22
「俺の泣き言、聞いてくれる?」
その晩、部屋の椅子に座り、俺はツイッターでそう呟こうと思った。
風呂に入っている時に、最近ツイッターやってないな、と気付き、無性に自分の迷いを誰かに聞いてほしくなったのだ。でも、人を殺したということをうっかり漏らしてしまっては終わりだから、家族や友達ではなく、顔も名前も知らない誰かに。
風呂から上がってツイッターを開き、前の投稿を見てみると「暇なう」という日曜日のあまりにあっさりした一言だった。
人を殺して、こんな投稿できるんだな。
……戻れるものなら、この頃に戻りたい。
その前のツイートは「焼いてみたらスゲェいい声で叫んでたよ。録音すればよかったな」というものだった。
これ、投稿したの、俺だよな……。
あの時と今で、どうしてこんなにも違うんだ。
なんで、俺は、あんなひどいことができたんだ。なんで、あの光景を実況なんてできたんだ。なんで、あんな残酷な風景を楽しんでいたんだ。
今はこんなに苦しんでるのに、なんで、あの時はあんなに……。
「戻れるもんなら戻りたいよ……」
今度は声に出してみたが、戻れないことくらい分かっている。一方通行なんだ。いくらあがいたり願ったりしたところで、過去に戻ることはできない。牛肉に火を通して一度身を黒くしてしまったら、いくら冷ましても赤くならないのと同じ。牛肉が俺だとしたら火は麻生の母親だろう。
「殺してやる……」
俺は小声をかすらせた。理由はよく分からないが、麻生の母親の台詞を口にしたくなったのだ。
「犯人、出てきなさい……」
決してバカにしようとなんて思ってない。もしかしたら、彼女の気持ちを少しでも分かりたがっているのかもしれない。
「私が殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる……」
いくら唱えても楽にはならなかった。実際に自分は死んでいないのだから当然だ。
ふとツイッターのフォローが目に入った。
『うけるwww』『もっとぼこぼこにしてやれ』『コ・ロ・セ! コ・ロ・セ! ド・ロ・ボ・ウ・コ・ロ・セ!』『どう? 炒めた? 茶色くなってる?w』『もう死んだ?』『写メよろしく!』
なんだ、これ。
狂ってる。みんな狂ってる。こんなのおかしい。
みんな人の命の重みを知らないんだ。それを知らないことは、こんなに馬鹿げていて恥ずかしいものなのか。
――覚悟はできてるか?
「……」
今すぐ遺書を書いて、ここ(マンションの九階)から飛び落ちたいくらいの、絶望的な気分だった。
もう一度、自分の投稿が視界に入った。
泥棒をボコってるなう。
「ああ!」
立ち上がって短く叫ぶ。スマホをベッドに投げつける。沈むように椅子に腰をかける。頭を抱える。
「くそっ……」
しばらく、何も考える気になれなかった。体中から出る悪臭を鼻から吸い込むだけの植物のように、目を瞑り、うつむいてじっとしていた。
そんな時、突然「Which?」が頭の中で流れだした。
「キミはどっち? 罪から逃げるか、戦うか」
逃げる方、と呟いていた。
いっそのこと死ぬか?
そんなことが頭をよぎると、体中が震えるのを感じた。
「怖い……」
死ぬのも怖い。だしだし星人に殺されかけた時のように、いざ殺されかけてみれば多少楽なのかもしれない。でも、死の間際にいないと、死っていうものは、こんなにも怖いものなのか。
そもそも、死って何なんだ。
暗闇。いや、暗いというのすら感じることができないのだろう。一生、『無』なんだ。『無』すら実感できないほどの『無』だ。永久に。これはどういうことなんだ。感情はないのか。復活することもないのか。死んだら一生何も感じることができないのか。『嬉しい』もないのか。『怒り』も『悲しい』も『楽しい』も『気持ちいい』も『痛い』も『甘い』も『辛い』も『苦い』も、ないのか。
それは、どういうことなんだ?
怖い。それだけは分かる。死は怖い。死ぬなんてできない。
死なないのなら、どのように逃げるんだ?
世界中のどこにいても、罪のにおいから逃れることはできない。きっと、鼻をのこぎりで切って嗅覚を失ったとしても、これだけは感じ続けることになるだろう。そんな気がする。あるいは、においとはまた別の何かの形をして、目の前に現れるに違いない。
じゃあ、逃げるって何なんだ?
死ぬ以外に俺の罪から逃げる手段なんてあるのか?
「……他に罪を重ねること」
――においを感じなくするために罪を犯すのか、におわなくなったから罪の意識がなくなるのか。
麻生は罪を重ねることを選んだ。結局逃げようとしたってわけだ。あいつには鼻を触る癖があった。罪のにおいを感じていたからだ。つまり、逃げきることはできなかったのだ。しかも、その小さな罪のせいで木本と俺に殺された。
罪を重ねていれば、自分だって同じように誰かに殺されるかもしれない。一番嫌なのは死ぬこと。だから、その選択肢は選びたくない。
その時だった。瞼の裏に、見たことのない色のフラッシュが写ったのは。
「いや……、」
瞼を開く。
「麻生は戦っていたのかもしれない」
あいつは、自分が人を殺したと知って、泣いたほどの優しい人間なんだ。逃げるという選択肢を選ばずに、ある程度までは戦っていたと考える方が自然だ。でも、耐えきれずに罪を犯してしまったのかもしれない。もしかしたら初めての犯罪が、あの財布泥棒なのかもしれない。
「あいつは、戦ったんだ」
あいつは戦ったのに、俺が逃げるなんて、できるはずがない。俺のプライドが、ちっぽけなプライドが、許さない。命を救ってくれた木本にひれ伏すようなプライドだけど、麻生にできて俺にできないはずがない。そう思いたい。そう思いたい。でも、できそうにない。ひとりでは、生身では、できるわけがない。
脚が震えている。こんな脚では立ち上がることなんてできない。
「俺って、本当にどうしようもないやつだな」
その時、いつかの木本の言葉が頭をよぎった。
――俺たちは犯罪者を裁いただけだ。何も罪悪感に苛まれることはないだろ。
「――そうだ」
俺は犯罪者を裁いただけなんだ。正当化するんだ。犯罪者を裁いて、何が悪い?
脚の震えは止まらない。でも、俺の手には今、正当化の杖がある。
手に重心をかけて、俺はゆっくりと立ち上がる。
「これでいい」
自首はしない。罪の荒波は、自力で耐える。
操縦桿は握った。この手は、絶対に離さない。