25
「信次、友達いなかったでしょ?」
「えっ……」
靴を脱いで家に上がろうとした瞬間にそう言われ、俺はフリーズした。
「あ、気を遣わなくて大丈夫よ」
彼女には特に悪びれる様子が一切なかった。「学校では全く喋ってないんでしょ。友達なんかできるわけないし、本人もいないって言ってたしね」
「あ、そうですか」
知ってたんだ。――ん? 本人もいないって言ってた?「ええっと、家では喋ってたんですか」
「ほんの少しね。ちょっとした近況報告はくれるのよ」
「そうなんですか……」
昨日渋谷のスクランブル交差点でツチノコを発見した、というSNSメッセージくらい信じられない話だった。まあ、冷静に考えれば家くらいは喋って当然だが。
すると、彼女は自嘲気味に笑った。「そんな、ツチノコ発見したみたいに驚くの? 本当に一切喋ってなかったのね」
「まあ」
驚いた。数日前まで息子を失ってあんなに発狂してたのに、もう立ち直っている様子だった。あるいは、表に出さないようにやせ我慢してるのか。
近くで見ると、彼女は骸骨に皮がついたみたいに体が細くて肌が白い。でも、白いとは言っても肌に透明感はなく、皺が多数寄っている。背中も重たい物を背負っているように、やや丸まっている。
目の前の夫人がテレビで「殺してやる!」と叫ぶのを見る前に見ていた、再放送のドラマを思い出した。殺人犯の家族が無実なのにも関わらず「殺人犯の家族も同罪。死ね」などと誹謗中傷されていた、あのドラマだ。
彼女も同じ目に遭ったのだろうか。
「どうぞ」
そうして俺は和室に招かれた。俺が入ってから麻生の母は入り、障子の引き戸を閉めた。
「座って」
イグサの落ち着いた香りがする。罪の悪臭の中ではあるが、決して混ざらずに、凛として鼻の奥へと抜けていく。
綺麗な畳の上に小さな和風のテーブルと、その脇に赤と青の二つの座布団があった。来客の俺のために用意してくれたのか、と思ったが、冷静に考えると、俺はアポなしで来ている。
……そうか。
悲しさ、虚しさ、罪悪感。色んな思いが胸を濡らした。
部屋の隅にあるタンスも新品のように綺麗で、その上には写真が飾ってあった。
「あれは、小学一年生の時の信次」
青の座布団に座ってその写真の方を向くと、彼女が木製の写真立てをテーブルの上に置いてくれた。
「正座、崩してもいいわよ」
「あっ」
無意識に正座していた。言われるまで気が付かなかった。「はい」
足をあぐらに組み替える。
写真には小学生の麻生が写っていた。母親と手をつなぎ、校門の前でニカッと笑っている。少し大きめの制服を着て、だぼだぼなところがかわいらしい。入学式の時の写真だろうか。目を細め、口角を上げ、未来の自分の姿なんか当然知る由もなく、無邪気に笑っている。
面影は確かにあるが、高二の、いかにも根暗そうな顔とはまるで別人だった。隣で彼と手をつないでいる母親も、目の前にいる人と比べると、随分若く見える。皺ひとつなく、陶器のように白くなめらかな肌で、可愛らしい上品な笑顔を浮かべているのは、画質のせいではないだろう。
年齢はおそらく二十代後半くらい。でも、目の前にいる彼女は皺が顔のあちこちを支配し、頬も少し垂れていて四十代後半くらいに見えた。少々計算が合わない。顔立ちは整っているので昔は綺麗だったんだろうな、とこの写真を見なくても推測は容易くできる。だが、若々しさというものはほとんどなかった。
色々あったんだな、と不思議な儚さを感じた。大きな壁をよじ登り、何度も何度も手を滑らせて、落ちて、怪我をしながらも、決して諦めずに壁の頂点を求め続け、遂に頂上まで登ったと思ったら、目の前に更に大きな壁があり、複雑な思いで新たな壁の頂点を見上げている人を、遠くから眺めているような、そんなイメージが頭に浮かんだ。
お茶入れてくるわね、と彼女は台所に向かい、視界からいなくなった。
「信次友達いないでしょ」
液体をコップに入れる涼しい音と同時に台所から聞こえてくる。「だから、クラスメイトの子が訪問してくるなんて、これっぽっちも思ってなかったのよ」
「はい……」それもそうだな。
「僕は、」
自然と一人称が『僕』になってしまっていた。「彼とは友達ではなかったですけど、いざいなくなったら気になってきて。ミステリアスでしたし」
カランカラン、と氷を入れる音も聞こえた。風鈴のような、固くも優しい音色だ。
「口数が少なかったら、ミステリアスに見えるのね」
お盆に乗せて擦りガラスのコップをふたつ持ってきた。
「少ないどころか、ゼロですしね」
ふふ、と彼女は笑った。その笑顔は不思議と緊張を和らげてくれた。「ジュースとかなくてごめんね」
お茶をそっと俺の前に置いた。
「いえいえ、ありがとうございます」
両手でコップを掴む。カランカラン、とコップと氷が可愛らしい響きを作り、耳を包む。まだコップの外側まで冷たくなってはいなかったけど、ひんやりとした氷を唇に当ててお茶で喉を潤すと思わず「ああー」と息が漏れていた。
そんな俺を見て彼女は微笑んでいた。その微笑みを見て顔が熱くなり、もう一口お茶を飲む。「ああー」
ふふふ、と彼女が笑みをこぼすと、ははは、と俺も笑ってしまった。
この時、俺はにおいのことなんか頭になく、ひとりの高校生として束の間の歓びを心から楽しんでいた。
いろんなセミの声があちこちから聞こえる。いつもなら気持ち悪く感じるのだが、この時は爽やかな夏の風物詩として捉えることができた。
しかし、俺が顔を上げると、彼女の明るい笑顔が寂しげな朱色に滲んでいた。
「普通の子だったのよ、信次。活発で」
「そうなんですか」
細木からその話は聞いていたが、知らないふりをした。人間関係にはそういうのも必要だと聞いたことがある。
「ええ、友達もたくさんいたし、運動神経もよかったのよ。礼儀もよくて。自慢の息子だわ」
『自慢の息子だわ』は過去形ではなかった。今でも愛する息子がどこかで生きているんじゃないかと思っている。そんなふうに、俺には聞こえた。少し遅れて、喋らなくなって友達がいなくなっても自慢に思っていたんだ、と、感動が伝わった。
俺の両親は、俺を自慢に思ってくれているのだろうか。
正直なところ、自信がなかった。
「裏山での事件のことは知ってる?」
「……はい」
あんな話を話させたくない、と思った。「彼の友達だった人から聞きました」
「そうなの。その友達から事件のことは聞いたのに、信次が普通の子だったことは聞かなかったのね」
ふふ、と彼女は上品に目を細めた。
「あ、いや」
彼女の笑顔には「嘘や演技は全部お見通しよ」と書いてある、ように見えた。
「ええっと……」
「気を遣ってくれたのね。ありがとう」
「いや、……どういたしまして」
「ふふふ」
完全に飲み込まれている、気がする。脳の皺の隅々まで見られている恥ずかしささえある。自分が息子を殺した張本人だとばれてるんじゃないか、とまで考えてしまう。でも、不思議と気分は悪くなく、むしろ時間がゆっくりと、のどかに流れるようで心地よかった。彼女には陰りがあるものの、秋の朝日のような温かい笑顔は、俺の醜い心の闇を浄化してくれるようでもあった。
「じゃあ、ええっと……」
「斉藤です」
「斉藤くん。なんであの子が喋らなくなったのかは、知ってる?」
細木の話を思い出してみるが、それは結論が出なかったという記憶があった。
「知りません」
人を殺したからって、そのことを知らない俺たちクラスメイトにさえ口を開かないのはどうも説明がいかない。元々活発な子だったのなら、なおさらだ。高校生になってからはいじめられているわけでもないのに。後遺症、とも考えづらい。
「よね。さすがにそこまではね」
彼女は笑顔を保っているが、テーブルの上に置いた手が微かに震えてしまっていることに、気付いてはいないだろう。
「信次はね。女の子を蹴った時に、酷いことを言ってしまったようなの」
「酷いこと?」
「ええ。それが何なのかは私も知らない。訊くのが怖くて、結局最後まで訊けなかったわね」
「……」
「本当にひどいことを言ってしまったらしいの」
彼女の顔から笑顔が消えていた。眉毛が八の字に曲がり、テーブルの皺を読むようにうつむいている。笑顔じゃないのに皺が深くなっている。息子に永遠に会えなくなると知った母親の顔なのだろうか。
「その女の子に、体だけじゃなくて、心まで傷つけてしまったと思ったみたい。すごく後悔していたわ。部屋に籠ったと思ったら、急に叫び出したりして。部屋をノックしても開けてくれなくて。その次の日に部屋から出てきてくれたと思ったら、『俺はもう二度と口を開きたくない。口で人を傷つけるのはもう嫌だ』って」
誰かに酷いことを言ってしまったから、もう二度と口を開かない。
俺には、その因果関係をいまいち理解できなかった。きっと麻生の母もそうではないだろうか。誰にだって、誰かに酷いことを言ってしまったことはあるだろうが、彼のように、口を開けたくないほどに悔む人は少ないはずだ。それだけ彼の心は繊細で、もろかったのだろう。もしかしたら、彼の言ったという酷い言葉はもろはの剣で、自信の心に傷を少し付けたにすぎないのかもしれない。でも、そのわずかな傷口から雑菌のように過去に自分が犯した暴力的言葉が入り込んできて、総合的に一言も喋りたくないほどの罪を感じてしまったのかもしれない。
頭の中に、あるひとつのイメージが浮かんだ。
花だ。真っ赤で、美しい花。
その花が誰かの手に握られ、呆気なくバラバラに散ってしまった。
美しいものほど、綺麗なものほど、簡単に死んでしまうのだ。
「それ以来、学校では喋らなくなったそうなの。高校に進学しても。そろそろ喋ってもいいんじゃないかとは言ったんだけどね。『最期まで突き通したい』って……」
彼女の目から、涙が落ちた。彼女の心も、もう、ボロボロなのだろう。それがどんな痛みを伴っているかは、俺には漠然としか分からなかった。
今まで感じたことのない何かが、体のどこかに生まれている気がする。
「でも、」
そんな痛々しい姿を見て、俺の口は考えるより先に動き出していた。「でも、立派じゃないですか、麻生は。自分の犯した罪と、永遠に戦う道を選んだんですから」
彼女は少し、眉をひそめた。確かに意味は分からないのかもしれない。同じ経験を犯した者にしか、この意味は。
自分だったらどうだっただろう。もしずっと罪の意識や罪のにおいと孤独に戦い、もう歩けないほどに、それも戦場で手足を失った兵士のようにボロボロになって、そこで「もう戦わなくていいんじゃないか」と誰かが心から訴えて、それでも麻生のように「最期まで戦いたい」と言えるだろうか。言えない気がする。その誰かに甘えて、自分にも甘えて、もう全てを中途半端でいいから終わらせたいと、思うんじゃないだろうか。
「彼は頑固なほどに自分を突き通したんです。妥協せずに戦ったんです。立派じゃないですか」
その言葉は、湧き上がる温泉のように、地面を震わせながら、心の底から噴き上がっていた。
最初は彼女を慰めるために出た言葉だったかもしれない。でも、息を吸い込むたびにそれが、自分の、心からの熱のこもった言葉に、変わっていったのだ。
「……」
麻生の母は、そんな俺を見て、またひとつ涙を流しながら、綻ぶように微笑んだ。
「……ありがとう」
セミの荒々しい声が、ほんの少し、温かく聞こえた。