オーバーフロー
ねえ、と大型犬サイズになったアディをブラッシングしながら、ここ数日、考えるともなく考えていた疑問を口にした。
「アディの前の『伴侶』ってどういう人だったの? 男の人だったんだよね」
前足でくいっくいっとブラシを胸へ誘導してアディは「ふむ」と頷く。「勇猛な男であった」
「勇猛? 軍人さんとか?」
「まあ、そうだな」
「お姉ちゃんも知ってるんだよね」
知ってはいるが、とアディが大きく欠伸をする。「レインは奴のことはあまり話したがるまい」
アディの耳の後ろにブラシをかけながら「どういう関係だったの?」と尋ねた。お姉ちゃんが話したがらないならアディに聞くまで。
「ミレーナが即位するにあたっての継承戦争にシュルヴェストルからも出兵したことは先日聞いたであろう。そのときにともに闘った男だからな」
「戦友とか?」
「そうとも言う」
ブラシを止めて「アディ」と私は声を低めた。
もっと、と言わんばかりに前足を上げたアディに「ちゃんと教えて」と要求する。
アディはぽとりと前足を下ろし、鼻からふんっと息を吐いて「知ってどうする」と喉の奥に篭った声を発した。
「え?」
「そなたが知るべきことであれば、いずれレインが語るであろう。いずれにせよ死んだ男のことだ」
「でも・・・隠してるよね?」
隠してはいる、とアディ。「そなたはまだ幼い。触れられたくない傷を持たぬ身。しかし、レインも我も、共に闘った男を失った。それは傷である。そなたが知るべき時に至ればすべてを語ろう。なれど今はまだ時満ちてはおらぬ。必要の無い傷をこじ開けるほど、我等も強靭ではないぞ」
「・・・うん」
「そなたはレイン・・・いや、レインフォードが戦友の死を軽々に口にする男に見えるか?」
私は黙って首を振った。
レインフォードとしてのお姉ちゃんを理解しているわけではないけれど、少なくとも私の知っている佐藤雫は、そういうタイプでは、たぶんない。
「年が離れてるからかなぁ。お姉ちゃんの友達とか、彼氏とか、そういう存在の話って聞いたことないんだ」
日本にいた頃、会社帰りに食事をしてくるだとか、休日に誰かとランチに出かけるとか、もちろん不自然でない程度にはあったと思うけれど、特に誰と名前を聞いたこともなければ、家に連れてきたこともない。
「サニーよ。そなたが今為すべきことを為すがよい」
「ブラッシング?」
「それもある。だがしかし、大局的に申せば、そなたはまずアレクサンテリ大公の執務を代行するまでに至らねばならぬのではないか? 無論、異界に育ったそなたに今すぐにと無理を強いることはなかろうが」
そこも疑問なんだよねぇ、と私は溜息をついた。
「お姉ちゃんが大公家の跡取りなんじゃないの?」
アディはふるりと首を振る。
──さらっと否定するんだ・・・
「無論、王太子が正式に即位するなり世継ぎを生すなりすれば、そのままレインフォードが大公位を継ぐことになろうがの。現状ではその可能性は極めて低い。大公は臣下であるゆえな。王位継承者として有力視されている現状でレインフォードを大公とするより、そなたが大公家息女として公務に就くことが望ましい」
「でもさ・・・いずれお姉ちゃんも私も日本に帰るわけだし」
「帰れると思うか?」
アディの視線は微塵も揺らがず、そんな言葉を発する。
帰れるかどうか、疑問に思わないと言えば嘘になる。
「お姉ちゃん」
王城から転移して帰宅したお姉ちゃんの気配を感じて書斎を訪ねると、白いスタンドカラーから細い鎖骨を覗かせた女性体に戻ったばかりのお姉ちゃんが少し疲れた顔で迎えてくれた。
「どうしたの。何かあった?」
「うん・・・あのさ。お城の仕事って、大変なの?」
「まぁ、それなりにね」
私は書斎のソファにごろんと横になったお姉ちゃんの顔の傍にしゃがんだ。
「あのさ。金環食を待って、日本に帰る、んだよね?」
お姉ちゃんは「そうねぇ」と生返事をする。
「お姉ちゃんも私と一緒に、帰るんだよね」
ふふっと笑ってお姉ちゃんは肩肘をついて半身を起こした。「なに急に? 心配になったの?」
帰るつもりは、ないのかもしれない。
妹暦17年は伊達じゃない。
お姉ちゃんは、嘘はつかない。嘘はつかない代わりに、隠し事をする。話をはぐらかす。
すでに界渡りをしてしまった私たちを、この世界は呼び戻した。それは見方を変えれば「逃げ切れなかった」ということではないのか。
私はけれどそれは言葉にせず、ゆるりと首を振った。
そのことを追及したら、お姉ちゃんはきっと言うだろう。「少なくとも環だけは日本に帰すから心配しないの」と。
「あのさ、お姉ちゃん」
「んー?」
「ここってさ。学校みたいなの、あるんだよね? アドキンスさんから聞いたけど、貴族の子弟は王城内にある学校みたいなところで、政治経済を学ぶって」
あるわよ、とお姉ちゃんは言って大きく伸びをした。
「そこに行きたいんだけど」
お姉ちゃんはしばらく天井を見つめ、そして「いいわよ」と言った。