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第二話 道は残るが、人は落ちる

《都市崩壊まで:03:59:59》


焼き菓子が、床に落ちた。


乾いた音だった。


測量局三階、北側観測室。 窓の外には、朝の王都ラグナベイルがあった。


白亜の城壁。 第七城壁。 魔導排水路。 浮遊石を組み込んだ高架軌道。 王城へ伸びる石畳の大通り。 外周水濠に映る、千年王都の輪郭。


まだ壊れていない。


まだ沈んでいない。


まだ東区画は、地図の上にあった。


「おい、レン。拾えよ。俺の朝飯だぞ」


ガストが笑っていた。


右足は、机の下にある。 瓦礫に挟まれていない。 血もない。 骨も折れていない。 足首の角度も、まだ正しい。


レンは床の焼き菓子を見た。


次に、ガストの右足を見た。


ガストの眉が寄る。


「……なんだ、その顔」


レンは答えなかった。


左手の親指が、口元へ上がりかけた。


ガストの手が伸びる。 レンの手首をつかむ。


「噛むな」


レンの手が止まった。


「また崩落事故の話でも聞いたのか」


「違う」


「じゃあ何だ」


レンは床の焼き菓子を拾わなかった。


視界の端に、文字が浮かんでいた。


《前回介入ログ》


荷重補強:成功

排水経路変更:成功

避難導線再設計:成功

空間固定:失敗


救助数:464

未解明要因:王城地下核


ガストが机を叩いた。


「おい。聞いてるか」


レンは、ようやく顔を上げた。


「ガスト」


「何だよ」


「東区画に行くな」


「理由は」


「四時間後、東区画は消える」


「崩れる、じゃなくてか」


「消える」


ガストは笑わなかった。


普通なら、笑う。 怒る。 医務室へ連れていこうとする。


だが、ガストはレンの目を見ていた。


レンが測量のことで冗談を言わないことを知っている顔だった。


「どこまで見えてる」


「東区画。南東第三区排水弁。第七城壁東側防壁。東通路。王城地下核」


「多いな」


「少ない」


レンは机の上の測量図を引き寄せた。


王都ラグナベイル全図。 王城を中心に、城壁が円環を描いている。 外周水濠から分岐する水路。 雨水路。 生活排水路。 熱導管。 地脈炉から伸びる圧力線。 高架軌道の支柱群。


レンには、それが都市の身体に見えていた。


道路は血管。 下水は内臓。 地脈は神経。 建築は骨格。


そして東区画だけが、薄い。


皮膚の下から、血の色が抜けている。


《都市状態診断:ラグナベイル》


水系循環:崩壊予兆

荷重構造:歪曲進行中

地脈炉:過圧

避難導線:未整理

空間固定:臨界低下

人口保持率:99.8%


【総合判定】

崩壊確定


【推奨行動】

即時避難


ガストが図面をのぞきこんだ。


「また変な文字を見てる顔だな」


「見えている」


「俺には見えねえ」


「なら聞け」


レンは赤鉛筆を取った。


東区画に丸をつける。 第七城壁東側防壁に線を引く。 南東第三区排水弁に斜線を入れる。 東通路に矢印を置く。 王城地下に、小さな点を打つ。


その点を打った瞬間、鉛筆の芯が折れた。


ガストが目を細める。


「そこが死因か」


「未解明要因」


「同じだろ」


「違う。死因と決めるには、まだ測れていない」


「お前らしいな」


ガストは床の焼き菓子を拾った。 割れていた。


半分をレンの机に置く。


「食え。頭を使う前に」


レンは手を伸ばした。


指先は、焼き菓子に触れなかった。


前回、ガストは瓦礫の下で同じものを渡そうとした。


戻ってこい。


生きてるうちに言うのは、これだけだ。


レンは赤鉛筆を握り直した。


「前回、荷重補強は成功した」


「前回って何だ」


「説明すると時間を失う」


「説明しろ」


「四時間後、お前は東区画で右足を潰される」


ガストの口が止まった。


観測室の外で、測量局員たちの声がした。 いつもの朝だった。


誰かが水位計の記録を読み上げている。 誰かが高架軌道支柱の沈下量に文句を言っている。 誰かが排水路の臭いを嫌がって窓を閉めている。


王都は、普通の顔で死に向かっていた。


ガストが低く言った。


「俺の右足を潰したのは、何だ」


レンは第七城壁東側防壁を指した。


「装飾梁」


「崩落か」


「違う」


レンは線を一本引いた。


東側防壁から、南東第三区排水弁へ。 そこから東通路へ。


「俺が補強したせいだ」


ガストは黙った。


「前回、東区画防壁に荷重補強を入れた。補強自体は成功した。だが、排水弁を閉じたことで地下水圧が横に逃げた。防壁基礎がわずかに滑った」


赤鉛筆の先が、図面を削った。


「本来なら防壁は大きく崩れるはずだった。だが補強で持ちこたえた。持ちこたえたから、装飾梁だけが遅れて落ちた」


ガストの目が、レンから図面へ落ちる。


「それが俺の足に来た」


「そうだ」


「成功したからか」


「成功したからだ」


ガストは、半分に割れた焼き菓子を見た。


「……ほんと、最低だな。お前」


レンは何も言わなかった。


その台詞は、前回も聞いた。 瓦礫の下で。 血の匂いの中で。 ガストが死ぬ前に。


今のガストは、生きている。 右足もある。


だから同じ言葉なのに、痛みの位置が違った。


《都市崩壊まで:03:47:18》


レンは図面の余白に、前回の因果を書き出した。


荷重補強:成功。

防壁全体崩落を遅延。

装飾梁落下位置が変化。

ガスト右下肢損傷。


排水経路変更:成功。

南東第三区排水弁閉鎖。

東通路水没回避。

地下水圧偏向。


避難導線再設計:成功。

東通路へ誘導。

救助数四百六十四。


空間固定:失敗。

東区画座標欠落。

救助者の一部消失。


成功。 成功。 成功。 失敗。


だが、成功した三つも無傷ではなかった。


「前回と同じ手順は使えない」


ガストが言った。


「使えば俺の足が潰れるからか」


「それだけじゃない。空間固定に失敗すれば、救助した人間ごと消える」


「なら空間固定を先にやれ」


「リソースが足りない」


「出たな。お前の嫌いなやつ」


レンの視界に表示が開いた。


《都市再設計システム:起動》


【利用可能リソース:5】


【介入候補】


1. 荷重補強:東区画防壁 消費2



2. 排水経路変更:南東第三区排水弁閉鎖 消費2



3. 避難導線再設計:東通路集約 消費1



4. 空間固定補助:対象未指定 消費3



5. 地脈圧逃がし:王城地下導管 消費4




【警告】

前回失敗項目:空間固定

未解明要因:王城地下核


ガストには見えていない。 だがレンの顔で分かったらしい。


「何が増えた」


「空間固定補助」


「前はなかったのか」


「なかった。あるいは、見ていなかった」


「どっちだ」


「後者なら、俺の失敗だ」


ガストは短く息を吐いた。


「で、何点足りねえ」


レンは候補を組んだ。


空間固定補助。 排水経路変更。 避難導線再設計。


消費六。


一点足りない。


さらに荷重補強まで入れれば八。 王城地下導管まで触るなら、九。


利用可能リソースは五。


都市は、五本の指で百二十万人を支えろと言っていた。


「空間固定、排水、避難導線。この三つで六」


「一点足りねえな」


「荷重補強を捨てれば五にできる」


「俺の足は助かるか」


「装飾梁の落下パターンは変わる」


「助かるか」


レンはガストの右足を見た。


《個体予測:ガスト》

生存確率:測定中

右下肢損傷確率:低下

死亡要因候補:防壁全体崩落/群衆圧壊/座標欠落


「右足は、前回より助かる」


「俺は?」


「不明」


「便利な言葉だな」


「正確な言葉だ」


ガストは測量杭を肩に担いだ。 いつもの太い杭だった。 ガストが持つと、測量器具というより、門を壊す道具に見える。


「俺は東通路に行く」


「行くなと言った」


「お前が空間を固定するなら、そこに人を流す奴がいる」


「別の局員でいい」


「お前が名前も知らねえ奴か」


レンは黙った。


ガストが扉へ向かう。


「俺を助けたいなら、俺の動ける道を設計しろ」


「お前を現場に出せば、死ぬ確率が上がる」


「出さなきゃ、通路が詰まってもっと死ぬんだろ」


その通りだった。


ガストは、レンを人間側につなぎ止める存在だった。 だが同時に、現場で人間を動かせる測量士でもあった。


声が大きい。 身体が大きい。 測量杭を振るうと、群衆が道を開ける。


レンにはできない。


レンは都市を測れる。 ガストは人を動かせる。


どちらか片方では、東通路は成立しない。


「第七城壁東側、防壁下には入るな」


「聞いた」


「装飾梁の影を踏むな」


「影?」


「前回、影の内側にいた」


「覚えとく」


「南東第三区排水路口に近づくな。逆流する」


「それも聞いた」


「群衆が東通路に寄りすぎたら、北側市場路を開けるな」


ガストが振り返った。


「開けるな?」


「そこは空間固定できない」


「でも詰まったら?」


「詰まらせるな」


ガストは鼻で笑った。


「無茶言うな」


「無茶しか残っていない」


ガストは扉を開けた。


レンが言った。


「ガスト」


「何だ」


「戻ってこい」


前回、ガストが言った言葉だった。


ガストは一瞬だけ黙った。


「命令が雑だな」


扉が閉まった。


レンは、机の上に残された焼き菓子を見た。 割れた半分。 粉が図面の東区画に落ちている。


レンはそれを払わなかった。


《都市崩壊まで:03:34:02》


設計案を組む。


【設計案】


空間固定補助:東通路

排水経路変更:南東第三区排水弁閉鎖

避難導線再設計:東通路集約


消費リソース:6

残リソース:不足


《実行不能》


レンは目を細めた。


「対象未指定」


空間固定補助の項目を開く。


《空間固定補助:対象設定》


対象形式:

区画

導線

単点


区画固定:消費7

導線固定:消費3

単点固定:消費1


【注意】

導線固定には最低三点の固定点が推奨されます。

固定点不足時、座標剥離が発生する可能性があります。


レンの手が止まった。


前回は、東区画全体を救おうとしていた。 だから失敗した。


区画固定には、リソース七が必要。 持っているのは五。


足りないものを、足りないまま実行した。 結果、空間固定率はゼロになった。


「区画ではない」


レンは東通路に赤線を引いた。


東区画から王城方面へ抜ける、細い導線。 人間が通れる幅。 荷車二台がすれ違うには狭い。 だが市場路より直線的で、高架支柱の倒壊範囲からも外れている。


ここを残す。


区画ではなく、道を残す。


ただし、導線固定には三点がいる。


入口。 中央。 出口。


消費三。


排水経路変更で二。 避難導線再設計で一。


合計六。


やはり一点足りない。


レンは唇を閉じた。


避難導線再設計を外せば、導線は残っても人が集まらない。


排水を外せば、東通路が沈む。


空間固定を一点減らせば、道は残るが、どこかが剥がれる。


レンは図面を見た。


入口固定。 中央固定。 出口固定。


三点必要。 だが二点しか打てない。


入口と中央を固定すれば、東通路へ入った者は途中まで残る。 出口が剥がれれば、出られない。


中央と出口を固定すれば、出口へ近い者は助かる。 入口が剥がれれば、そもそも道へ入れない。


入口と出口を固定すれば、両端は残る。 中央が剥がれれば、道の途中で落ちる。


どれが一番死ぬか。


レンは計算した。


《導線固定シミュレーション》


案A:入口・中央固定

出口座標剥離

予測救助数:286

出口滞留死傷:高


案B:中央・出口固定

入口座標剥離

予測救助数:198

導線流入失敗:高


案C:入口・出口固定

中央座標剥離

予測救助数:341

中間落下危険:極高


レンは案Cを見た。


救助数は最も多い。 入口と出口が残る。 人は道へ入れる。 人は道から出られる。


だが中央が落ちる。


道はある。 入口もある。 出口もある。 その間に、穴が開く。


見た目には、通れるように見えるかもしれない。


レンは赤鉛筆で、東通路の中央に×をつけた。


そこに落ちるのは、誰だ。


数字は出る。 名前は出ない。


《予測中間落下数:72〜119》


レンは、焼き菓子の粉を見た。


名前が出ないなら、死なないわけではない。


「案C」


声に出した。


喉が乾いていた。


【設計案】


空間固定補助:東通路入口

空間固定補助:東通路出口

排水経路変更:南東第三区排水弁閉鎖

避難導線再設計:東通路集約


消費リソース:5

残リソース:0


【未実行】

荷重補強:東区画防壁

空間固定補助:東通路中央

地脈圧逃がし:王城地下導管


【警告】

導線中央部に座標剥離の危険があります。

防壁崩落時刻が前倒しされます。

中間落下が発生する可能性があります。


実行しますか。


レンは右手を握った。


左手の親指が、また口元へ上がりかける。


ガストの手は、もうない。


レンは親指を噛まなかった。


「実行」


《都市再設計:実行》


《空間固定補助:東通路入口》

《空間固定補助:東通路出口》

《排水経路変更:南東第三区排水弁閉鎖》

《避難導線再設計:東通路集約》


《残リソース:0》


王都が鳴った。


鐘ではない。 石の奥。 管の奥。 地脈の奥。 都市の骨が、ほんの少し組み替わる音だった。


窓の外で、人の流れが変わった。


荷車が道を塞ぐ。 その横を、行商人が迂回する。 迂回した先で、巡回兵が市場路を閉じる。 閉じられた群衆が、東通路へ流れる。


偶然ではない。


都市が、レンの設計に沿って死に方を変えている。


《避難導線再設計:進行中》

《対象人口:18,440》

《誘導成功率:33.8%》


低い。


レンは測量器を肩にかけた。


王城地下へ向かうべきだった。


未解明要因は、王城地下核。 そこを測らなければ、次も同じ崩壊に戻される。


だが、東通路中央には固定点がない。


そこに穴が開く。


レンは測量局を出た。


局長の声が背後から飛ぶ。


「クロガネ! どこへ行く!」


「東通路です」


「命令は出していない!」


「出してからでは遅れます」


「貴様、E級だぞ!」


レンは振り返らなかった。


《都市崩壊まで:03:03:21》


王都の匂いが変わっていた。


朝市の焼き油。 水路の湿り気。 浮遊石車両の魔力焦げ。 生活排水路の温い臭気。


その下に、死臭がある。


まだ誰も死んでいない。 だが都市はもう、死ぬ準備をしている。


東通路は、もう道ではなくなりかけていた。


露店の布が裂け、支柱ごと人波に飲まれた。 転がった林檎が靴底で潰れ、甘い匂いと泥の匂いが混じる。 荷車の車輪に足を取られた男が倒れ、倒れた男の背中を、後ろから来た誰かの膝が踏んだ。


「押すな!」 「子供がいる!」 「戻れ、戻れって言ってるだろ!」 「どこへ逃げればいいんだよ!」


誰も、自分が避難しているとは思っていない。


ただ、前にいる人間の背中に押され、後ろから来る肘に押され、息を吸う場所を奪い合っていた。


その混濁の上から、ガストの声が落ちてきた。


「右に寄れ! 荷車を捨てろ! 命と木箱を比べるな!」


測量杭が、横薙ぎに入った。


人を殴るためではない。 人波を割るためだった。


杭の先が荷車の側板を叩き割る。 積まれていた壺が落ち、割れた破片が石畳を跳ねる。 ガストはその破片を踏んで、顔をしかめもしなかった。


「足元を見るな! 前の奴の襟を掴め! 倒れた奴は二人で起こせ! 一人で助けようとするな、詰まる!」


声が大きい。


だが、何度も怒鳴るうちに、少しずつ喉が削れていく。 それでもガストの声だけが、群衆の中で一本の杭みたいに立っていた。


レンには、群衆が流量として見える。


毎秒何人が入口へ流入するか。 どの地点で密度が上がるか。 どこで足が止まり、どこで圧が溜まるか。


ガストの前では違う。


肘がある。 膝がある。 泣き声がある。 重さがある。


レンの視界では、群衆は線だった。 ガストの前では、人間だった。


「ガスト!」


ガストが振り向く。


「来るなって言ったろ!」


「言っていない」


「顔で言ってた!」


その瞬間、地面が沈んだ。


一拍遅れて、水が噴き上がる。


南東第三区排水弁閉鎖。 逆流。 予測通り。


だが、水量が多い。


《警告》

生活排水路から雨水路への逆流を確認。

原因:旧市街未登録暗渠


未登録暗渠。


図面にない水路。 千年王都の古い傷。 誰も記録していない内臓。


水が東通路の脇を削った。


人の流れが膨らむ。 入口固定点へ圧が集まる。 固定された場所ほど、人はそこへ寄る。


「寄るな!」


レンは叫んだ。


だが人は、見えない固定点を知らない。


人は、揺れない場所を選ぶ。


それは本能だった。 誰も固定点など知らない。 空間固定という言葉も知らない。


ただ、そこだけ石畳が沈まない。 そこだけ水が噴かない。 そこだけ足裏が、地面を信じられる。


だから集まる。


女が子供を抱えて、入口の光る石畳へ寄る。 老人が杖を突いて、そこに膝を入れる。 荷物を捨てられない商人が、箱を抱えたまま割り込む。 後ろから押された兵士の肘が、子供の頬に当たる。


子供が泣いた。


その泣き声も、すぐに怒号と呼吸音に潰された。


《東通路入口:固定維持》

《群衆密度:危険域》

《圧壊予測:45秒後》


レンの視界では、数字だった。


現場では、肋骨が軋む音だった。


ガストが測量杭で荷車を押し倒した。


「荷物を捨てろ! 東通路に入ったら止まるな!」


人が流れる。 圧が抜ける。


レンは東通路中央を見た。


そこだけが、薄い。


石畳はある。 水も流れていない。 瓦礫もない。


だが、座標が弱い。


地図の線が、そこだけ紙から浮いている。


「中央を踏むな!」


ガストが叫び返す。


「どこだ!」


レンは走った。


測量針を抜く。 東通路中央へ向かう。 固定点は打てない。 リソースは残っていない。


できるのは、測ることだけ。


測れば、落ちる場所が分かる。 落ちる前に止められるかもしれない。


東通路中央に、ひびが入った。


ひびではない。


石が割れているのではない。 石の存在が、細く剥がれている。


向こう側に空洞があるのではない。 向こう側がない。


《東通路中央:座標剥離開始》

《物理崩壊ではありません》

《固定点不足を確認》


白い帽子の子供が、その中央へ向かっていた。


母親らしき女に手を引かれている。 女は前だけを見ていた。 前を見るしかなかった。 振り返れば、後ろから来る人波に膝を折られる。


子供は泣いていなかった。 片手で母親の指を握り、もう片方の手で帽子を押さえている。 帽子のつばには、踏まれて跳ねた泥がついていた。


その小さな靴が、座標の薄い線へ乗ろうとしていた。


レンは手を伸ばした。


届かない。


「止まれ!」


声は人波に飲まれた。


ガストが動いた。


測量杭を横にして、人の流れを切る。 白い帽子の子供の前に身体を入れる。 母親の腕をつかみ、引き戻す。


その足が、中央の剥離線を踏んだ。


レンの視界に、赤い表示が開いた。


《個体予測:ガスト》

座標欠落接触

右下肢消失確率:82.6%

死亡確率:39.4%


右足。


また右足だった。


レンの身体が先に動いた。


測量針を地面に打ち込む。 入口固定点と出口固定点の線を、瞬間的に歪める。 固定の張力を、ガストの足元へ寄せる。


《警告》

空間固定補助:局所偏向


東通路入口固定率:100% → 71.2%

東通路出口固定率:100% → 68.9%

中央剥離抑制:一時成功


《反動予測》

導線外縁に座標剥離が発生します。


ガストの右足は、残った。


白い帽子の子供も、残った。


母親も、残った。


代わりに、東通路の外縁が消えた。


露店の柱。 水売りの桶。 それに掴まっていた老人。 荷車の陰にいた二人の巡回兵。 地面に座り込んでいた少年。


輪郭が薄くなった。


老人は、消える直前まで水売りの桶を握っていた。 巡回兵の一人は、隣の兵士の襟を掴もうとしていた。 少年は、片方だけ脱げた靴を見ていた。


悲鳴は、途中で切れた。


《導線外縁:座標欠落》


《推定消失:31》


レンの手が、測量針を握ったまま止まった。


ガストは自分の右足を見た。 次に、消えた外縁を見た。 最後に、レンを見た。


「俺に使ったな」


レンは答えなかった。


「今の、俺に使ったな」


白い帽子の子供は、母親に抱えられて東通路の出口へ流れていった。 残った。 助かった。


だが、老人も、巡回兵も、少年もいない。


瓦礫はない。 血もない。 そこにいた証拠だけが、都市から削られていた。


ガストの手が、測量杭を握り直した。


殴られるかと思った。


だが、ガストは人波へ向き直った。


「止まるな! 出口まで走れ! 中央を見るな! 足元を信じるな!」


声が割れていた。


レンは何も言わなかった。


《都市崩壊まで:02:41:09》


東区画の奥で、石畳にヒビが入った。


黒いフードの少女が立っていた。


人混みの中なのに、誰もぶつからない。 誰も見ない。 少女の足元だけが、地図から剥がれている。


レンの測量視界に、何も表示されない。


高低差なし。 荷重なし。 地脈圧なし。 水脈なし。 座標なし。


そこに存在しているのに、定義されていない。


少女は東通路を見た。


「道を縫ったんじゃないよ」


レンは測量針を構えた。


「何だと」


「傷口を細くしただけ」


少女は、消えた外縁を指した。


「前は、もっと大きく裂けた。今回は細く裂けた。細いぶん、深い」


「座標欠落の原因を知っているのか」


少女は首を傾けた。


「原因?」


言葉を初めて聞いたような顔だった。


「原因なんて、まだ使ってるんだ」


会話にならない。


ガストが遠くで叫ぶ。


「レン! 誰と話してる!」


少女はガストを見た。


その足元に、小さなヒビが走る。


レンは測量針を握りしめた。


今度は動かなかった。


動けば、また誰かが消える。


ガストの足元のヒビは、広がらなかった。 少女が視線を外したからだった。


「今回は、まだ鐘が鳴ってる」


「鐘は止まるものだよ」


「王城地下核とは何だ」


少女は答えない。


代わりに、東通路の中央を見た。


「三ついるよ」


レンの目が細くなる。


「固定点か」


「入口。真ん中。出口」


「なぜ知っている」


「一つだと、点。二つだと、裂け目。三つで、やっと道」


レンは息を止めた。


少女は説明していない。 だが、言った。


三つで、道。


レンの視界にログが開く。


《空間固定補助:再解析》


導線固定に必要な固定点数:三

固定点不足時、非固定部に座標剥離が発生

二点固定時、固定点間の中間部が剥離しやすい

局所偏向時、外縁部へ欠落が移動


《仮説成立》

空間固定は区画全体には作用しません。

連続導線上の固定点にのみ作用します。


レンは少女を見た。


「お前は、攻略を見ているのか」


少女は少しだけ笑った。


「測ってるのは、そっちでしょ」


足元のヒビが広がる。


少女の輪郭が薄くなる。


「次は、もっと上手く設計して」


「待て」


「鐘が止まる前に」


少女は消えた。


消えたのに、座標欠落とは違った。 世界が彼女を失ったのではない。 最初から、世界が彼女を持っていなかったようだった。


ガストが近づいてきた。


「おい」


レンはログを見ていた。


「三点だ」


「何が」


「道を残すには、固定点が三ついる」


「今はいくつだ」


「二つ」


ガストは、東通路中央を見た。


そこには、白く薄い亀裂が走っている。 人の流れが、その前で乱れていた。


「じゃあ真ん中が落ちる」


「もう落ち始めている」


「止められるか」


「リソースがない」


ガストは一瞬だけ、消えた外縁を見た。


「また誰かから取るのか」


レンは答えなかった。


取るものがない。 リソースはゼロ。 固定点は二つ。 道には三つ必要。


足りない一点は、誰かの位置をずらすことでしか補えない。


いや。


レンは王城を見た。


地脈が、王城地下へ流れている。 都市全体の圧力が、あの地下に集まっている。


固定点を増やすには、リソースがいる。 リソースは都市の循環から取っている。 都市の循環を握っているのは、王城地下核。


王城地下を測れば、リソースの由来が分かるかもしれない。


次の一手が見えるかもしれない。


「王城地下へ行く」


ガストが頷いた。


「行け」


「お前は」


「ここを通す」


「中央が落ちる」


「なら落ちる前に走らせる」


「無理だ」


「無理でもやる。お前の仕事じゃねえ」


レンはガストを見た。


ガストの右足は残っている。 だが膝に血がついている。 肩の布が裂けている。 手の甲の皮が剥けている。


助けた。


助けたせいで、三十一人が消えた。


ガストも、それを分かっている。


だから笑わない。


「レン」


「何だ」


「俺を助けたことを、なかったことみたいな顔をするな」


レンは言葉を失った。


ガストは測量杭を肩に担ぎ直した。


「俺は残った。あいつらは消えた。次は、その分も測れ」


レンは頷かなかった。


頷くには軽すぎた。


代わりに、測量針を握り直した。


「戻ってこい」


ガストが言った。


今度は、ガストの言葉だった。


レンは走った。


《都市崩壊まで:02:19:44》


王城へ向かう坂道は、まだ美しかった。


白い石畳。 水濠から吹く冷たい風。 城壁に絡む青い蔦。 高架軌道の影。


王都ラグナベイルは、死にかけているのに美しい。


最も美しい都市であり、最も醜く死にかけている都市。


レンは、その矛盾が好きだった。


死因を測りたい。 腹を裂いて、腐った内臓を見たい。 どの血管が詰まり、どの骨が折れ、どの神経が切れたのか知りたい。


その欲求は、人を救いたい感情より速く走る。


レンはそれを知っている。


前回、ガストに手を伸ばして。 王城地下の座標が澄んで。 手が止まった。


今も、同じだ。


背後ではガストが残っている。 東通路中央は剥がれている。 消えた三十一人の名前は知らない。 白い帽子の子供は残った。 老人は消えた。 巡回兵も消えた。 少年も消えた。


レンは走った。


王城地下の門に着く。


門番が槍を交差させた。


「止まれ。ここから先は王城管理区画だ」


レンは測量局の紋章を見せた。


「地下導管の緊急測量です」


「許可証は」


「ありません」


「通せるわけがない」


地面が揺れた。


王城の地下から、低い音がした。


門番の一人が振り返る。 その隙に、レンは槍の下を抜けた。


「待て!」


待たない。


地下へ続く階段を降りる。


温度が変わる。 湿気が消える。 代わりに、熱がある。


地脈炉の熱。 都市の神経の熱。 王都全域から集められた循環の熱。


壁には古い測量標が刻まれていた。


第一王朝期。 第二改修期。 地脈炉増設期。 魔導排水路併設期。 浮遊石軌道接続期。


千年分の都市改造の痕跡。


王都は、ずっと継ぎ接ぎされてきた。 美しい外観の下に、古い傷が重なっている。


レンは指で壁の測量標をなぞった。


一つだけ、削られた標があった。


座標が読めない。


《測量標:欠落》

《登録年代:不明》

《接続先:王城地下核》


さらに下へ。


鐘の音が聞こえた。


地上の鐘ではない。 都市の内側で鳴る音。 骨の中で鳴る音。


レンは地下核室に入った。


そこに、炉はなかった。


水晶もない。 魔導装置もない。 王家の秘宝もない。


あったのは、地図だった。


巨大な立体地図。


ラグナベイルの全区画が、透明な層になって空中に浮かんでいる。 城壁。 水路。 導管。 高架軌道。 地脈炉。 居住区。 市場。 王城。 東通路。


すべてが、光の線で再現されていた。


だが、東区画だけが黒い。


そして黒い線は、王都の外へ伸びていた。


水没した塔。 空に浮かぶ廃都。 燃える地下都市。 白骨化した城塞。


一瞬だけ、別都市の輪郭が見えた。


すべてが、黒い線でつながっている。


《王城地下核:測定開始》


《都市寿命との接続を確認》


《ラグナベイルは単独崩壊ではありません》


レンの足が止まった。


《世界都市網:破断進行中》


《第一観測都市:ラグナベイル》


《測定者:クロガネ・レン》


レンは息を吸った。


都市は一つではない。 ラグナベイルだけが死にかけているのではない。


都市という生命体が、網のようにつながっている。 一つが死ぬと、次が歪む。 次が歪むと、さらに別の都市が裂ける。


王都は、最初の死体ではない。 あるいは、最初に観測された死体にすぎない。


《王城地下核:部分測定成功》


取得情報:

空間固定リソースは都市循環から生成されます。

排水・熱導管・地脈圧の循環安定度に比例して増減します。


現在利用可能リソース:5

理論最大リソース:9


レンの目が見開かれた。


九。


導線固定に必要な三点。 空間固定三点で三。 排水経路変更で二。 避難導線再設計で一。 荷重補強で二。 残り一。


合計八。


九あれば、東通路を三点固定し、防壁も補強できる。


ただし、現在は五。


足りない四点は、都市循環が壊れているから失われている。


レンは表示を追った。


《リソース低下要因》


旧市街未登録暗渠:循環漏出

王城地下核:地脈圧過吸収

東区画防壁基礎:荷重循環遮断

外周水濠北東支脈:逆流


《暫定結論》

空間固定失敗の主因は、固定点不足ではありません。

固定点を維持する循環資源の不足です。


レンの指が震えた。


ルールが一つ、見えた。


空間固定は、ただリソースを払えば成立するものではない。 都市循環が崩れていれば、固定点は維持できない。


道を残すには、三点必要。 三点を維持するには、循環が必要。 循環を戻すには、排水、熱導管、地脈圧を同時に見る必要がある。


都市は生命です。 生命は循環によって維持されます。 排水は極めて重要です。


第一話で表示された言葉が、今さら腹に落ちた。


排水は、ただ水を逃がすためではない。 都市の血流を保つためにある。


レンは立体地図の東通路を見た。


入口と出口だけが光っている。 中央は黒く剥がれている。


その上に、人の流れが表示された。


小さな点。 一つ一つが人間。


ガストの点もある。


東通路中央に近づいている。


「何をしている」


表示が拡大される。


ガストは、測量杭を中央剥離部の手前に打ち込んでいた。 普通の測量杭。 空間固定にはならない。 座標を留める力はない。


だが人には見える。


人は杭を避ける。 杭の横を通る。 中央の剥離部を踏まずに流れる。


ガストは、見えない座標欠落を、見える障害物に変えていた。


測量杭の列が、歪んだ柵になっていた。


誰かが怒鳴る。 「邪魔だ」と杭を蹴る。 ガストがその襟を掴んで、東通路の出口へ投げるように押し出す。


「邪魔だから立ててんだよ! 見えねえ穴に落ちたいのか!」


意味は伝わっていない。 それでも、怒鳴られた男は杭を避けた。


次の女も避けた。 その次の老人も避けた。 子供は、杭を怖がって母親の腰にしがみついた。


人は、見えない危険を避けられない。 見える障害物なら避けられる。


レンは息を吐いた。


「本当に、測量士じゃないな」


表示が揺れる。


《東通路中央:踏破回避率上昇》

《中間落下予測:72〜119 → 18〜37》


ガストは、リソースなしで死者を減らしている。


都市ではなく、人を測っている。


その瞬間、東区画防壁が赤く染まった。


《警告》

東区画防壁崩落まで:00:03:10


荷重補強を捨てた代償が来た。


崩落範囲には、東通路出口が含まれている。


出口固定点。 そこが潰れれば、道は出口を失う。


東通路は、入口だけの袋になる。


《予測》

出口固定点破壊

避難導線閉塞

ガスト死亡確率:67.8%

追加死傷者:204〜390


レンは地下核室から走り出した。


間に合わない。


王城地下から東通路まで、走って十六分。 防壁崩落まで三分。


リソースはゼロ。


できる介入はない。


レンは階段を駆け上がりながら、立体地図を見た。 王城地下核との接続が、まだ細く残っている。


測定中の表示。


《緊急介入候補》


地脈圧逃がし:王城地下導管

消費リソース:4

現在リソース:0


実行不能。


《代替処理》

循環負荷の一時解放により、固定点維持を補助可能。

代償:王城地下核測定深度が低下します。


レンの足が止まりかけた。


測定深度が下がる。 王城地下核の情報が失われる。


今、都市の死因に触れている。 世界都市網という上位概念に届きかけている。 ここで手を離せば、また不明になる。


東通路出口では、ガストが残っている。


レンは歯を食いしばった。


「測定深度を捨てる」


《確認》

王城地下核の測定を中断します。

取得予定情報の一部が失われます。

よろしいですか。


レンは走りながら言った。


「実行」


《王城地下核:測定中断》


《循環負荷を一時解放》


《東通路出口固定点:維持補助》


《維持時間:00:02:40》


二分四十秒。


ガストの好きではない細かい数字。


レンは階段を駆け上がった。


地上へ出る。


遠くで、防壁が崩れた。


白亜の石が、朝の光を反射しながら落ちる。 美しい崩壊だった。 都市の骨が折れる音がした。


東通路出口に、石の雨が降る。


最初の石が露店の屋根を潰す。 次の石が荷車を砕く。 跳ねた車軸が兵士の兜を弾き、兵士が膝から落ちる。 粉塵が広がり、人々の口の中に白い砂が入る。


「伏せろ!」


ガストの声が、また響いた。


測量杭が出口側に立てられる。 倒れかけた女の背中を、ガストが押し上げる。 子供の腕をつかんだ男ごと、出口へ突き飛ばす。


石が落ちる。 人が走る。 足がもつれる。 誰かの靴が脱げる。 誰かがそれを踏む。


だが出口固定点は、消えなかった。


道が残る。 人が抜ける。 ガストが測量杭で最後の荷車を押し出す。


崩落した防壁片が、ガストのすぐ横に落ちた。


右足ではない。


肩をかすめた。 血が飛ぶ。


だが立っている。


《東区画防壁:崩落》

《東通路出口固定点:維持》

《避難導線:継続》


《救助数:更新中》


レンは膝に手をついた。 息が切れていた。


遠すぎる。 何もできていない。 ただ、測定を捨てただけだ。


それでも、道は残った。


《都市崩壊まで:01:57:22》


東区画の輪郭が、薄くなっていく。


防壁は崩れた。 市場路の一部は消えた。 東通路中央には、白い剥離線が残っている。 入口と出口だけが、縫い針の跡のように光っている。


そこを、人が通る。


細い。 危うい。 醜い。


だが、通っている。


ガストは最後尾にいた。


測量杭を引きずっている。 肩から血が流れている。 右足は残っている。


レンと目が合った。


ガストは何も言わなかった。


ただ、親指を立てようとして、やめた。 その手で、後ろの老人を押した。


老人が出口を抜ける。


東通路が、一瞬だけ明るくなる。


《救助数:512》


レンは表示を見た。


前回より、四十八人多い。


だが、別の表示も出る。


《座標欠落:東通路外縁》

《消失推定:31》

《中間落下:24》

《防壁崩落死傷:58》


数字が並ぶ。


救助数は増えた。 死者も増えた。 消えた者もいる。


何が成功で、何が失敗なのか。


都市は答えない。


《途中結果》


空間固定補助:部分成功

東通路入口:成功

東通路中央:未固定

東通路出口:成功


排水経路変更:成功

避難導線再設計:成功

荷重補強:未実行

王城地下核測定:中断


救助数:512

前回比:+48


座標欠落:東通路外縁

中間落下:24

未解明要因:王城地下核


レンは、掌を見た。


焼き菓子の粉が、まだ少し残っていた。 その上に、測量針で切った血が混じっている。


ガストが近づいてきた。


「右足はあるぞ」


レンは、ガストの足を見た。


本当にある。


「肩は」


「かすっただけだ」


「出血している」


「足より安い」


レンは何も言わなかった。


ガストが、消えた外縁の方を見た。


「あいつらは?」


「戻らない」


「名前は」


「分からない」


「調べろ」


レンは頷いた。


今度は、頷いた。


ガストはそれ以上責めなかった。 責めないことが、責めるより重かった。


王城の方から、また鐘の音がした。


都市の内側で鳴る鐘。


地面が大きく揺れる。 東区画だけではない。 王都全体が、息を詰まらせるように震えた。


《都市崩壊まで:01:43:08》


空が、少しだけ暗くなった。


黒いフードの少女が、崩れた防壁の上に立っていた。


距離がある。 だが、声は近かった。


「前より、道は上手」


レンは少女を睨んだ。


「何が目的だ」


「目的?」


少女はまた、その言葉を初めて聞いたように首を傾げた。


「鐘が鳴ってるから、見てる」


「誰が鐘を鳴らしている」


少女は王城を見た。


「止まるものを、鳴らしてるだけ」


「答えろ」


「答えたら、設計になる?」


レンは黙った。


少女は、東通路を指した。


「入口と出口だけじゃ、道じゃないよ」


「分かっている」


「真ん中がない道は、人を落とす」


「分かっている」


「でも、前より多く残った」


少女の声には、喜びも哀れみもなかった。 観測結果を読むような平坦さだった。


「次は、三つ」


少女の輪郭が薄くなる。


「でも三つにすると、別のものが足りない」


「何が足りない」


少女は笑わなかった。


「測って」


消えた。


レンの視界に、最終ログが開いた。


《新規解析結果》


空間固定は区画全体には作用しません。

連続導線上の固定点にのみ作用します。


必要固定点:三点

今回固定点:二点


結果:

東通路入口部:座標保持

東通路中央部:座標剥離

東通路出口部:座標保持


局所偏向により、導線外縁へ欠落が移動しました。


《追加解析》


固定点維持には都市循環資源が必要です。

循環資源は、排水・熱導管・地脈圧の安定度に比例します。


現在利用可能リソース:5

理論最大リソース:9


《次回推奨》


入口固定

中継固定

出口固定

排水経路変更

避難導線再設計

荷重補強


必要リソース:8

現在利用可能リソース:5


《不足リソース:3》


《結論》


道を残す方法は判明しました。

全員を通す道は、まだ設計できません。


レンはログを見続けた。


不足三。


たった三ではない。


三が足りないから、中央が落ちた。 三が足りないから、老人が消えた。 三が足りないから、ガストの右足を救うために別の人間が消えた。


三は、人の数に変換される。


都市では、いつもそうだ。


一つの弁。 一本の導管。 一点の荷重。 一枚の地図。


それが、人の数になる。


ガストが隣に立った。


「次はどうする」


レンは王城を見た。


「循環を戻す」


「水か」


「水だけじゃない。排水、熱導管、地脈圧。都市の血流を戻せば、リソースが増える」


「増えたら?」


「東通路を三点固定できる。防壁も補強できる」


「俺の足も残るか」


「残す」


「他の奴は」


レンは答えられなかった。


ガストは少しだけ息を吐いた。


「そこを答えられるようになれ」


レンは、消えた外縁を見た。


そこには瓦礫も血もない。 死体もない。 悲鳴の残響だけが、まだ耳に残っている。


《都市崩壊まで:01:38:55》


王城地下核は、まだ測りきれていない。 世界都市網も、まだ分からない。 黒いフードの少女の正体も、不明。 東区画も、救えていない。


だが、道の作り方は分かった。


入口。 中継。 出口。


三つで、道。


レンは測量針を握った。


測る。 設計する。 延命する。


だが、全部は救えない。


だから次は、何を削るかを測る。


《前回介入ログを更新します》


空間固定:部分成功

導線固定ルール:判明

必要固定点:三

今回固定点:二


荷重補強:未実行

排水経路変更:成功

避難導線再設計:成功

王城地下核測定:部分成功後、中断


救助数:512

前回比:+48


新規損失:

東通路外縁座標欠落

中間落下

防壁崩落死傷


未解明要因:

王城地下核

世界都市網

黒いフードの少女


《次回課題》


不足リソース:3


《都市崩壊は継続中》


王都の鐘が鳴った。


今度は、地上の鐘だった。


避難を告げる鐘。 崩壊を告げる鐘。 王都が、自分の死にようやく気づいた音。


レンは顔を上げた。


東通路の向こうで、ガストがまだ人を押し出している。 右足は残っている。 肩から血を流している。 測量杭を支えにして、立っている。


レンは走り出した。


王城地下へではない。 ガストの方へでもない。


南東第三区排水弁へ。


不足リソース三。


それを取り戻すには、都市の血流を測り直すしかない。


《都市崩壊まで:01:37:12》


《追加測量対象:南東第三区排水網》


《目的:循環資源の回復》


《推奨行動》

即時測量


レンは、焼き菓子の粉がついた手で測量針を握った。


都市はまだ死んでいない。


ただ、死ぬ順番が変わっただけだった。

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