第六節 ― 鞘口に映る月
原因を探るため、イロハたちは稽古場の奥へ案内された。
そこは、普通の稽古場とは少し違っていた。
板敷きの床の中央に、低い刀台が置かれている。
その前には、浅い鉄鉢。
壁には古い暁紋の布が掛けられ、左右には戦面を一時的に置くための小さな棚があった。
ここだけは、稽古の場というより、儀礼の場だった。
アヤメが周囲を見渡す。
「ここで、昨夜の試しを?」
ハルマサは頷いた。
「はい。番衆任官前の月試しです」
その言葉に、イロハは鉄鉢を見た。
月試し。
武家の古い儀礼だと、ハルマサは語った。
任官前の夜、戦面を面箱から出す。
刀を前に置く。
鉄鉢の水で刃を清める。
そして戦面をつけ、初めて正式な番衆として刀を抜く。
ただ抜くのではない。
私怨で抜くのではなく。
怒りで抜くのでもなく。
恐怖をごまかすために抜くのでもなく。
役として刀を抜く。
その誓いのための儀礼だった。
「月試しという名ですが、満月の儀ではありません」
年長の武士が補足した。
「月が満ちていようと欠けていようと、己の心に映る刃を見誤るな、という教えです。水に映る月を見て、なお刀が己のものではなく役のものだと知るための試し」
「水に映る月」
イロハは呟いた。
白影宮の月見池。
伏せられた水盆。
空の面箱の中に浮かんだ、空とは形の違う満月。
水は月を呼び込む。
その言葉が、胸の奥で冷たく鳴った。
イロハは鉄鉢へ近づいた。
水はもう替えられていた。朝の光を薄く映し、底には鉄の暗い色が沈んでいる。昨夜の満月は、もちろんそこにはない。
だが、鉢の縁に白いものが残っていた。
月痕ほど濃くはない。
けれど、水位の跡のように、鉢の内側へ淡い白線が走っている。
「この水は、昨夜のものではありませんね」
「明け方に捨てさせました」
年長の武士が答える。
「不吉であるゆえ」
イロハは少しだけ眉を寄せた。
残しておいてくれれば、もっと読めたかもしれない。だが、責めても仕方がない。白化した戦面を見た直後に、月を映した水を置いておくほうが難しい。
「昨夜、空の月はどうでしたか」
イロハが尋ねると、ハルマサが答えた。
「半月でした」
「確かに?」
「はい。わたしも見ました。雲はありましたが、満月ではありません」
アヤメが低く言う。
「白影宮でも同じでした。空には半月しかありませんでした」
だが、面箱の中には満月がいた。
イロハは、刀台の上に置かれたハルマサの刀を見る。
黒い鞘。
暁紋の鍔。
鞘口は磨かれている。
「昨夜、何が見えたのか、順に教えてください」
ハルマサは少し目を伏せた。
思い出すこと自体が苦しいのだろう。
けれど、逃げなかった。
「戦面を面箱から出しました」
彼は言った。
「その時は、まだ白化していませんでした。少なくとも、わたしにはそう見えました」
「月痕も?」
「ありません」
「続けてください」
「刀を前に置き、鉄鉢の水で刃を清めました。手順通りです。面をつける前に、刃の曇りを見るため、鞘口へ月光を当てます」
「月光を?」
「はい。刃そのものではなく、鞘口の影を見るのです。刀を抜く前に、己の影が歪んでいないかを確かめるためだと教わりました」
イロハは鞘口を見た。
狭い黒の奥。
そこに月が映る。
水ではない。鏡でもない。
だが、磨かれた鞘口と刃の気配は、確かに光を受ける。
「その時です」
ハルマサの声が、少し低くなった。
「鉄鉢の水面に、満月が映りました」
稽古場の空気が冷えた。
「空は半月だったのに」
「はい」
「鞘口には?」
ハルマサの指が、刀の鞘へ触れた。
「同じ満月が、映りました」
アヤメの表情が厳しくなる。
「白影宮の面箱と同じですね」
「おそらく」
イロハは頷いた。
空の月とは別の満月。
箱の中に浮かぶ月。
池の底に沈む月。
鉄鉢の水面に映る月。
鞘口に宿る月。
月は、空にあるものだけではない。
映る場所があれば、そこに満ちる。
そして、満ちた月が役の入口を喰う。
「その後、どうなりましたか」
イロハが尋ねる。
「戦面をつけました」
ハルマサは、ゆっくりと言葉を続けた。
「面の内側が、ひどく冷たかった。けれど、儀礼の緊張だと思いました。刀へ手をかけ、名乗ろうとしました」
「名乗り?」
「東暁番衆、ハルマサ=アカツキ。役として刀を抜く、と」
そこで、ハルマサは言葉を止めた。
「言えなかったのですね」
イロハが言うと、彼は頷いた。
「名は言えました。家も。番衆見習いであることも。けれど、役として刀を抜く、の部分だけが……」
「白くなった」
ハルマサは目を見開いた。
イロハは、白化した《アカツキノハ》を見た。
「言葉が出なかったのではなく、そこだけ切り取られたのだと思います」
月試しの場。
戦面。
刀。
鉄鉢の水。
鞘口に映る満月。
まだ正式任官前の、役が確定しきっていない若い武士。
条件が重なっている。
イロハは、自分の中でひとつずつ並べた。
月光。
鏡のような水。
役へ入るための舞台。
役が未確定な者。
仮面籍に、まだ仮の線が残る者。
ユラの神楽面もそうだった。
奉納舞の稽古中。
本番前の舞台。
神を迎える入口。
満月の光。
サヨの面箱もそうだ。
皇女の面がまだ存在しない。
役が未確定。
空の箱に、空にはない満月が浮かぶ。
ハルマサもまた、番衆見習いだった。
正式な役へ入る直前。
月は、その入口を狙った。
「イロハ」
アヤメが呼ぶ。
「わかったのですか」
「少しだけです」
イロハは鉄鉢を見た。
「月は、空にあるものだけではありません。映る場所に入り込むんです。水、面の内側、鞘口。たぶん、光を受けて役を映すものに」
「役を映すもの」
「はい」
イロハはハルマサを見る。
「そして、役がまだ定まりきっていない時ほど、噛みやすい」
ハルマサの顔が強張った。
「わたしが、見習いだったからですか」
「それもあると思います」
イロハは言葉を選んだ。
「ただ、未熟だからという意味ではありません。役へ入る直前だったからです」
アヤメが静かに言った。
「扉が開きかけていた」
「はい。その隙間に、月が入った」
稽古場の外で、風が通った。
暁紋の布が揺れる。
ハルマサは、鉄鉢の前に立った。
水面を見下ろす。
今は、朝の光しか映っていない。
だが、彼には昨夜の満月が見えているのかもしれなかった。
「わたしは、その時、何を思っていたのでしょう」
彼はぽつりと言った。
「任官の試しで失敗してはならぬ。家の名に恥じぬように。番衆として正しくあらねば。そう、そればかり考えていました」
アヤメは何も言わない。
イロハも、すぐには口を開かなかった。
「だから、月に隙を見せたのでしょうか」
「隙というより」
イロハは言った。
「あなた自身の答えが、まだそこになかったのかもしれません」
ハルマサは目を伏せる。
責める言葉ではなかった。
だが、優しいだけの言葉でもない。
役は、与えられる。
家から、番衆から、制度から、面から。
けれど、その役へ入る瞬間だけは、本人の声が必要になる。
それがなければ、月はそこを白くする。
アヤメが鉄鉢を見た。
「月は、刃にも映るのですね」
「水にも、刃にも、面の内側にも」
イロハは頷いた。
「それから、たぶん暦にも」
アヤメがこちらを見る。
「暦?」
「白影宮の箱の月も、昨夜の鞘口の月も、空の月とは合っていませんでした。空は半月だったのに、面箱も水面も満月だった」
イロハは、昨夜の満月を思い出した。
空にないのに、満ちている月。
「暦がずれているのか、月が暦を無視しているのかはわかりません。でも、満月ではない夜に満月が出るなら、暦を見る人たちも何か気づいているかもしれません」
アヤメは低く呟いた。
「陰陽寮」
その名が、稽古場に落ちた。
年長の武士が眉を動かす。
「陰陽寮まで関わると?」
「まだわかりません」
イロハは答えた。
「でも、月の満ち欠けが狂っているなら、いずれ無関係ではいられません」
鉄鉢の水面が、小さく揺れた。
風ではない。
イロハは身を固くする。
水面に、ほんの一瞬だけ白い円が浮かんだ気がした。
すぐに消える。
朝の光だけが戻る。
「見えましたか」
アヤメが問う。
「少し」
イロハは鉄鉢から目を離さなかった。
「水を伏せたほうがいいです」
アヤメはすぐに家臣へ命じた。
「鉄鉢を下げてください。水はそのまま流さず、黒布で覆って保管を」
年長の武士が一瞬、不満げな顔をしたが、昨夜の異常を思い出したのだろう。すぐに頷き、家臣へ合図した。
水は、ただの水ではない。
月を映したものは、すでに月の通り道になっている。
イロハは鞘口へ視線を戻した。
黒い鞘の奥は、今は静かだった。
だが昨夜、そこに満月がいた。
刃へ入る直前の、狭い入口に。
ハルマサが刀を抜けなくなったのは、そのためだ。
月は、役へ入る入口を知っている。
舞台の始まり。
香を焚く手。
御簾を閉じる順。
刀を抜く瞬間。
人が自分の役へ移る、その境目に歯を立てる。
イロハは、白布の上の《アカツキノハ》を見た。
「今夜、もう一度試す必要があります」
ハルマサが顔を上げる。
「月試しを?」
「いいえ」
イロハは首を振った。
「月に試されるのではなく、こちらから見るんです。どこで噛まれるのか。どうすれば噛ませずに、刀を抜けるのか」
ハルマサの喉が動いた。
怖いのだろう。
当然だった。
昨夜、自分から刀を抜く役を奪ったものに、もう一度向き合うのだから。
アヤメが静かに言う。
「逃げるなら、今です」
厳しい言葉だった。
ハルマサはアヤメを見た。
「逃げれば、どうなりますか」
「面は深く喰われるでしょう」
アヤメは淡々と答えた。
「番衆札も、おそらく返上です。仮面籍庁に届ければ、封役の対象になる可能性もあります」
ハルマサは目を伏せた。
「なら、逃げる道はありませんね」
「いいえ」
アヤメの声は冷たいままだった。
「あります。ただし、その道を選んだ時、あなたは自分で役を手放すことになります」
それは、イロハが先ほど言ったことと同じだった。
ハルマサはしばらく沈黙した。
やがて、胸元の番衆札を握る。
「今夜、試します」
声は震えていた。
だが、逃げてはいなかった。
「わたしが、何のために刀を抜くのか。それを、見つけます」
イロハは頷いた。
鉄鉢の水は、黒布で覆われて運び出されていく。
その布の下で、まだ何かが白く揺れているように見えた。
月は空にだけあるのではない。
刃にも、水にも、面の内側にも映る。
そして、映った満月が、役の入口を喰う。
その理解が、イロハの胸の奥に、冷たい形を持って沈んだ。




