第1話【死因はタピオカ看板でした】
深夜24時。
昼間の人通りが無くなり、不気味なほど静まり返ったオフィス街に、疲れ果てた足取りを感じさせる私のヒール音が重く響いていた。
神楽坂玲奈、29歳。
職業、中堅企業の営業事務兼カスタマーサポート。
2日連続の徹夜残業を終え、コンビニで買った500mlのストロングな缶チューハイを胸に抱いた私は、もはや思考停止の限界状態だった。
「せんぱ〜い、私もうこの会社やめて、現世から卒業したら異世界に転生してのんびり暮らしたいです〜」
「そうね」
「それで転生特典でチートをいっぱいもらって、王子様を筆頭にしたハーレムパーティーを築いて、魔王を倒して全国民に崇拝されながら何不自由なく甘やかされ生活するんです!」
「そうね」
「せんぱ〜い! 私の話ちゃんと聞いてます!?」
「そうね」
早く帰ってちょっとだけ仕事して、シャワーを浴びたらストロングをキメて眠りたい……明日の朝イチでクレーム対応もあるけれど、今はもう何も考えたくない……
一緒に退勤した後輩がハイになった様子で絵空事を言っている。
それを適当に聞き流しながら交差点を渡ろうとした、その時だった。
――キィッッッ!!!
猛烈なブレーキ音とともに、私へ向かって一直線に近づいてくる影。
スマホの地図アプリを見ながら、信号無視をかましてきたフードデリバリーの自転車だった。
「せ、せんぱい! 危ないっ!」
火事場の馬鹿力とでも言うのか、先程までゾンビのようにフラフラしていたはずの私は反射的に身体を捻り、まるでダンスのステップのような身のこなしで暴走自転車をギリギリで回避した。
「ふぅ……間一髪……」
「よそ見をしていてすみませんでした! お怪我はありませ――」
「よかった〜せんぱいが先に異世界転生するのかと――」
胸を撫で下ろした、その刹那。
上空から、ギギギ……ガキンッ、と不穏な金属摩擦音が聞こえた。
見上げると、ビルの壁面に固定していたボルトが外れたのか、巨大な物体が真っ逆さまに落下してくる。
それは、タピオカティー店の重厚なアクリル製看板だった。
――あ、これ死ぬわね。さっきの自転車といい、この二重トラップは何か私を殺す気満々な気がするのはなぜかしら。
自転車を避けた反動でフラフラだった身体は既に限界を超えており、もう動きそうにもない。
不思議なことに己の死を冷静に悟った私は、コンマ1秒の判断を下した。
持ち帰って作業しようと、ポケットに忍ばせていた顧客データが入った社外秘USBメモリを引き抜き、隣を歩いていた後輩の口の開いたトートバッグへ、ノーバウンドで正確に投げ入れる!
――シュッ――スポッ!
我ながら完璧な投球だった……いや、野球はやったことないのだけれど。
そして無事に証拠隠滅完了……いや、そもそも持ち出している時点でアウトなのだけれど。
「USB会社に戻して――」
「え!? せんぱ――」
これから死ぬというのに最後の言葉は完全なる業務連絡。
これでよかったの? 私の人生……
直後、私の視界はドゴォン! という轟音とともに暗転し、あっけなく即死したのだった。
◇◆◇
「――おい! 起きろ! しっかりするんじゃ、人間!!」
頬をペチペチと叩かれる感触に、私はゆっくりと意識を取り戻した。
不思議なことに、頭は驚くほど冴えていた。
意識が途切れる直前の出来事も、まるでつい先ほどのことのように鮮明に思い出せる。
そうだ。
私は確かに、タピオカの看板に押し潰されて死んだはずだ。
しかも、圧死という、あまりにも救いのない最期だった。
……なのに、なぜ頬を叩かれる感触があるのかしら。もしかして助かったの?
「んっ……事故は? ……ここは病院?」
困惑しながら、私はそっとまぶたを開いた。
――そして、息を呑んだ。
私が今いる場所は病院などではなかったからだ。
視界の先には、天を支えるかのようにそびえ立つ白亜の柱が幾本も並び、その表面には、精緻な彫刻が幾重にも刻まれていた。
磨き上げられた床は淡い光を湛え、遥か頭上に広がる天井からは、柔らかな光芒が幾筋も降り注いでいる。
その光は、ただ明るいというだけではなかった。
温かく、それでいてどこか畏れを抱かせるような、言葉では言い表せない神聖さを帯びていた。
そして見渡す限り、広大な空間がどこまでも続いている。
柱の向こうには、雲海を思わせる白い靄がたなびき、遠くの輪郭を淡く霞ませていた。
まるで、現世の理から切り離された場所。
人の手で造られたものとは思えない、あまりにも壮麗で、あまりにも静謐な空間だった。
……いや、待って。
これ、どう考えても病院ではない。
豪華なホテルという線も、さすがに無理がありすぎる。
……では、ここは一体どこなのだろう。
視線を巡らせても、医療機器も、白衣を着た医師も、見慣れた病室の面影すら見当たらない。
あるのは、目を疑うほどの荘厳な景色と、肌を撫でる穏やかな空気だけ。
そして、ようやくひとつの可能性が脳裏をよぎった。
……もしかして、ここが噂に聞く、天国という場所なのだろうか。
「よし、無事に目覚めたか……オホン、よくぞ来てくれたのう、神界へ!」
私を見下ろしていたのは、立派な白いヒゲを蓄えたひとりのおじいさんだった。
地面に届きそうなほど長く美しい白銀のヒゲに、金糸で豪華な刺繍が施された純白の神官ローブ。その身から溢れ出る神々しいオーラといい、どこからどう見ても神界にいる神様そのものである。
――ただし、その手に握られているのが、ポテトチップスの袋、でさえなければ……
「わしがこの世界を統括する最高神じゃ! 事故死した哀れな人間よ、まずは……って、ちょっと待て。何じゃその冷ややかな目は!?」
私は静かに体を起こすと、自分のブレザーのシワを伸ばし、冷めた目で自称――最高神とやらを凝視した。
白ヒゲで神々しい見た目をしているのだけれど、この何とも言えないダメな上司感がすごい。
それもそのはずで、よく見たら口元の立派な白ヒゲに、ポテトチップスの食べカスが付いてるのだ。
――そんな調子の最高神だったので、逆に冷静になり、改めて周囲を細かく観察してみたら、違和感に気が付いた。
目を凝らして辺りを見渡せば、ここは単なる荘厳な神殿などではなかった。
木製のデスクのようなものがチラホラと点在し、その上には山積みにされた羊皮紙。
――どこからどう見ても、オフィスにしかみえないのだけれど。
しかも、あちこちのデスクでは、フリルのついた神聖なドレスを着た美しい女神たちが、頭を抱えて取り乱している。
「もう嫌ぁぁあ! 『チート全盛りじゃないならレビュー星1つけてやる』って怒鳴られたのぉぉお!」
「『前世のまとめサイトで読んだから権利を主張する』って……私、もう人間がこわい……っ」
「……人間嫌い、滅びて……」
悲鳴と咽び泣く声が交錯する、凄惨な地獄絵図。
そんなカオスな状況の中、目の前の最高神はポテトチップスの袋を手放すことなく、口を開いた。
「それでお主が神楽坂玲奈だな! 待っておったぞ……!」
「えっと……待っていたと仰っても私にはなんの事だかさっぱりですし、まずはここはどこですか? タピオカの看板で潰されて即死したはずですが」
「ここは神界の異世界転生案内課じゃよ」
そう言うと最高神とやらは突然私の手を両手で固く握りしめ、真剣な表情で語りかけてきた。
あれ? ポテトチップスの袋無くなってる?
いや、それよりもポテトチップスを食べていたベトベトの手で握るのをやめてくれないかしら……
「頼む! お主の……死の間際にとっさに機密情報が入ったUSBメモリを投擲した『圧倒的なリスク管理能力』と『CS歴7年の鋼鉄のメンタル』を買いたい! 我が案内課のCS特別対応女神として就職してくれ!!」
「はい……? 就職……?」
ツッコミどころしかなかったが、そこで止まっていると前へ進みそうになかったので、話を聞くと……状況はこうだった。
本来なら神界の最高機密だったはずの『異世界転生』の情報が、なぜか数年前に現世のインターネットへ漏れてしまったのだという。
要するに、機密情報の漏洩という重大インシデントが発生してしまったようだ。
その結果、やってくる転生希望者は全員、ネットで知識をつけた『テンプレチート全盛り希望』のモンスタークレーマーへと激変。
「不老不死と全属性魔法!」「ハーレム作らせろ!」「対応が悪いぞ女神!」と無理難題を突きつけられるようになり、これまで死後の迷える魂へ優しく寄り添ってきたピュアな聖母系女神たちは次々とメンタルを病んで休職。
神界のカスタマーサポート現場は、完全崩壊の危機に瀕していたのだ。
「……なるほど。機密情報漏洩による客層の悪質化と、それにともなう現場の崩壊が発生したということですね」
「そうなんじゃよ! 聖母のような女神たちでは、理不尽な人間の欲望をさばききれん! 誰か……誰かカスタマーハラスメントに対応できるその道のプロの社会人はおらんかと探しとったんじゃ!」
最高神の手にはいつの間にかポテトチップスの袋がまた握られていた……いつの間に?
興奮しているのか袋はギュッと握られ、中身は粉々だろうなと、どうでもいいことを考えながら私は腕を組み、冷淡な眼差しを向けた。
「お断りいたします。私は前世で散々ブラック企業に尽くして、挙げ句の果てにタピオカ看板に潰されて即死したのです。死んでなお、無償でカスタマーハラスメントの対応なんてお断り――」
「――高給保証!! 完全週休二日制!! 有給消化率100%!! 完全定時退社!! これでどうじゃ!!」
最高神が食い気味に叫んだ。
前世であれば非常に魅力的な内容だけれど、死後にホワイトな労働環境を叫ばれても何も感じない。
それどころか死後にまで働かされそうになっていることに怒りさえ湧いてくる。
「……」
私がどのように言い返そうか悩んでいると、最高神が畳み掛けるようにどこか自信ありげに言った。
「さらに、神界福利厚生として、好きな時に異世界へ自由にアクセスする権利もつけよう! どうか……どうか我が神界を救ってくれぇぇぇ!!」
完全週休二日。残業なし。そして休日は異世界旅行もできる……正直ありなのでは?
前世の社畜生活では考えられない、夢のような労働条件。
「年間休日はどうなっていますか? もちろんありますよね?」
「も、もちろんじゃ! 年間休日120日以上でどうじゃ?」
120日!?
年間休日が80日しかない前世のブラック企業時代からは考えられないホワイトな内容。
でもここで喜んではダメね……
「私の前世の年間休日は実質80日でした。でも求人票には120日と書いてあったんですよね。まさかそのようなことはありませんよね?」
「うぐぅ……もちろん、そんなことは無いと約束しよう」
なんだか怪しい反応を返してきたので、更に追い打ちをかけることに。
「私からも提案がございます。長期休暇を利用して異世界を視察し、そこで得た知見をカスタマー対応の現場へ反映させる――業務効率化の観点から見ても、非常に有意義な長期休暇の使い方かと存じます。ですから……当然、それに見合った日数をいただけますよね?」
「う、うぐぐ……! 分かった、認める! 『異世界業務視察』という名目での特別長期休暇を、年間30日……いや、年間40日追加しよう!! 合計で年間休日160日じゃ!! これでどうじゃ!?」
え……160日!?
前世の私の倍貰えるってこと?
内心では若干動揺しつつも、そんなことはおくびにも出さず、ここは強気で契約交渉を進める。
「まあ……妥当なラインですね。ちなみに給与と手当はどのようになっていますか? 私、ボランティアで働く気は一切ありませんので」
「もちろんだとも! 基本給に加えて、カスタマーの満足度であるCSスコアに応じた『神通力インセンティブ』も支給するぞい! さらに異世界視察用の出張手当として、現地通貨『レネル』も特別支給しよう!!」
……年間休日160日。定時退社。異世界手当(グルメ資金)付き。
悪くないどころか、前世のブラック環境から考えたら天国以上のホワイト企業じゃないかしら。
私はすっと目を細め、静かに人差し指を立てた。
「そこまでおっしゃるのでしたら……条件が一つございます」
「な、なんじゃ!? まだ何かあるのか!?」
「口約束はトラブルの元です。『言った言わない』の平行線は、CSにおいて最も愚かなコストですので。――今仰った条件をすべて明記した『労働条件契約書』を作成してください。最高神様のサインと捺印付きで」
「うぐっ!? ぬ、ぬかりなさすぎるじゃろ……!」
最高神はひぎぃと悲鳴を上げながらも、背に腹は代えられないとばかりに、ポテトチップスの袋を魔法のように消し、何もない空間から取り出した羊皮紙へ条件を書き込み、震える手でサインと拇印を押した。
……魔法? なるほど、それでポテトチップスの袋を自在に出現させたりしていたのね。
私は完成した契約書をうやうやしく受け取り、記載内容に不備や抜け穴がないかサッと目を通す。
――うん、完璧ね。
私は静かにスーツの襟を正し、前世で鍛え上げた営業スマイルを完璧に作った。
「――交渉成立ですね、最高神様。本日より異世界転生案内課のCS特別対応女神として着任いたします。神楽坂玲奈です。よろしくお願いいたします」
「おおお! 頼んだぞ、玲奈!! 我が神界の現場を救ってくれぇぇぇ!!」
こうして、タピオカ看板で即死した元OLの私は、異世界へ転生するのではなく――『異世界へ転生させる側の女神』として、神界に中途採用されたのだった。




