第三節 ― 香を忘れた女房
カンナ=ツキシロは、東廊の香炉の前で待っていた。
昨夜と同じ場所だった。
朝になり、月除けの竹簾は上げられている。御簾の隙間から差す光は柔らかく、廊下の白木を淡く照らしていた。昨夜、沈香の煙が流れていた場所には、今はほとんど香りが残っていない。
ただ、香炉だけがそこにあった。
黒陶の小さな香炉。
蓋には月を避けるための雲紋が彫られている。
灰は綺麗にならされ、銀の香匙と香包みが横に置かれていた。
何も乱れていない。
だからこそ、そこに立つカンナの不安が、余計にはっきり見えた。
カンナは若い女房だった。
年はイロハより少し上だろうか。月白の姓にふさわしく、白に近い淡灰の小袖を着ている。袖口には、細い香煙の刺繍。腰には香役の小面札。髪は丁寧にまとめられているが、目の下には昨夜眠れなかった影があった。
彼女はイロハを見ると、深く頭を下げた。
「イロハ様」
「様はいりません」
「ですが、白影宮へお招きした面師様ですので」
「路地裏の中級面師です」
カンナは困ったように微笑んだ。
「では、イロハ様で」
押し切られた。
イロハは少しだけ肩を落とし、アヤメを見た。アヤメは何も言わない。むしろ、白影宮の作法に慣れていないイロハのほうを観察しているようだった。
「昨夜のことを、覚えていますか」
イロハが尋ねると、カンナの表情が曇った。
「はい。……いえ、覚えているところと、覚えていないところがございます」
「名前は」
「カンナ=ツキシロ」
「家は」
「ツキシロ家。代々、白影宮の香に仕えております。祖母も母も、香役でした」
「香木の種類は」
カンナはすぐに答えた。
「白檀、沈香、伽羅、丁子、安息香。白影宮では、朝は白檀を薄く、昼は控え、夜は沈香を使います。月が強い夜は、沈香に月除けの草を少し混ぜます」
「手順は」
「灰をならし、火種を起こし、香を置き、蓋を半目だけ開けます。東廊は風が抜けやすいので、煙が寝所へ直に流れぬよう、蓋の向きを少し変えます」
答えは淀みない。
手順も知識も残っている。
イロハは香炉の前を指した。
「では、実際に立ってみてください」
カンナは小さく頷いた。
香炉の前へ進む。
一歩。
二歩。
問題はなかった。
けれど、香炉の正面で足が止まった瞬間、彼女の指先が震え始めた。
イロハは黙って見ていた。
カンナは銀の香匙を手に取る。取れる。香包みも開けられる。沈香を見分けることもできる。灰をならす仕草も、途中までは自然だった。
だが、香を置く直前で手が止まった。
昨夜と同じだった。
彼女は香匙を持ったまま、じっと香炉を見つめる。
「……なぜ」
カンナの声が細く落ちた。
「なぜ、わたくしは今、この香を置くのでしょう」
廊下に控えていた女房たちの気配が揺れる。
カンナは涙をこらえるように唇を噛んだ。
「香の名はわかります。置き方も、灰の温度も、煙の逃がし方もわかります。でも、なぜこの時刻に、なぜこの廊下で、なぜわたくしがするのかが……」
香匙が震えた。
「わからないのです」
イロハは、作業台の代わりに廊下の床へ白布を敷いた。
「香役面を見せてください」
カンナは腰の小面札ではなく、傍らに置いていた小さな面箱を差し出した。中には、香役の職面が入っている。
小さな面だった。
顔につけるためというより、香箱や香炉のそばへ置き、その役を示すための面だ。鼻筋は細く、目元は半ば伏せられ、口元は香煙を乱さないよう柔らかく閉じている。穏やかな面だった。
しかし、イロハはすぐに異常を見つけた。
表側ではない。
面を裏返す。
内側、鼻筋の裏から右頬のあたりへ、白い細線が浮かんでいる。ユラの神楽面ほど深くはない。白化もしていない。けれど確かに、噛み跡のような月痕がある。
イロハは指先で触れず、白布越しにその線をなぞった。
視界の端に、白いちらつきが走る。
月の残像。
昨夜よりも薄いが、まだ消えない。
「浅いです」
イロハは言った。
カンナが顔を上げる。
「治りますか」
「治せる傷です。でも、傷は面だけではありません」
「わたくしにも?」
「あなたの手順は残っています。知識もあります。名前も、家も、香木の扱いも」
イロハは香役面を布の上へ置いた。
「でも、役の芯が抜かれかけています」
「役の芯……」
「なぜそれをするのか。誰のためにするのか。自分がその場所に立つ意味です」
カンナは香炉を見た。
香炉は黙っている。
そこに沈香を置けば、煙は立つ。
煙が立てば、香りは流れる。
けれど、その香りが何を閉じ、何を守っていたのかが見えない。
それは、技術を失ったわけではない。
役の意味を喰われている。
「ユラさんの時と似ています」
イロハはぽつりと言った。
アヤメが反応する。
「白化した神楽師の?」
「はい。ユラさんが失ったのは、神を迎える沈黙でした。足運びや袖の動きは覚えていた。でも、舞が舞になるための入口だけが抜けていた」
イロハはカンナを見る。
「カンナさんが失ったのは、宮の夜を整える役です」
「宮の夜を……」
「香を焚く技術ではありません。香で白影宮の夜を閉じるという役。その意味が、月に噛まれています」
言葉にすると、廊下の空気が少し冷えた。
女房たちは互いに顔を見合わせる。
香役。
それは派手な役ではない。
神楽師のように舞台へ立つわけでもない。
武士のように刀を抜くわけでもない。
役所の帳に大きく記される役でもない。
けれど、その役が欠ければ夜が閉じない。
月が入り込む。
誰かが眠れなくなる。
「月は」
イロハは香役面を見つめながら言った。
「大きな役だけを喰うわけではないんですね」
アヤメが黙る。
「舞台に立つ役も、香を替える役も、廊下を閉じる役も、池の水面を整える役も。世界がその人を必要としている場所なら、月はそこを喰う」
カンナの肩が震えた。
「わたくしの役など、小さなものです」
「小さくありません」
イロハはすぐに言った。
カンナは驚いたように彼女を見る。
イロハは少しだけ言葉を探した。
ロウセツなら、もっと乱暴に言っただろう。
小せえ役なんざねえ。小せえと思ってるやつの目が小せえんだ、と。
イロハは、そうは言わなかった。
「面は、大きさで役を決めません」
彼女は香役面をそっと持ち上げた。
「この面は、香の煙を乱さない顔をしています。目立つ面ではありません。でも、この宮の夜が眠るためには必要な面です」
カンナは、口元を押さえた。
「必要……」
その言葉を、彼女自身が信じきれていないようだった。
そこへ、静かな足音が近づいた。
女房たちが一斉に膝をつく。
アヤメが振り返る。
サヨ=ミカゲが、東廊に立っていた。
朝の衣に着替えている。月白の衣の上に、薄墨色の羽織。髪はゆるく結われ、顔色は少し悪い。昨夜、ほとんど眠れていないのだろう。
けれどその目は、はっきりとカンナを見ていた。
「サヨ様。お休み中では」
アヤメが言うと、サヨは首を振った。
「カンナの役が揺れているのでしょう」
カンナは香匙を置き、深く頭を下げた。
「申し訳ございません。サヨ様。わたくし、また……」
「謝らないで」
サヨは近づいた。
その歩みは静かだった。面を持たない皇女の歩み。正式な皇女面を持たず、宮の中心の棚に何も置かれていない少女の歩み。
けれど、カンナの前に立つ時、その姿には確かな重みがあった。
「カンナ」
「はい」
「あなたは、夜の香で宮を眠らせる役です」
カンナの目が揺れた。
「……わたくしが?」
「そう」
サヨは東廊の奥へ視線を向けた。
「あなたの香がなければ、この宮の夜は閉じません」
沈黙が落ちる。
それは重い沈黙ではなかった。
何かが戻る前の、ほんの短い間だった。
カンナの手が、ゆっくりと香匙へ伸びた。
先ほどまで震えていた指が、少しだけ落ち着いている。彼女は沈香を取り、灰の上へ置いた。火種を移す。蓋の向きをわずかに変える。
手順は同じ。
けれど、さっきとは違った。
香を置く手が、ただの作業ではなくなった。
カンナは、小さく息を吸った。
「夜を、閉じる」
「ええ」
「サヨ様が、眠れるように」
「それも、あなたの役です」
「白影宮が、月に開かれないように」
「そうです」
カンナの目に涙が浮かんだ。
けれど今度は、崩れ落ちなかった。
沈香の煙が立ち上る。
朝に焚くには少し深い香りだった。だが、白影宮の東廊にはよく似合った。昨夜の名残を鎮め、昼へ移る前に、まだ開いたままの夜の縁をそっと閉じる香。
煙が流れた瞬間、香役面の内側にあった白い細線が、ほんの少しだけ薄れた。
イロハはそれを見逃さなかった。
完全に消えたわけではない。
月痕は残っている。
けれど、役が言葉によって支えられたぶん、傷が深まるのを止めた。
「今のは」
アヤメが低く尋ねた。
「戻ったのですか」
「戻ったというより、縫い止めたんです」
イロハは答えた。
「サヨ様が、役を言葉にしたから」
サヨは香の煙を見ている。
「わたしは、覚えていただけです」
「覚えていることが、役を支えています」
イロハが言うと、サヨは少しだけこちらを見た。
その目には、戸惑いがあった。
自分のしていることを、そう呼ばれたことがなかったのだろう。
サヨは面を持たない。
自分の役を知らない。
けれど、他者の喰われかけた役を覚え、それを呼ぶことができる。
そのこと自体が、ひとつの役ではないのか。
イロハは、そう思った。
けれど口には出さなかった。
まだ早い。
サヨ自身も、白影宮も、その言葉を受け取る準備ができていない。
カンナは香炉の前で、深く頭を下げた。
「サヨ様。イロハ様。ありがとうございます」
イロハは首を振る。
「私は診ただけです」
「それでも、わたくしは、自分が何を忘れていたのかわかりました」
カンナは香煙の向こうで、小さく笑った。
「忘れたものがわかるだけでも、怖さが少し減るのですね」
その言葉は、イロハの胸に静かに刺さった。
何を失ったのかわからない怖さ。
それを、イロハは知っている。
サヨも、おそらく知っている。
アヤメだけが、ふたりの表情を見比べた。
何かに気づいたようだったが、何も言わなかった。
沈香の煙は、東廊をゆっくり流れていく。
白影宮の朝は、ようやく少しだけ朝らしくなった。
だがイロハは、香役面の内側に残った月痕を見ていた。
浅い。
けれど確かにある。
月は、舞台だけを喰うのではない。
名高い役だけを選ぶのでもない。
誰かが誰かのために、毎日続けてきた小さな役にさえ、静かに歯を立てる。
そして、世界がそれを「小さな役」と見過ごすほど、月は入り込みやすくなる。
イロハは白布で香役面を包み直した。
「カンナさん」
「はい」
「今夜も、香を焚いてください。ただし、ひとりではなく、誰かに役を言葉で添えてもらってください」
「言葉で?」
「はい。『あなたは夜の香で宮を眠らせる役』と。焚く前に、必ず」
カンナはサヨを見た。
サヨは静かに頷いた。
「今夜は、わたしが言います」
カンナの目が潤んだ。
「はい」
アヤメが小さく息を吐いた。
安堵ではあるが、完全なものではない。
今夜。
また夜が来る。
面箱の中の月は、きっとまた満ちる。
イロハは廊下の奥を見た。
中央の空棚。
空の面箱。
まだ来ない皇女の面。
そのすべてが、沈香の煙の向こうで、こちらを待っているように見えた。




