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第一節 ― アカツキ家の武家屋敷

 帝都カミザの東郭は、白影宮とはまるで別の都だった。


 同じ帝都の内にありながら、空気の重さが違う。


 白影宮の朝は、白木と沈香と閉じられた御簾の静けさでできていた。歩く者は足音を殺し、言葉は廊下の途中で薄くなる。あそこでは、夜がまだ壁の内側に残っていた。


 けれど東郭には、音があった。


 砂利を踏む音。

 木刀が打ち合う乾いた音。

 鉄具を磨く音。

 馬を引く者の低い掛け声。

 朝稽古を終えた若者たちの、荒い呼吸。


 武家の区画は、雅やかではなかった。


 門は黒鉄で補強され、柱には朱漆が厚く塗られている。白く整えられた宮の門とは違い、そこには傷があった。何度も手がかかり、雨に打たれ、刀の柄や鎧の袖がぶつかった痕がある。


 アカツキ家の門には、暁紋が掲げられていた。


 黒地に、朱の半円。

 夜を裂いて昇る朝の印。


 イロハは門の前で、思わず足を止めた。


 白影宮の月とは違う。


 ここにあるのは、朝の役だった。


 門番がアヤメを見ると、すぐに姿勢を正した。


「白影宮、アヤメ=シラハ様。お待ちしておりました」


 アヤメは短く頷く。


「案内を」


「はっ」


 門をくぐると、庭の奥から木刀の音が聞こえた。


 たん、と乾いた音。

 間を置いて、また、たん。


 稽古場だ。


 だが、音はどこかぎこちなかった。


 勢いのある打ち合いではない。場の空気を壊さぬよう、形だけ稽古を続けているような音だった。屋敷の中で起きた異変を、誰も口にはしないが、誰も無視できていない。


 廊下へ上がると、壁沿いに戦面棚が並んでいた。


 白影宮の面棚とは、まったく違う。


 こちらの棚は太く、硬い。黒漆ではなく、濃い朱と鉄金具で補強されている。面箱も実用一辺倒だった。角には金具、蓋には留め具。持ち運び、陣中に置き、時に雨や血の気配に晒されることを前提にした箱だ。


 面も、静かではない。


 牙を噛みしめた面。

 片目を細めた面。

 眉間に深い皺を刻んだ面。

 口元を閉じ、怒りではなく覚悟だけを残した面。


 どれも、人を脅かすための顔ではなかった。


 戦う時、人が自分を失わぬための顔だった。


 廊下の角には、水盆ではなく、浅い鉄鉢が置かれていた。刀を清めるためのものだろう。底には水が薄く張られ、朝の光が鈍く反射している。


 イロハはその水面を見ないようにした。


 水に月が映る。


 白影宮で、そう知ってしまったからだ。


 案内役の武士が、硬い声で言った。


「アカツキ家は、代々、帝都東郭の警護に関わってまいりました。もとは東方のアカツキ=ハラに根を持つ家です」


 アカツキ=ハラ。


 武家階級の中心に近い土地。

 役を帯びて戦う者たちの都市。


 そこでは、侍はただ刀を差す者ではない。戦面を帯び、名乗り、どの役として戦うかを定めてから刀を抜く。


 戦い方も。

 守り方も。

 死に方さえも。


 面によって変わる。


 イロハは、棚に並ぶ戦面を見ながら、その言葉を思い出した。


 ならば、戦面を白化されるということは、武士にとって何を意味するのか。


 面がなければ、役へ入れない。

 役へ入れなければ、刀はただの刃になる。


 そして、刀を抜けない武士は。


 イロハはそこまで考えて、足を止めた。


 廊下の奥から、低い声が聞こえた。


「臆したのではないのか」


 誰かが、抑えきれぬように言った。


「番衆には向かぬ」


「戦面に拒まれたのだ」


「声を落とせ」


「だが、任官の試しで刀を抜けなかったのだぞ」


「暁家の恥になる」


 アヤメの足が止まった。


 その横顔に、わずかな険しさが浮かぶ。


 白影宮で彼女自身が、刀を抜く理由を失いかけたばかりだった。だからこそ、この言葉がどれほど浅いかも、どれほど残酷かもわかるのだろう。


 案内役の武士は顔を伏せた。


「奥の稽古場におります」


 イロハたちは、さらに奥へ進んだ。


 稽古場は広かった。


 床は磨かれているが、白影宮のような滑らかさではない。何度も踏まれ、打ち込みの衝撃を受け、足裏の熱を吸った床だった。壁には木刀、槍、稽古用の面紐が掛けられている。奥には、鉄鉢と刀台が置かれていた。


 その中央に、若い武士が座っていた。


 ハルマサ=アカツキ。


 暁 晴政。


 年は、イロハやアヤメより少し上か。背筋は伸びている。武士らしい体つきで、肩も腕も鍛えられている。怪我をしている様子はない。顔色は悪いが、身体は動くはずだ。


 それでも、彼はまるで自分の一部を失った者のように、身じろぎもせず座っていた。


 彼の前に、白布に包まれた面が置かれている。


 戦面アカツキノハ


 本来なら、深朱と黒漆を帯びた暁家の戦面なのだろう。


 だが今は、白布に包まれている。


 屋敷の者たちは、その布を見ない。


 見れば、そこにあるものを認めなければならないからだ。


 戦面が白化した。


 若い武士が刀を抜けなかった。


 その事実を。


 ハルマサは、イロハたちが来ても顔を上げなかった。


 怒っているのではない。

 泣いているのでもない。

 恥じているというより、もっと深い場所で、自分を見失っている。


 自分はまだ武士なのか。


 その問いに、答えられずにいる顔だった。


 アヤメが一歩前に出る。


「ハルマサ=アカツキ殿」


 ハルマサは、ゆっくり顔を上げた。


 目は濁っていない。

 だが、焦点が少し遠い。


「白影宮の……」


「アヤメ=シラハです。こちらは面師イロハ=ナギ」


 イロハは頭を下げた。


「面を診に来ました」


 ハルマサは、白布に包まれた戦面を見た。


「診ても、無駄かもしれません」


 低い声だった。


「刀を抜けぬ者に、戦面など」


 アヤメがわずかに眉を寄せる。


 イロハは、その前に言った。


「まだ、そう決めないでください」


 ハルマサの視線が、初めてイロハに向いた。


 不信。

 疲労。

 そして、少しの苛立ち。


「あなたに何がわかる」


「わかりません」


 イロハは正直に答えた。


 周囲の武士たちが、ざわりとする。


 だがイロハは続けた。


「だから、診ます」


 ハルマサは黙った。


 イロハは稽古場の空気を吸った。


 鉄の匂い。

 汗の匂い。

 朱漆と古い木の匂い。

 沈香では閉じられない、武家の朝の匂い。


 その中に、ひと筋だけ、白い月の匂いが混じっている。


 白化面の近くにある、あの冷たい匂い。


 イロハは白布へ近づいた。


 屋敷の者たちが、息を詰める。


 誰も止めない。

 けれど、誰も触れたくない。


 ハルマサだけが、白布を見つめている。


 まるでその中に、自分の死んだ顔が入っているとでも思っているようだった。


 イロハは膝をつき、白布の手前で止まった。


「開いても?」


 ハルマサは少し遅れて頷いた。


「お願いします」


 イロハは白布に手をかけた。


 布を開く前に、アヤメが低く言う。


「イロハ」


「はい」


「無理はしないでください」


 その声には、昨夜とは違う響きがあった。


 警戒だけではない。


 白影宮の面箱の前で、イロハが月に引き込まれかけたことを、アヤメは覚えている。


 イロハは小さく頷いた。


「気をつけます」


 白布を開く。


 戦面アカツキノハが現れた。


 深朱の面だった。


 ただし、その右目元から頬にかけて、白い噛み跡のような月痕が走っている。


 その白は、塗料ではない。

 欠けでも、汚れでもない。


 月が触れた白。


 役を喰おうとする白。


 戦面の表情は、怒りではなかった。


 目元は鋭いが、荒々しくはない。口元は閉じられ、頬の線には静かな覚悟がある。敵を斬りたい顔ではない。刀を抜くべき時を知っている顔だ。


 だが、その右目だけが、白い痕によって迷って見えた。


 イロハは息を呑んだ。


「これは……」


 アヤメが問う。


「白化ですか」


「白化しかけています」


 イロハは面から目を離さなかった。


「でも、まだ完全ではありません」


 ハルマサの指がわずかに動いた。


「完全ではない?」


「はい」


 イロハは白布越しに、面の縁へ触れた。


 月の冷たさが指先に伝わる。


「この面は、まだ死んでいません」


 その言葉に、稽古場が静まった。


 ハルマサは、初めて深く息を吸った。


 彼は泣かなかった。

 怒りもしなかった。


 ただ、今にも崩れそうな顔で、白化した戦面を見つめていた。


 自分がまだ完全には武士でなくなったわけではない。


 その可能性が、どれほど彼にとって重いか。


 イロハにも少しだけわかった。


 だが、月痕は確かに深い。


 ユラの神楽面とは違う。

 カンナの香役面とも違う。

 アヤメの宮中札とも違う。


 この月痕は、抜く瞬間を噛んでいる。


 刀を抜く、その入口だけを。


 イロハは、まだ口には出さなかった。


 まずは本人を見なければならない。


 戦面だけではなく。


 その面によって、何として立つはずだったのかを。


 ハルマサ=アカツキは、白布の上の《アカツキノハ》を見つめ続けていた。


 怒るでもなく、泣くでもなく。


 ただ、自分が武士ではなくなったかのように。


 そしてイロハは、その沈黙の中に、月に噛まれた役の痛みを見た。

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