黒衣×黒衣:白の記憶 そのあとに…1
『黒衣 ― 白の記憶 ―』本編の流れに寄り添う、現代を舞台にした番外編をお届けします。
真紅の美しさと強烈な苦みが、有馬遼の心に響くストーリー。
どうぞお楽しみください!
降りしきる冷たい雨が、磨き上げられたショーウィンドウの眩いネオンをアスファルトににじませていた。
表通りの華やかさのすぐ裏に広がる、富と欲望の影が堆積した迷宮のような街。
その冷たい夜気の中を、有馬遼は濡れたコートの肩を払いながら、古びた雑居ビルの地下へと続く階段を下りていた。
政治部のエース記者の椅子を投げ出し、黒いスーツのまま巨大な汚職の闇――「巨魁」と対峙し、すべてを暴き、そして燃え尽きたあの戦いから、どれほどの時間が経っただろうか。
華麗な都市の裏側で心身をすり減らし、すっかり空っぽになった有馬の手元には、あの巨大な組織を敵に回して手に入れた膨大な資料と、二度と戻らないかつての日常だけが残されていた。
ふと、視線の先に小さな真鍮のプレートが目に入る。
――『BAR・白い記憶』。
看板は控えめで、灯りはただ静かに、そこにあるだけのようだった。
「……こんな店、いつの間にあった」
気まぐれか、あるいは導かれるように、有馬は重厚な木の扉を押し開けた。
カラン、と澄んだベルの音が、外の喧騒を完全に切り裂いて響く。
足を踏み入れた店内は、外界の泥臭さが嘘のように静謐で、どこまでも洗練されていた。
壁際の棚には古い洋酒のボトルが並び、カウンターの向こうには、仕立ての良い黒いベストと蝶ネクタイ――「黒衣」をまとった一人のバーテンダーが、静かにグラスを磨いていた。
「いらっしゃいませ」
バーテンダーの蓮は顔を上げ、すべてを見透かすような、しかしどこまでも穏やかな目を向けて一礼した。
「……ずいぶんと重い雨に降られましたね。それに、そのスーツの裾には、とてつもなく深い『闇の泥』がこびりついていらっしゃる」
有馬は自嘲気味に片方の口角を上げ、カウンターの端に腰を下ろした。
「泥、か。図星だな、マスター。俺は今日まで、ずっとその泥を暴くために生きてきた。……だが、すべてが終わってみると、自分のほうがその泥にまみれていたような気になってな」
「人は、真実という名の重荷を背負うとき、誰もが知らず知らずのうちに黒い衣を纏うものです」
蓮は言葉を続けながら、手際よくロックグラスを取り出し、大ぶりの氷を滑り込ませた。ジン、スイート・ベルモット、そして鮮やかな真紅のカンパリ。それらを正確な比率で合わせ、オレンジの皮を軽くひねって香りづけする。
「何か、頭の芯まで冷やしてくれて、それでいて心の澱をすべて洗い流してくれるような酒をくれ」と呟く有馬の前に、蓮は静かにそのグラスを差し出した。
「人生の苦みと甘みをすべて知った大人にこそふさわしい一杯――『ネグローニ』でございます」
差し出されたグラスの中では、夕暮れのような真紅の液体が氷を包み込み、重厚で芳醇な香りを放っていた。
有馬はグラスを取り、ゆっくりと口に含んだ。
瞬間――。
カンパリ特有の、ガツンと脳裏を打つような強烈な苦みが広がり、その直後にベルモットの複雑で深い甘みとジンのキレが追いかけてきた。
「……っ」
決して万人受けする甘い酒ではない。しかし、その圧倒的な「苦みと甘みの同居」が、組織の闇を暴き尽くした有馬の背負ってきた「業」の重さと、奇妙なほどにリンクした。
「美味いな……。苦くて、なのに妙にクセになる」
有馬は息を吐き出し、グラスを見つめた。
「すべてを暴き、組織を潰し、正義を勝たせたはずなのに、胸のつかえが取れなかった。俺のやってきたことは、ただの自己満足だったんじゃないかって、そう思っていたんだが……」
「あなたが命を削って暴き出したものは、正義という名の旗印ではなく、あなた自身の『白い記憶』ではありませんか?」
蓮の静かな声が、有馬の胸の奥に真っ直ぐに落ちた。
「白い、記憶……?」
「ええ。どれほど世界が黒く染まろうとも、あなたが最初にペンを握ったときの純粋な衝動、誰かのために真実を伝えたいと願ったその心は、このグラスの鮮やかな赤のように、誰にも汚すことのできない情熱のまま、ずっとあなたの中に残っているはずです」
有馬は言葉を失った。
政治の闇に挑み、権力者たちの醜い足掻きを見て、すり減りかけていた心が、その一杯の苦みと甘さによってスッと軽くなるのを感じる。
外の世界では、相変わらず雨が降り続き、社会は冷徹なシステムで動き続けている。だが、このカウンターの囲まれた狭い空間だけは、すべての荷物を下ろし、ありのままの自分を取り戻すための、確かな「聖域」だった。
「……参ったな。一流の記者より、一流のバーテンダーのほうが、よっぽど人の心を抉るのがうまいらしい」
有馬は微かに笑い、グラスに残された最後の一口を飲み干した。
氷がカランと音を立て、不思議と視界の霧が晴れたような気がした。
「また来るよ、マスター。……今度は、もう少しマシなニュースを持ってな」
「ええ、いつでもお待ちしております。――お気をつけて、お客様」
カラン、と再び心地よいベルの音が鳴り響き、有馬遼は雨の上がった夜の摩天楼へと歩き出した。
コートのポケットの中で、彼の拳はしっかりと、前を向くための新しい決意を握りしめていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
また新しい物語をお届けできればと思います。
どうぞよろしくお願いいたします!




