く余裕もない様子なのにアリスを心配させまいと青白い顔で会話を続けようとするから、先にアリスの方が悲鳴を上げた。
「次の駅からでも馬車にしませんか? すぐに私の家の馬車を用意させますので」
「いえ、大丈夫よ。いつもより全然平気だから」
明らかに嘘だった。
(どうしよう、ここまで酷いなんて思っていなかった……)
今までのエレオノーラがこの避暑旅行にあまり乗り気でなかったのも分かる気がする。逆にどうしてこの調子で今回は参加しようと思ったかが分からない。
エレオノーラは窓のふちに肘をついて何とか頭を手で支えている。
アリスは窓を少し開けて換気したり、冷たい水を用意したりとかいがいしく世話を焼いたが良くなる兆しは一向になく、エレオノーラはぐったりとしたままだった。
一時間くらいが経過して、エレオノーラの調子はますます悪くなっていくばかりだ。
まだ目的地までは何時間もかかる。
(こんな調子になるって分かってたら旅行自体反対したのに…!)
そんな風にアリスが不安そうにしていることに気付いたのか、エレオノーラは薄く目を開けた。何をしていいか分からずところなさげにしているアリスにやることを与えてくれる。
「シュキアス様……、一番後ろの車両に医師が乗っているはずだから、酔い止めをもらってきてくださる…?」
「勿論です! 勿論ですが、エレオノーラ様…本当に一度降りませんか? ……それかどこかもっと体を休められる客室に移してもらいましょう?」
「いいえダメよ。こんな情けない姿を見られるわけにはいかないから」
エレオノーラはいつになく強い声で言った。
戸惑いながらもアリスは席を立ちあがる。とにかくエレオノーラの言う通りにしよう、と客室を出て小走りで後ろの車両を目指した。
「ありがとうございました」
アリスはもらった袋を胸に抱えて客室を出た。
医師がついてくるなんて大袈裟だ、なんて思っていたが、今回ばかりは過保護な学院のシステムに感謝した。
もしこの薬が効かなかったら、もう引きずってでもエレオノーラを汽車から降ろさなくてはならない。そう息巻いてアリスは再び速足で再び自分の客室に急ぐ。
車両の間を隔てる扉をスライドさせて、急いた気持ちのままに前も見ずパッと足を踏み出す。
そのせいか、
「きゃっ」
「っ!」
誰かにドスンとぶつかり、アリスの体は後ろに弾かれた。崩れそうになる体勢を、目の前の誰かが腕を掴んで立て直してくれる。
アリスは慌てて頭を下げた。
「すみません!」
「いや、俺の不注意だ。どこかケガはないか?」
聞き覚えのある声にアリスは目を見張った。
(よりにもよって)
ひとまず地に足のつかない気持ちを落ち着けるべく息を吸うと、もう一度丁寧に頭を下げなおした。
「いえ、私の方こそ失礼いたしました。お詫び申し上げます、殿下」
その様子で王子もアリスだと気付いたのかあぁ、と声を上げる。
「顔を上げてくれ。シュキアス嬢か、ちょうどいい」
言われたとおりにアリスが顔を上げると、心なしか王子はホッとしたような表情をしていた。懐から紙の包みを一つ取り出すと素早くアリスに差し出す。
紙には王宮専属の薬剤師が使う印が押されていた。
アリスはとりあえずそれを受け取って、すぐにしまえとばかりに目配せする王子の言う通りにした。
「いつもは出発の前に渡すんだが、今回はその暇がなくてな。この薬じゃないとまともに効かないんだ。ノックをしても返事がないからどうしようと思っていたんだが……シュキアス嬢に任せれば大丈夫だろう」
誰とは言わないが、その相手がエレオノーラであることは間違いなかった。
「一緒に睡眠薬も調合されているから、目的地につくまではぐっすりだろう。到着の少し前に起こしてやってくれ」
アリスは呆気に取られていた。どうしてわざわざ王子がエレオノーラに薬を渡すのか。
それに、人に弱みを見せるのを嫌がるエレオノーラが、あんな姿になるのを王子は知っている。
「シュキアス嬢?」
「ぁ、はい。……承りました」
「すまないがよろしく頼む。随分と酷くて心配をかけただろう。遅くなって悪かったな」
王子の声は本当にエレオノーラを気遣っているようだった。
そんな姿は今まで一度も見たことがないから、アリスはすっかり王子に対する毒気を抜かれてしまっている。今はただ困惑していた。
だから、いつもは言わないような問いかけが口をついて出る。
「…どうして、どうして殿下ご自身がいらっしゃったんですか?」
「? 弱っている姿を見せるのは嫌うだろう、あれは」
さも当然のことのように王子はそう答えた。
(それだけエレオノーラ様のことを理解していてどうして―――)
エレオノーラは王子に執着を見せず、ミュリエッタのことにも頓着した様子は表向きない。王子はミュリエッタに心をひかれているが、エレオノーラのことをないがしろにするわけではない。それどころかそれなりにエレオノーラのことを理解しているみたいだ。
本当に、分からないことだらけで嫌になる。
アリスばかりがあるかも分からない物語にとらわれて一々頭を悩ませて。
「そうですね。変なことを聞きました。それでは、薬をエレオノーラ様に渡してまいりますので、これで」
「あぁ、世話をかけるな」
王子が初めてまともに見えた。見えなくていいのに。
客室に戻ると、エレオノーラはうっすらと目を開け、アリスが手に持つ包みに目を留めた。
「あぁ…殿下がいらしたの? 気付かなかったわ」
「今そこでこれを渡されました。お飲みになりますか?」
「えぇ、お願い」
エレオノーラは迷いなく頷いた。
王子からの薬を何の躊躇もなく(本来であればそうであって然るべきなのだが)受け入れるというのは、やはりこの二人にはある程度の信頼関係が今でも維持され続けているのだ。
最近の王子はもうミュリエッタを隣に侍らすことになんの遠慮もしていないというのに。
アリスはぎりっと唇をかみしめた。
妙な気持ちが心の底から湧き上がっていた。
分からない、分からないことが恐ろしい。
その後、エレオノーラは本当に到着するまで目を覚ますことは無く、その顔は穏やかだった。
アリスはそれを複雑な目で見ていた。
*
ドサリとベッドに倒れこむようにしてアリスは横たわった。服を着替えていないが今はもう一歩も動ける気がしない。
ようやく滞在する屋敷につく頃にはもう色々と限界だった。
夕食の立食パーティーはエレオノーラともども欠席させてもらうことにして、とにもかくにも少しだけ眠ることにした。
目を閉じればあっという間に睡魔は襲ってくる。意識はすぐに闇に刈り取られた。
コンコンッとノックの音で目を覚ます。
ベッド横の時計に目を移すともうとっくに深夜だ。
こんな時間にどこの非常識がやってきたんだと、眉間にしわを寄せる。
寝起きの声を整える間もなく、再びノックの音が響いた。
仕方なくアリスは「どなたですか」と冷たい声を返す。
「アリス、夜更けに悪いが少しだけ時間をもらえないだろうか」
「……クリード?」