孵化する因習
車輪がぬかるみに嵌り込み、鈍い響きを残して止まった。
馬車の扉を開けた瞬間、胸を衝いたのは、湿った黒泥炭の重苦しい腐臭だった。そこに、煮つめた獣脂と長年燻された藁屋根のカビ臭、そして幾重にも折り重なった人間の粗悪な体臭が混ざり合い、粘り気のある空気となってまとわりついてくる。
ルード村は、まるで黒泥の海に沈みかけ、辛うじて浮き上がっている巨大な死骸のようだった。
傾いた家屋の壁は泥と葦を混ぜて塗られており、降りしきる鉛色の雨を吸って今にも崩れ落ちそうに黒ずんでいる。
「……役人様、よくぞ、よくぞお越しくださいました」
泥の中から這い出してきたかのような人物が、ぬかるみに膝をついた。ルード村の村長だった。
擦り切れた皮衣を纏い、泥にまみれた額を地面に擦りつける男の指先は、爪の中にまで黒い土が詰まり、荒れた肌はまるで枯れ木のように干からびている。村長が震える手で差し出してきたのは、煤と脂で汚れた古い羊皮紙の破片だった。
ヨハンは車上から降り立つと、上着の裾を泥から庇いながら、その羊皮紙を二本の指先でつまみ上げた。そこに記されていたのは、およそ帳簿と呼べる代物ではなかった。
『麦 三』『炭 ふたつ』
拙く歪んだ線描のような、文字とも記号ともつかぬ墨痕。数字の桁は揃っておらず、前年の納租額と今年の計算はまったく噛み合っていない。文字を知らぬ者が、昔の記憶と当て推量だけででっち上げた残骸だった。
王都の美しい図書館で学んだヨハンにとって、法と制度、そして正確な記録こそが人間を野蛮から救う唯一の秩序だった。ゆえに、この「記録」は行政に対する侮辱に等しかった。
「……計算が合わない」
ヨハンは冷ややかに言い放った。
「前年の繰越分が記載されておらず、納租の品目も様式から逸脱している。このような雑言を、監査に通せると思っているのか」
「申し訳ございません……なにぶん、この村には文字の書ける者がおらず……昔の役人様のお言いつけ通りに、残しておいたものでして……」
村長はひたすら身を縮め、頭を垂れるばかりだった。言葉の裏にあるのは悪意ではなく、ただ「文字」という概念に対する絶望的な無知だった。
「話にならん。各戸を回り、実態を私自身で検分する」
村長の後をついて泥の小道を歩き始めると、傾いた家々の隙間から、ひそやかな視線がいくつも突き刺さるのを感じた。
彼らにとって、ヨハンが手に抱える革の木箱と羊皮紙は、恵みをもたらす道具ではなく、自分たちの僅かな生活を奪い去る不吉な儀式のための道具に過ぎないのだ。
低く歪んだ鴨居を潜り、一軒目の家屋へ跨いだ瞬間、澱んだ熱気がヨハンの顔を叩いた。
土間は昼なお暗く、灰色の煙が天井の低く垂れ込めた萱にへばりついている。
「……戸別監査だ。世帯主を出してくれ」
薄暗がりに目が慣れるにつれ、土間の奥の腐草の山の上に、三つの影が膝を寄せて蹲まっているのが見えてきた。老女と、若い母親。そして母親の膝の間に挟まるようにして丸くなっている小さな子供だ。
気味が悪いほどの沈黙に耐えかね、ヨハンが一歩踏み出したとき、母親の肩が微かに跳ねた。彼女は両腕を胸の前で固く交差させ、衣類の合わせ目を覆い隠すようにして身を小さく丸めている。
その隙間から、何かが覗いていた。
山鶉の卵よりは大きく、鵞鳥のそれよりはわずかに小振りな、滑らかな球体。
泥の黒さとは異なる、漆黒の光沢を放っていた。表面には濡れたような皮脂の照りがあり、母親の痩せこけた鎖骨のすぐ下、生々しい肌の熱にじかに密着している。
「……それは何だ」
ヨハンは指先でその黒い固まりを指した。
「教義において不浄とされる禁忌の代物――『リュドベールツの卵』か。不浄の卵を身に抱く行為は厳しく禁じられている。直ちに提出しなさい」
だが、返ってきたのは呆気ないほどの無関心だった。
老女が深く刻まれた顔のシワを寄せ、濁った眼でヨハンを見上げた。
「……異端だなんて、そんな難しいことはわからねえよ、役人様。卵さ。温めておらんと、いかんのだ」
「温めるだと? なぜそんなものを肌に押し当てている」
「ばあ様も、その前のばあ様も、こうしていたんだ」
若い母親が、子供の頭を愛おしそうに撫でながら、ぼそりと呟いた。
「こうして温めておくと、冬になっても子供の手足が腐らんのだよ。……暖炉の薪も絶えた夜に、これを抱いておくと、子供が泣かずに眠る。昔から、この村じゃあそうして越してきたんだ」
「支離滅裂だ。卵が寒さを防ぐはずがない。それは迷信だ」
ヨハンは戸惑いを隠すように硬い声を張り上げたが、母親は返事をせず、そっと衣類の合わせ目を閉じた。
二軒目の家屋に入り、干し肉の備蓄を検分したときだった。
「……税として納めるべき干し肉が、台帳の計算より一斤少ない。誤魔化す気か」
ヨハンが帳簿の不備を突くと、対応した農夫は心底困惑したように首を振った。
「盗んじゃいません、役人様。その肉は、隣の家の子供に分けたのです」
「なぜだ。他人に蓄えを譲る余裕など、この貧村にあるはずがないだろう」
「あそこの家の卵が、まだ温まらないからです」
「……なに?」
ヨハンは思わず眉をひそめた。農夫は至極当然のことのように言葉を続けた。
「あそこの卵の温まりが遅くてねえ。卵が冷えりゃ、子供も家も参っちまう。卵を抱く家同士は、蓄えを分かち合わねばならんのです。昔から、そう決まっているのです」
ヨハンは言葉を失った。
ただの不吉な迷信ではない。卵を温めている者同士は血縁を越えて食料を分け合い、薪の絶えた極寒の夜、子供たちは胸元の卵の微熱にすがって暖をとる。
――卵は、共同体そのものを維持するための「制度」なのだ。
教会の定める「正義」に従ってこの卵を根こそぎ奪い去れば、食料の融通システムは崩壊し、互いの絆は途切れ、冬の夜に子供たちは凍え死ぬ。教会の提示する「正しさ」を徹底することは、この村の命脈をその手で直接絶つことに他ならなかった。
(そんな馬鹿な……)
濡れた羊皮紙を抱えたまま、ヨハンは激しい眩暈を覚えた。王都の正理と、黒泥の地に根を張る生の現実。その絶望的なまでの乖離の間に立たされ、ヨハンは己の携えてきた「正しさ」の暴力性に恐怖を感じ始めていた。
村の外れに位置する、一際不吉な傾ぎを見せる家屋へ足を踏み入れたときのことだった。
薄暗がりの奥、腐った藁の敷物の上に、痩せこけた小さな少女が一人で丸くなっていた。激しい咳き込みとともに落ち窪んだ胸を上下させ、細い腕で必死に抱え込んでいるのは、あの黒い卵だった。
少女の肌は病的な熱に浮いて赤く火照り、か細い指先は寒さと苦痛で紫色に強張っている。呼吸が途切れ途切れになるたび、その抱擁が緩んだ。
滑らかな照りを帯びた黒い塊が、子供の麻布の懐から滑り落ち、土間へと転がり落ちそうになる。
「あっ――」
ヨハンは無意識に両手を差し出していた。
かろうじて指先で受け止めた瞬間、手のひらを包んだのは、人間の体温とは質の異なる、ぬめりとした湿り気を帯びた「異様な熱」だった。ずっしりと手元に沈み込む、緻密で不自然な重み。
そして――。
コク、コク。
硬い外殻のすぐ裏側で、何かが規則正しく節を打つように叩いていた。
鳥の胎児が殻を割ろうとする動きにしてはあまりにも硬質で、冷徹な脈動。何かがその狭い殻の中で蠢き、熱を放ちながら息づいている。
「ひっ……!」
ヨハンは生理的な嫌悪感に喉を鳴らし、慌てて少女の膝の上へと卵を押し戻した。手のひらには、皮脂のぬめりと嫌な熱がねっとりとへばりついている。
少女はうろつかせる眼でヨハンを見上げると、弱々しい動作で再び黒い卵を胸元へ抱き寄せた。
少女の鼓動と卵の胎動が、再びひとつの脈打つリズムとなって土間に響き始める。
生物の生命感とも、鉱物の冷却反応ともつかない気味の悪い同調。これを引き剥がせば、少女の胸の鼓動も弾け飛んで止まってしまうという明確な予感が、ヨハンの背筋を凍らせた。
戸口で村長が、力のない声でぼそりと呟いた。
「……明日は、王都から大層な審問官様がお見えになるのでしょう」
村長の落ち窪んだ目には、怒りも絶望すらもなく、ただ底なしの諦念だけが宿っていた。
「役人様。この村のものは皆、知っております。あのお方様が来られれば、この卵は残らず取り上げられ、焼かれるのだと。……だけど、そうなったら、この子は次の満月を越せません。この村の冬は、人だけのぬくもりじゃあ、越せんのです……」
少女は静かに目を閉じ、黒い卵に頬を擦り寄せた。
ヨハンは、懐に収めた革の木箱に手を触れた。
中には、研ぎ澄ました羽ペンと、一文字の狂いもなく事実を書き記すためのインク瓶が入っている。明日、ガブリエルが到着すれば、自分はこの村で目撃したすべてを正確に報告しなければならない。『異端物品の所有、ならびに違法な因習の隠蔽』。羊皮紙の上にその事実を定着させることが、己の果たすべき聖なる正義のはずだった。
だが、手のひらに残る胎動の熱と、卵と命を分け合う子供の姿が、ヨハンの頭脳を強く締め付ける。
正しい記録を書くこと。
それは、この村の息の根を、己の筆先で直接止めることと同義ではないのか。
雨は留まることなく黒泥炭地を叩き続けていた。ヨハンは湿り切った羊皮紙を前に、生まれて初めて羽ペンを握る指先を激しく震わせ、立ち尽くしていた。




