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大草原の徴(しるし) 〜タルトシュの馬飼い〜  作者: 武陵隠者
第2章『卵を温める村』

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羊皮紙の加害者

 翌朝、薄明の泥雲を割って現れたのは、整然とした鉄の足音だった。


 雨脚が冷たく地表を叩く中、ガブリエル率いる騎兵と歩兵の小隊がルード村へ足を踏み入れ、集落の中央にある泥炭の集積場へと進み出た。


 兵士たちが迅速に設営したのは、簡素な折りたたみ式の木製執務机と一脚の椅子だった。荒涼とした黒泥の広場に、突如として王都の洗練された制度の言語が降臨したかのような、異質な光景だった。


 村長をはじめとする村の代表者たちが、ぬかるみに膝をつかされ、震えながら引き出される。


 ガブリエルは背筋をまっすぐに伸ばし、透き通るような白皙《はくせき》の顔に一切の不快感も浮かべず、彼らを見下ろした。その眼差しは害意や蔑視からほど遠く、まるで帳簿の誤りを等しく点検する学者のように冷徹で、かつ公平だった。


「村長。昨日の書記生の事前調査により、貴村における長年の税の不履行、ならびに教義に触れる禁忌の物品『暗色卵体』の保持が確認された」


 ガブリエルの澄んだ声が、泥雨の音を突き抜けて響く。


「しかし、法は無慈悲ではない。今直ちにその卵をすべて差し出し、教会の教義に従うことを誓うならば、過去三年にわたる未納税の追徴を全額免除しよう。王都の正理は、悔い改める者に寛大である」


 それは、制度が提示し得る最高の「慈悲」だった。ガブリエルは本心から、自らの裁定がこの哀れな民を救う唯一の道であると信じているのだった。


 だが、地べたに泥まみれの額を擦りつけていた村長は、絶望に顔を歪めて平伏した。


「審問官様……お許しください! その卵は、悪魔の道具などではございません……! あれを捨てることは、私どもが身を寄せ合い、糧を分け合う絆を捨てることなのです。あれがなければ、薪の足りぬ冬の夜、子供たちは凍え、村の誰も生き残れません……! どうか、どうか卵だけはお許しを……!」


 村長の声は涙に途切れ、老いた体は激しく震えていた。


 ガブリエルは微動だにせず、ただ至極当惑したように、しかし揺らぎのない調子で言った。


「支離滅裂だな。卵の保持が生存の条件であるなど、何ら合理的な因果関係を持たない迷信だ。それに――」


 ガブリエルはわずかに間を置き、淡々と命じた。


「この村の人間が冬を越せるか否かは民政と治安を司る領域であり、異端の排除と税の裁定を任された私の管轄外だ。私は私の与えられた職務を、規律通りに執行するに過ぎない」


 悪意のない、完璧な正理の言葉。ガブリエルは振り返り、傍らに控えるヨハンへと視線を向けた。


「ヨハン。審問記録の作成に入りなさい。規律に従い、異端物品の即時没収、ならびに滞納分に対する糧食の代物弁済手続きを明記するのだ」


「……は」


 天幕の下、簡素な木製机に広げられた羊皮紙は、湿気を含んでしっとりと重かった。


 ヨハンは息を殺し、自ら調合した漆黒のインクをガラス瓶から角製の小壺へと移した。没食子と鉄塩が紡ぎ出す酸っぱい匂いが、雨の匂いと混じり合って鼻腔を衝く。


(書かなければならない)


 昨日、目の当たりにした光景が脳裏を掠めた。冷え切った土間の奥で、痩せこけた少女が抱きしめていた滑らかな黒い卵。掌に伝わってきた、コク、コクというあの不気味で生々しい胎動。あれを奪われ、冬の糧を失えば、あの子供は確実に死ぬ。


(だが――)


 官吏としての長年の習性と、ガブリエルへの信奉が、ヨハンの理性を冷徹に上書きしていく。現場の感情に流されて記録を偽るなど、書記生としての存在理由を自ら棄てるに等しい。


 羽ペンが、羊皮紙の表面を滑り始めた。


 シュ、サ、と。


 研磨された鳥の羽軸が紙肌を削る、均一な摩擦音。


『ルード集落審問記録。一、教義違反物品たる暗色卵体、計四十有二個。即時押収、ならびに火却処分。』


 自分の指先が、寸分の歪みもなく均整の取れた文字を紡ぎ出していく。


『二、過去三年間の未納租税に対する代物弁済として、翌朝第一刻を以て、各戸より現存する糧食、燃料たる薪、ならびに毛布等の防寒具を徴収す。』


 文字を書き進めるたび、胸の奥で何かが冷たく冷えていった。


『乾燥薪二束』と記せば暖炉の火が消える。『羊毛布一枚』と記せば子供の肌からぬくもりが奪われる。『暗色卵体、処分』と記せば、長年共同体を支えてきた生々しい生活の術が靴底の下で踏みつぶされる。


 自分の振るう羽ペンは、剣よりも鋭く、殺戮よりも確実にこの村の命脈を断ち切る刃そのものだった。


 最後の一文字を書き終え、息を吹きかけ、細かな砂を振りかけてインクを乾かす。非の打ち所のない調書を、ヨハンは静かにガブリエルへと差し出した。


 翌朝、第一刻の鐘とともに「行政の執行」が始まった。


 兵士たちは剣を抜くこともなく、前夜ヨハンが書き上げた【代物弁済徴収目録】の写しを手に、正確に、規則正しく村の家々へと足を踏み入れていった。


「――第一区、三番地。干し肉三斤、乾燥薪二束、羊毛布一枚」


 伍長が調書の項目を読み上げる。


「待ってください……! その薪まで持っていかれたら、この子は今夜を越せません! 毛布だけでも、どうか毛布だけでも!」


 母親が泥に膝をつき、懇願する。だが、兵士は手元の羊皮紙へ視線を落としただけで、無造作に毛布を引き抜いた。その下から転がり出た黒い卵へ、甲冑に包まれた重い踵が振り下ろされる。


 ペキ、と。


 高くて脆い音が土間に響いた。漆黒の外殻が粉々に砕け、内側から黄濁した嫌な粘液と未成熟な塊が泥の床へぶちまけられる。少女が悲鳴をあげてすがりついたが、兵士はそれを一瞥しただけで、次の品目へと淡々と手を伸ばした。


「干し肉、三斤。受領」


 兵士の腕を動かしているのは、彼ら自身の意図ではない。ヨハンが滑らかな紙肌にペン先を走らせ、均一な墨痕として刻みつけた「文字」そのものだった。無菌室のような正しさが、泥の上の生を完璧に解体していく。


 徴収が完了し、軍用の荷車に没収された穀物袋や薪の束が積み込まれていく。村の家々からは煙ひとつ上がっていない。抱え込んでいた黒い卵を奪われ、踏みつぶされた子供たちは、冷え切った空気の中で声もなく身を寄せ合っていた。


 荷車の脇で木箱を抱え、立ち尽くすヨハンの元へ、いつしか村人たちの視線が集まっていた。


 兵士でもなく、白衣のガブリエルでもない。落ち窪んだ目の奥にある、氷のように冷たく澄み渡った視線が、ただ一人、羽ペンを携えたヨハンだけに注がれている。


(なぜ……私を見ている?)


 ヨハンは息を詰めた。その刺さるような暗い眼光を浴びた瞬間、胸の奥を突き刺すような戦慄が走った。


 泥に塗れた老女が無言のまま足元へ唾を吐きかけ、その黒い水滴がヨハンの靴を汚す。ヨハンは身じろぎひとつできず、ただその憎悪の群れを浴び続けるしかなかった。逃げ場はどこにもなかった。自分は無知な傍観者ではない。制度という名の巨大な機構の手先となり、己の指先で直接人間を叩き潰した「加害者」そのものだった。


「――見事な記録だったな、ヨハン」


 背後から、低く鈴の鳴るような声が響いた。


 ガブリエルが馬を寄せ、ヨハンの肩へ優しく、誇らしげに手を置いた。あのお方の手のひらは温かく、その眼差しには弟子に対する真摯な信頼が満ちあふれていた。


「君の正確な記述があったからこそ、何ひとつ不備なく、過不足のない裁定を下すことができた。王都の正理は、今日も正しくこの地に示されたのだ」


「……は、はい……閣下……」


 絞り出した自分の声が、異様なほど掠れていた。


 ガブリエルの温かい手が肩に触れるたび、胸の奥が焼きちぎられるような激痛が走る。あのお方の「正しさ」に愛され、称賛されればされるほど、自分が犯した罪の深さが底なしの暗闇となって広がっていく。


 ヨハンはそっと己の右手を見つめた。


 指先にこびりついた、没食子インクの黒い染み。洗っても落ちないその痕跡を抱え、職能への誇りと人間を殺したという確かな罪悪感の狭間に引き裂かれながら、ヨハンはもう二度と元には戻れない暗い道へと足を踏み出していた。

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